短編
返却口のない図書館
閉館を控えた古い図書館で、亡くした姉の言葉を返せずにいた司書補の女性が、返却口のない本棚を通して手放すことの意味を知る。
その図書館には、返却口がなかった。
正確には、正面玄関の脇に金属製の返却ポストがあったし、雨の日にはそこへ本を落とす乾いた音もした。ただ、二階の郷土資料室のさらに奥、元は倉庫だった小部屋には、返却口に見えて返却口ではない木の箱が据えられていた。壁に埋めこまれた古い投函口で、真鍮の札に小さく、誰が刻んだのかもわからない字でこうある。
返せないものはこちらへ
市立朝汐図書館は、夏の終わりに閉館することが決まっていた。耐震基準だの統廃合だの、理由はいくつも掲げられていたけれど、利用者たちはみな「古いからねえ」と言って、納得した顔を作った。古い建物には、人を諦めさせる静けさがある。
私は臨時職員として、閉館準備のために雇われていた。名札には「三崎 澪」とある。司書ではなく、司書補でもなく、事務補助。やることは蔵書の整理、廃棄本の仕分け、返却督促の電話、時々、泣きそうな利用者の話し相手。
その小部屋のことを最初に教えてくれたのは、定年間近の館長だった。
「昔からあるのよ」と館長は言った。「何を入れる場所なのかは知らない。でもね、ここに何か入れていく人は、少しだけましな顔で帰るの」
笑っていたが、本気で言っていた。
箱の裏側を見ようとしても、壁の向こうに出口はない。改修図面をめくっても、投函口の先は空白になっていた。大工のいたずらか、誰かの信仰か、あるいは図面のほうが後から負けたのか。いずれにせよ、朝になると箱の中身は消えていた。
私は最初、その仕掛けを疑った。館長か誰かが夜のうちに回収しているのだろうと思った。でも、館長は膝を悪くして階段を上れないし、警備会社の記録にも人の出入りはない。それでも中身はなくなる。
なくなること自体は、この図書館では珍しくなかった。利用者の数、予算、本棚の影、窓辺の鉢植え、貸出カードに押される日付の間隔。何かが少しずつ減っていく場所で、ひとつだけ余計に消えるものがあっても、驚くほどではないのかもしれなかった。
その箱に最初に何かを入れるところを見たのは、毎週火曜日に新聞縮刷版を読みに来る老人だった。彼はいつも手を洗ってからページをめくる律儀な人で、閉館の知らせを聞いた日だけ、珍しく縮刷版ではなく、薄い文庫本を胸に抱えていた。
「返しに来たんですか」と私が尋ねると、老人は困ったように笑った。
「借りた相手が、もういないんでね」
そう言って、小部屋へ入っていった。戻ってきたとき、彼の手は空だった。いつもみたいにきっちり背筋を伸ばしてはいなかったが、顔色は妙に明るかった。
「どんな本だったんですか」
「料理の本だよ。女房が買って、わたしにだけ貸してくれた。これを見て卵焼きを作れるようになったら、一人前って」
彼はそこで少し笑い、少し黙った。
「結局、焦がさない作り方だけ覚えて、返しそびれた」
その日の帰り際、老人は受付カウンターに寄って、「ありがとう」と言った。私に言ったのではないとわかっていたが、私は頭を下げた。
それから時々、箱に何かを入れていく人を見るようになった。修学旅行のしおりを畳んで入れる高校生。茶封筒ごと差しこむ女の人。片方だけの手袋を、ずいぶん考えてから置いていく中年の男。誰も詳しく説明しない。説明しないまま、少し軽くなった歩き方で帰っていく。
私は何も入れなかった。
入れるものが、はっきりしすぎていたからだ。
姉の言葉だった。
三つ上の姉、汐里は、笑うときだけ肩をすぼめる癖があった。私が泣いていると飴をひとつ口に放りこんで、「だいじょうぶ、あとで笑えるよ」と言った。根拠のない慰めだったが、不思議とその通りになった。体育祭で転んだ日も、受験に落ちた夜も、恋人に振られた帰り道も、姉は同じ言葉をくれた。
二年前、その姉が病気で死んだ。
最期の一ヶ月、私は見舞いにほとんど行けなかった。仕事が忙しかったのではない。ただ、病室で姉の痩せていく輪郭を見るたびに、自分の中の何かまで細っていく気がして、逃げていた。葬儀の日、棺に花を入れながら、伯母が「汐里ちゃんは最後まで明るくてねえ」と泣いた。私は泣けなかった。姉の明るさを、私は借りたまま返していないと思ったからだ。
