短編
返却日の声
閉館後の図書館で返却処理をした古い一冊が、返されないまま残っていた声の行方を私に知らせる。
市立さざなみ図書館の返却ポストは、正面玄関の脇に埋め込まれている。口は低く、金属の蓋は重い。雨の日の翌朝にそこを開けると、濡れた紙と古い埃が混じった匂いが、暗い箱の底から息のように上がってくる。
私はその匂いが苦手だった。けれど臨時職員になって三か月、苦手だの何だのと言っていられるほど仕事は多くない。朝いちばんで返却物を回収し、バーコードを読み取り、傷みを確かめ、棚へ戻す。それだけで午前はきれいに消える。
あの本が混じっていたのは、梅雨の終わりの、よく晴れた火曜日だった。
薄い郷土資料だった。灰色の表紙に『水音町電話帳 昭和五十八年版』とある。こんなものを借りる人がいるのかと思いながら、いつものように裏表紙を開いたが、バーコードがなかった。古すぎて未登録の資料かと思い、奥付を見た。受入印も蔵書印もない。図書館の本ではないのに、背には確かに、うちの図書館で使っていた古い分類ラベルが貼られていた。
貸出票の袋だけが、妙に新しかった。
中に入っていたカードには、日付と名前が手書きで並んでいた。几帳面な丸文字だった。
六月三日 加納澄子
六月十七日 真鍋春雄
七月一日 野島和美
最後の行だけ、名前が書かれていなかった。今日の日付だけが、すでに記入されていた。
私はそのカードを、なぜかすぐに捨てられなかった。古い資料はときどき、寄贈本にいたずらで昔のカードが挟まっていることがある。そう自分に言い聞かせて、カウンター脇に置いた。
昼休みに、主任の篠田さんへ見せた。
篠田さんはカードを見るなり、「ああ」と小さく息を吐いた。そして本の表紙には触れず、まるで小動物を驚かせないような手つきで、私の方へ押し返した。
「それ、返ってきたの」
「返却ポストに入ってました。図書館の資料かどうかも怪しくて」
「閉館後に処理して」
「どうしてですか」
「利用者の前で開かない方がいいの」
冗談でも脅しでもない言い方だった。私は笑えず、「何かあるんですか」と聞いた。
篠田さんは少し考えてから、声を落とした。
「前にも一度あったの。私がまだ新人だったころ。担当した人が、数日で辞めた」
それだけ言って、篠田さんは別の利用者に呼ばれていった。
辞めた理由までは聞けなかった。けれど、午後のあいだじゅう、私はその灰色の本が視界の隅にあるのを意識していた。誰も触れていないのに、ページの間に湿り気がたまっているように見えた。表紙の角は摩耗して白くなり、何人もの手を渡ってきたはずなのに、不思議と汚れてはいなかった。むしろ、拭いすぎた遺影の額のように、妙に清潔だった。
その日の閉館は十九時だった。最後の利用者が出ていき、自動ドアの鍵を落とし、館内放送のスイッチを切る。蛍光灯を半分だけ残した閲覧室は、水の底のように青く沈んだ。
私はカウンターでその本を開いた。
電話帳には、町名と名字が並んでいるだけだった。だが、ところどころに赤鉛筆で丸がついている。開いたページの端に、細い字で書き込みがあった。
「いるときに、かけること」
別のページには、
「帰ったら切れる」
さらにめくると、
「返却日を過ぎると声が薄くなる」
意味がわからなかった。貸出票の文字と同じ筆跡に見えた。私はカードの名前を確かめようとして、検索端末を立ち上げた。加納、真鍋、野島。珍しくもない名字だが、この町の古い新聞記事データベースで絞ると、三人とも出てきた。
加納澄子、元朗読ボランティア。
真鍋春雄、移動図書館の運転手。
野島和美、臨時司書。
記事の内容は短い。いずれも「所在確認中」とだけあり、その後の記録がない。年代は違うのに、三人とも失踪した日の前日に、当館で勤務していた。
気づくと、館内のどこかで電話が鳴っていた。
いま使っている内線ではない。もっと鈍く、古いベルの音だった。二度、三度と、間を置いて鳴る。
さざなみ図書館の一階奥には、案内用の公衆電話が残されている。回線はもう切ってある。撤去費用が出ないから置きっぱなしになっている、緑色の電話機だ。
私は嫌な予感を覚えながら、奥の廊下へ出た。非常灯だけが点いていて、窓ガラスに私の影が薄く映っている。ベルは確かに、その公衆電話から鳴っていた。
受話器はちゃんと掛かっている。それでも、ベルは鳴り続けた。
私はその場で篠田さんに電話をかけようとした。だがスマートフォンは圏外でもないのに、画面の時刻表示だけを明るく浮かべて、どの操作にも反応しなかった。
ベルが止んだ。
