短編
返却口の栞
忘れていく人に届く言葉を、図書館の返却口から受け取った司書補が小さく手渡し直す話。
町立図書館の返却口は、雨の日だけ少し人間くさくなる。
濡れた傘の匂い、しめった紙の匂い、制服の袖で急いで拭われた水滴。金属の口から吐き出される本は、晴れの日よりもたいてい遅れていて、持ち主のためらいをそのまま挟み込んでいるように見えた。
閉館十分前、私は返却ポストの中身を台車に移していた。文庫、料理本、古い旅行記。いちばん下から、薄い詩集が一冊出てきた。ページのあいだに、細長い紙片が挟まっている。レシートではなく、図書館の貸出票でもない。クリーム色のメモ用紙を、几帳面に定規で切ったような栞だった。
「洗いたてのシーツは、最初だけ海に似ている」
鉛筆で、そう書いてあった。
私はそれを抜き取り、カウンターの引き出しに入れた。私物を本に挟んだまま返す利用者は珍しくない。けれどその字は、忘れ物にしては妙に落ち着いていた。誰かに読まれることを、少しだけ見込んでいる字だった。
それから一週間で、同じ字の栞を四枚見つけた。
「朝のパンの袋を開ける音は、小さい駅の改札に似ている」
「冬のガラスを拭くと、向こう側の人が少し若く見える」
「待っているあいだに、人は待っている相手に似てくる」
「土星の輪は、なくなったように見えても、角度で見えないだけ」
規則では廃棄していい。個人情報でも連絡票でもないから、わざわざ保管する必要もない。けれど私は捨てられず、輪ゴムで留めて引き出しの奥にしまった。言葉というより、誰かの生活の切れ端に思えたからだ。
雨の火曜日、開館してすぐに年配の男性が入ってきた。背の高い人だったが、濡れたコートを脱ぐ仕草が妙に小さかった。受付の前で何度かポケットを探り、予約票を出そうとして、代わりに鉛筆の芯の欠片を落とした。
「すみません」と彼は言った。「本をお願いしたくて。星の写真が多いのが、いいんです」
声は低いのに、急いでいなかった。誰かに聞かせるための本を選ぶ人の声だった。
検索端末で候補を出しながら、私はつい訊いてしまった。
「土星の本ですか」
彼は顔を上げた。驚くほど静かな目だった。
「ええ。どうして」
「返却された本に、似た言葉が挟まっていて」
言いかけてから、規則違反のような気がして口をつぐんだ。しかし彼は咎めるでもなく、濡れた髪を指先で整えながら小さく笑った。
「妻が、土星を好きだったんです」
私は黙って続きを待った。
「好きだった、というか、まだ好きなのかもしれません。最近は、何をどこまで覚えているのか、本人にもわからないらしいので」
彼は図書館の窓の向こうを見た。駐輪場のアスファルトに細い雨が立っている。
「同じ話を何度しても、初めて聞くような顔をします。でも、ときどき変なところだけ残るんです。パンの袋の音とか、駅の匂いとか、そういう、筋にも役に立たないものだけ」
「それで栞を?」
「読んでいる途中で、思い出してくれたらと思って。物語そのものは忘れても、手触りみたいなものが残るかもしれないでしょう」
彼はそう言ってから、少し申し訳なさそうに会釈した。
「本に挟んだまま返してしまうことがあって。よくないとわかっていたんですが」
「いいえ」と私は言った。「困ってはいません」
それは半分、嘘だった。困っていなかったわけではない。ただ、困るより先に、救われるような気持ちになっていた。
彼の名は柴田だった。海沿いの介護施設に奥さんがいて、週に二度、図書館で借りた本を読みに行くのだという。物語を読むときは、途中に自分の短い文章を挟む。次のページへ行く前に息をつくためでもあり、奥さんがいまどこにいるのかわからなくなったとき、現実に戻るための目印でもあるらしかった。
「栞みたいなものです」と彼は言った。
「本当の栞ですね」
「いいえ。あれは、帰り道のための紐みたいなものです」
私は写真の多い天文の本を三冊用意した。彼はそのうちいちばん薄いものを選んだ。長い物語より、短い驚きのほうが今の奥さんには届きやすいのだと、借用書にサインしながら言った。
その翌週から、柴田さんは来なかった。
二週間後、予約取り置きの棚に残ったまま期限を過ぎた本を片付けていると、彼の名前を見つけた。連絡先に電話をかけると、介護施設の職員が出た。柴田さんは風邪をこじらせて入院し、しばらく外出できないのだという。奥さんも落ち着かず、本を読んでもらえない日が続いているらしかった。
規則では、そこで終わりだ。取り置きを解除して棚へ戻す。それだけのことだった。
私は本を戻しかけて、やめた。ページのあいだに、まだ何も挟まっていないのを見たからだ。誰かが途中に置くはずだった目印が、欠けたままになっている気がした。
閉館後、私はメモ用紙を細く切った。定規でまっすぐに。鉛筆を削り、少し考えてから一行だけ書いた。
「なくしたのではなく、いま見えないだけのものもある」
翌日の休みに、その本を持って海沿いの施設へ行った。私用で本を届けるのは褒められたことではない。けれど言い訳を用意するほど、大それたことだとも思わなかった。
奥さんは食堂の窓際にいた。白いカーディガンを着て、雨上がりの海を見ていた。職員に事情を話すと、彼女は私の顔より先に本の表紙を見た。
「星ね」と彼女は言った。
「お好きだと聞きました」
「そうだったかしら」
私は向かいに座り、本を開いた。土星の輪の写真のページに、あの栞を挟んである。声に出して説明文を読み、次に栞の一行を読んだ。
彼女はしばらく黙っていた。窓の外で、雲の切れ目に淡い光が差した。海は鉛色のままなのに、その上にだけ白い筋ができた。
やがて彼女が、ほとんど独り言のように言った。
「見えないだけ、って、あの人もよく言うの」
私は本を閉じずにうなずいた。
「駅を出ると、右に海があるって」
その言葉を聞いたとき、引き出しの中の細い紙片たちが、いっせいにこちらを向いた気がした。すべてを思い出したわけではないのだろう。名前も年月日も、たぶん曖昧なままだ。けれど何かは届いたのだと思った。筋ではなく、手触りのほうが。
帰り際、彼女は私に訊いた。
「あなた、ここの人?」
「図書館の者です」
「ああ。じゃあ、また栞を持ってきて」
私ははい、と答えた。
翌週、図書館の返却台の端に小さな箱を置いた。厚紙に手書きで、「次の読者へ、一行だけ」と書いた。投書箱でも感想ノートでもない。ただ、本と本のあいだに挟めるほどの短さで、誰かへ渡せる言葉を入れる箱だった。
最初に入っていたのは、子どもの字で書かれた一枚だった。
「雨のにおいは、まだ帰ってこない人の靴みたい」
私はそれを読み、そっと箱の底に置いた。返却口の金属は今日も冷たかったが、その向こうには、濡れたまま手渡されるものが確かにあるのだと思えた。