それからずっと、私は困るたびに姉の言葉を使った。だいじょうぶ、あとで笑えるよ。心の中で唱える。唱えればその場はやり過ごせる。けれど使うたび、誰かのカードで買い物をしているような後ろめたさが残った。
閉館まであと十日になったころ、資料室の整理中に、古い貸出カードの束が出てきた。まだバーコード化される前の、紙のカードだ。利用者名の欄に、見覚えのある字を見つけて、私は息を止めた。
三崎 汐里
小学生のころの姉のカードだった。借りた本の欄には、『海辺の植物図鑑』『みじかい詩の本』『だれかのための手紙の書き方』。最後の一冊の返却印だけが、押されていない。
そんなはずはないと、何度も見返した。未返却のままなら督促の記録が残るはずだし、そもそも姉は本を返し忘れる人ではない。けれどカードには、確かに空欄があった。
その夜、私は閉館後の暗い館内を一人で歩いて、二階の小部屋へ上がった。窓の外では、海からの風が街路樹を撫でていた。投函口の前に立つと、急に喉が渇いた。
返しそびれたのは、本じゃない。
わかっていた。
私が返せなかったのは、姉がくれた時間だった。叱られた夜に黙って隣に座ってくれたこと、受験票を忘れた朝に自転車で追いかけてきたこと、私より先に泣いてくれたこと。そういうもの全部を、私は受け取るだけ受け取って、ちゃんとありがとうも言えないまま大人になってしまった。
ポケットに、何日も折りたたんで持ち歩いていたメモがあった。書いては破り、書いては捨てて、最後に残った一枚だった。
姉へ。
あなたの言葉を、ずっと借りていました。
もう返せないと思っていたけれど、
返せないものにも、置いていく場所があるなら。
そこまで書いて、私は続けられなかった。感謝も後悔も、言葉にした途端、ずいぶん安くなる気がしたからだ。私はメモを細く折って、投函口に差し入れた。指先を離す瞬間、体のどこかがひどく冷えた。
紙は、落ちなかった。
吸いこまれるように、消えた。
小さな音も立てず、最初から何もなかったように。
私はしばらくその場に立ち尽くしていた。それで終わりのはずだったのに、投函口の下の床に、ひらりと何かが落ちた。拾い上げると、古い貸出カードだった。さっき見つけた姉のものに似ていたが、紙の色がもっと新しい。表に何も書かれていない。裏返すと、返却日の印だけがひとつ、赤く押してあった。
今日の日付だった。
思わず笑ってしまった。呆れたような、泣き笑いのような声が出た。返却完了、ということなのだろうか。図書館らしいやり方だと思った。誰が判を押したのかは知らない。知らなくてよかった。
翌朝、老人がまた来た。縮刷版を開く前に、私の顔を見て「ああ」と言った。
「あなたも、置いていけた顔をしてる」
「顔に出ますか」
「出るよ。人が少しだけ救われたときの顔は、案外似る」
私は返事の代わりに、受付の引き出しから一枚の紙を出した。閉館準備で出た端紙に、昨夜のうちに書いたものだ。
おかえり棚
返せないもののための場所
館長に見せると、眼鏡の上からじっと読んで、「いいわね」と言った。「なくなる前に、ひとつ増やせるなら、そのほうが図書館らしい」
閉館の日までの一週間、小部屋の前には小さな列ができた。みな静かに待ち、自分の番が来ると、誰にも見せたくないものを胸から出して、投函口へ入れていった。手紙、本、写真、鍵、名前の消えかけた会員証。中には何も持たずに入って、空の手で出てくる人もいた。
それで十分なのだと、私は思った。
最終日、館内放送が流れ、拍手が起き、古い時計が午後五時を打った。利用者が帰り、館長がシャッターを下ろし、職員たちが順番に頭を下げたあと、私は最後に二階へ上がった。
もう箱に入れるものはなかった。
その代わり、姉の未返却印のあった貸出カードをそっと投函口の横へ置いた。返すのではなく、並べておくために。借りたものが消えるのではなく、かたちを変えて残るのだと、今なら少しわかる。
姉の言葉は、もう借りものではなかった。
だいじょうぶ、あとで笑えるよ。
そう心の中で言ってみる。すると今度は、誰かの声を真似している感じがしなかった。私の喉の奥で、私の息に温められた言葉だった。
閉館した図書館の外に出ると、海の匂いがした。夕暮れの道路を、小学生の姉妹が手をつないで走っていく。妹がつまずき、姉が振り返り、何かを言う。聞こえなかったけれど、たぶん悪くない言葉だろうと思った。
私は笑った。
ちゃんと、あとで笑えたのだ。