代わりに、受話器の向こうから、かすかな話し声が漏れた。誰かがすでに出ているみたいに。
私は近づいた。受話器の縁には、古い指紋の曇りが何重にも残っていた。
出るべきではない、と頭のどこかでわかっていた。けれど逃げて明日の朝に持ち越す方が、よほど悪い気がした。図書館では、返却されたものを放っておくのがいちばん気持ち悪い。返すべき場所へ戻して、ようやく一日が終わる。
私は受話器を取った。
海の底みたいな雑音のあと、女の子の声がした。
「延滞のおしらせです」
録音のように平板だった。
「借りたままの声を、まだお返しいただいていません」
私は何も言えなかった。喉がからからに乾いていた。
「加納さんは、返そうとして遅れました」
「真鍋さんは、返す場所がわからなくなりました」
「野島さんは、自分の声だと思っていました」
そのたびに、電話帳のページが、ぱら、ぱら、と背後で勝手にめくれる音がした。振り返らなくてもわかった。カウンターに置いた本が風もないのに開いている。
「返却日は今日です」
その瞬間だけ、声が録音ではなくなった。耳もとで囁くような、生きた温度を帯びた。
「あなたのお母さんが、まだ待っています」
私は思わず受話器を落とした。
母は私が高校生のときに家を出た。失踪として扱われたが、事故にも事件にもならず、そのまま戸籍の上だけで生き続けている。私は大学進学を機にこの町を離れ、今年、父の死をきっかけに戻ってきた。母が図書館で働いていたことは知っていたが、短いパート勤めだったとしか聞いていない。
私は走ってカウンターへ戻った。電話帳は開いていた。赤い丸のついたページの余白に、いつのまにか新しい文字が増えている。
「かけ直してください」
その下に、市外局番のない七桁の番号が書かれていた。見覚えがあった。昔の実家の番号だった。もうとっくに解約されている。
私は図書館の固定電話を見た。かければいいのだと、直感した。わけのわからないものに従うのは愚かだとわかっていても、母のことを持ち出された以上、無視はできなかった。そうでなければ、これから先、ずっと考え続けることになる。
番号を押す。呼び出し音は一回で切れた。
「もしもし」
母の声だった。
十五年ぶりでも間違えようがない。低く、息を混ぜる話し方。私は名を呼びそうになって、できなかった。向こうも黙っていた。互いに相手が誰かわかっている沈黙だった。
やがて母が言った。
「まだ、そこにいるの」
背後で、返却ポストの蓋が重く閉まる音がした。閉館しているのに、誰かが本を返したような音だった。
「帰りなさい」と母は言った。「あの本は、声を借りた人の名前を書くの。話したいことがある人ほど、長く借りる。返さないと、だんだん自分の声が、自分のものじゃなくなる」
私はやっと声を出した。
「母さんは」
「返せなかった」
受話器の向こうで、小さく笑う気配がした。泣き笑いにも似ていた。
「あなたに話したいことが多すぎたの。だからだめだった」
電話が切れた。
同時に、館内のどこかで、また返却ポストの蓋が鳴った。ひとつではない。短く、乾いた音が、何度も、何人分も続いた。返し遅れた本が次々に落ちるような音だった。
私は電話帳を閉じ、貸出票を抜き取った。最後の空欄に、自分の名前を書こうとして、止まった。そんなことをしたら何かが決定してしまう気がした。
代わりに、返却印の日付スタンプを取り、今日の日付を強く押した。
赤いインクが、最後の行にだけ滲んだ。そこには空欄ではなく、最初からうっすらと文字が書かれていたのだと、そのとき気づいた。
私の名前だった。
印を押した途端、館内の音が消えた。空調も冷蔵庫も、遠くの車の走行音も。図書館全体が、水に沈んだように静かになった。
それから、返却ポストの中で、誰かが静かに言った。
「ありがとうございました」
私はその夜、本を事務室のいちばん下の引き出しにしまい、鍵をかけた。翌朝、篠田さんにすべて話した。篠田さんは驚かず、ただ私の顔を見て、「声、変わったね」と言った。
その日から、利用者に本の場所を尋ねられるたび、私は少し遅れて答えるようになった。口を開く前に、自分の声がどこから出てくるのか、確かめなければならないからだ。
閉館後、誰もいない館内で作業していると、ときどき返却ポストの蓋が鳴る。回収箱の中には何も入っていない。それでも私は、必ず中を覗く。
昨日の夜は、一枚の貸出票だけが落ちていた。
日付は明日。名前の欄は空白。
けれど筆跡のない余白に、薄く、私の声で読むはずの文が浮いていた。
「借りたままの言葉を、お返しください」