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短編

開かない鍵

開かなくてもいい鍵を求めた老女とのやり取りを通して、青年は場所に別れを告げるための手つきを知る。

Genre
現代文芸
Series
単発
#鍵#記憶#姉妹#喪失#商店街

商店街のいちばん端にある鍵屋は、雨の日ほど静かだった。
濡れたアスファルトの匂いが自動ドアの隙間から細く入り込み、店の奥ではキーカッターの刃が、仕事を待ちながら薄く油の匂いを立てている。私はその匂いが嫌いではなかった。鉄は冷たいくせに、長く触れていると手の熱を覚える。鍵も同じで、持ち主の癖を少しずつ写し取る。

その日、午後の三時を少し過ぎたころ、一人の老女がやって来た。紺色の傘をきちんと畳み、濡れた先端を店の外で二度払ってから入ってきたので、私はその几帳面さだけで、この人は何か大事なものを持ってきたのだとわかった。

「合鍵をお願いしたいんです」

差し出されたのは、真鍮の古い鍵だった。頭の輪が少し歪み、刻みも摩耗して丸くなっている。今ではあまり見ない種類で、うちでも blank が残っているかどうか怪しかった。

「同じ型を探してみます」

私は受け取って、作業台のライトの下へ持っていった。番号は掠れ、メーカー名も半分消えている。複製できないことはないが、精度は保証しにくい。そう伝えようとしたとき、老女が静かな声で言った。

「開かなくてもいいんです」

私は顔を上げた。

「え?」

「形が同じなら、それで」

いたずらでも冗談でもない調子だった。私は職業柄、開かない鍵を作る意味がすぐには飲み込めなかった。鍵は開けるためにある。少なくとも、店ではそういう前提で扱っている。

「どういうご用途ですか、と聞くのは野暮かもしれませんが」

老女は少し笑った。笑うと、口元だけに年齢が出た。

「返したいんです。姉の部屋の鍵を」

彼女はそう言って、作業台の前の丸椅子に腰を下ろした。外の雨は細く続いていた。話の続きを促すように、店先の風鈴が一度だけ鳴った。

「姉と私は、若いころ同じ町に住んでいて、互いの部屋の合鍵を持っていたんです。何かあったとき困らないようにって。けれど、十年くらい前に喧嘩をして、それきりになりました」

喧嘩の理由は、今となってはひどく小さいのだという。実家を畳むとき、母親の箪笥を残すか処分するかで言い合った。どちらも母親を思っていたのに、自分のやり方のほうが正しいと思い込んで、引けなくなった。ただそれだけのことが、年を取った姉妹には長く尾を引いた。

「姉が亡くなったのは二年前です。部屋はそのままにされていたんですけど、今月で取り壊しになるそうで」

老女はそこで言葉を切った。私は黙って鍵を指先で回した。真鍮の縁が、長い時間を吸ってすこし柔らかくなっている。

「私はこの鍵を返さないまま、ずっと持っていました。勝手に入っていける人間のまま、姉がいない時間を過ごしてしまった気がして」

「でも、もう部屋は……」

「ええ、もうありません。だから、開く必要はないんです」

彼女はまっすぐ私を見た。

「同じ重さのものを、返したいだけなんです」

店の時計が四時を打った。商店街の向かいの八百屋が雨避けのビニールを引き下ろす音がした。私は作業台の上に鍵を置き、奥の棚から古いブランクキーの箱を引っ張り出した。

「少し時間をください。ぴったりではなくても、近いものなら作れると思います」

老女は深く頭を下げた。「急ぎません」と言いながら、結局その日から三日続けて店に来た。受け取りの確認というより、進み具合を見に来る口実で、彼女は少しずつ姉の話をした。

姉は朝が弱く、いつもパンを焦がした。洗濯物の干し方が下手で、よく片袖だけが裏返っていた。金木犀の季節になると、安い石鹸をいくつも買い込んだ。そんな瑣末なことを、老女は慎重に並べた。仲直りのきっかけになり得たはずの、ほんの小さな会話の欠片を拾い直すように。

私は黙って聞きながら、鍵を削った。摩耗した山の高さを読み、残った癖を写す。開くことを目指さない鍵を作るのは初めてだったが、だからこそ私は妙に真剣になった。役に立たないとわかっているものほど、手仕事は正直になる。

三日目の夕方、私は一本の鍵を布の上に置いた。元の鍵より少しだけ新しい光を持ちながら、輪の歪みまで似せてある。老女はそれを持ち上げ、目を閉じた。重さを確かめる人の顔だった。

「これでいい」

彼女はそう言ってから、躊躇いがちに尋ねた。

「もしお暇なら、明日、付き合っていただけませんか。私一人だと、たぶん少しだけ立ち止まりすぎるので」

翌日、雨は上がっていた。取り壊し前の古いアパートは、川沿いの道を少し入ったところにあった。薄いクリーム色だった外壁は、年月のせいでほとんど灰色に見える。ベランダの手すりにはもう洗濯物も鉢植えもなく、空気だけが住み残っていた。

一階の郵便受けは外され、入口には工事の日程が貼ってあった。立入禁止の札の脇で、老女はバッグから二本の鍵を取り出した。古いほうと、新しいほう。姉と自分、みたいですね、と彼女は小さく笑った。

「姉はね、植木鉢の下に合鍵を隠すなんて危ないって、ずっと言っていたんです。だから、メーターボックスの裏に磁石の小さなケースを貼って、そこに入れていたの」

彼女は入口脇の金属箱の裏に手を回した。錆びた磁石のケースが、まだそこに残っていた。蓋を開けると中は空だった。長いあいだ、何も待っていなかった空間。

老女は私の作った鍵をそこへ入れた。蓋を閉じ、指で一度だけ押さえた。

「これで、返せました」

声は明るくも悲しくもなく、乾いていて、それでもどこかやわらかかった。私はその横顔を見ながら、返すという行為は相手に届くことではなく、自分の中の立場を終えることなのかもしれないと思った。

老女は古いほうの鍵を掌に残したまま、しばらくアパートを見上げていた。やがて私に向き直る。

「こっちは持っていてもいいでしょう。返したかったのは、入っていける権利のほうだから」

帰り道、彼女は何度も礼を言った。私はうまく答えられず、商店街の入口で会釈だけして別れた。

その夜、店を閉めたあと、私は引き出しの奥を探した。古い鍵が一本、輪ゴムとレシートに紛れて出てきた。実家の鍵だった。父が亡くなり、母が施設に移って、家を売ったとき、私は新しい持ち主に鍵を渡しながら、これはもういらないと思ってポケットに入れたのだ。捨てるでもなく、返すでもなく、ただ残していた。

最近、母は面会のたびに「家の鍵、なくしてない?」と聞く。私はそのたびに「もう大丈夫」と曖昧に笑っていた。何が大丈夫なのか、自分でもわからないまま。

私は作業台に実家の鍵を置いた。開くかどうかではなく、母の手が覚えている重さに似たものを、一本作れないだろうかと思った。帰るためではない。帰れないことを、もう少し静かに受け取るために。

キーカッターのモーターを入れると、夜の店に低い唸りが満ちた。火花は出ない。ただ、金属の粉だけが細かく降り、机の上でひそかな光を集めた。私はその光の中で、いまはもう開かない扉の形を、ゆっくりとなぞり始めた。