短編
インターホンの向こう側
古い団地に越してきた女性が、鳴るはずのないインターホンの声に少しずつ生活を侵されていく短編ホラー。
引っ越しの初日、真白は荷ほどきの途中でインターホンに出た。
平日の昼下がりだった。段ボールの底で皿が触れ合う乾いた音、窓の外を洗濯物の影がゆっくり揺れていく気配、そのどれもが新しい部屋の輪郭をまだ曖昧にしていた。そんな中で、玄関脇の受話器が甲高く鳴った。
真白は反射的に受話器を取った。
「はい」
しばらく、何も返ってこなかった。
雑音とも息づかいともつかない、ごく薄いざらつきだけが耳に触れた。古い回線なのだろうかと思い、もう一度「はい」と言い直したところで、かすかな声がした。
『……そこ、寒くない?』
女の声だった。年齢のわからない、低くも高くもない声。
「どちらさまですか」
問い返した途端、通話は切れた。
ドアスコープを覗いたが、誰もいなかった。外廊下には西日が差していて、向かいの棟のベランダが白く光っているだけだった。
古い団地だし、配線の具合だろう。あるいは前の住人宛てのいたずらかもしれない。真白はそう片づけて、開けかけの段ボールへ戻った。
だがその夜、キッチンの吊り戸棚に食器をしまっていると、また鳴った。
今度は二回、短く。
受話器の向こうで、同じ声が言った。
『まだカーテン、閉めないほうがいいよ』
真白の手が止まった。反射的に居間を振り返る。レースのカーテン越しに、団地の中庭が青黒く沈んでいる。窓にこちらの部屋の明かりが映り、その向こうはよく見えない。
「誰ですか」
『見えなくなるから』
そこでまた切れた。
さすがに気味が悪くなって管理人室へ行ったが、夕方以降は不在だった。翌朝、出勤前に立ち寄って事情を話すと、管理人の老女は困ったように眉を寄せた。
「故障かねえ。ここ、たまに呼び出し音だけ鳴ることはあるけど、声まで聞こえるのは珍しいねえ」
「前の住人の方に、何か」
そこまで言って、真白は口をつぐんだ。老女の顔色がわずかに変わったからだ。
「あの部屋、少し空いてたのよ」
「何かあったんですか」
「何かってほどじゃないけど……奥さんが一人で住んでて、急に出ていったの。挨拶もなくね。家具もだいたい置いていったから、ご家族が後で片づけに来たけど」
それだけ言って、老女はそれ以上を話さなかった。
真白の部屋には、備えつけの小さな食器棚と、洗面所の曇った鏡だけが古びて残っていた。前の住人の痕跡らしいものは、それ以外ほとんどなかった。
ただ、夜になると、部屋は妙に冷えた。
外気が入り込むような隙間はないはずなのに、玄関から居間へ抜ける短い廊下だけが、いつも温度を一段落としていた。靴下越しの足裏が、廊下に出るたびひやりとした。
そしてインターホンは、決まってその廊下にいるときに鳴った。
『そっちじゃない』
『まだ開けないで』
『今日は帰ってきたのが早いね』
気づけば、声は真白の生活の細部を知っていた。
最初は監視されているのかと思った。向かいの棟から見えるのかもしれない。だが、夜の十一時に帰宅した日も、雨でずぶ濡れになって洗面所へ駆け込んだ日も、シャワーを止めて廊下へ出た瞬間に鳴る。外から見えるはずのない場面ばかりだった。
真白は受話器を外してみた。金具から持ち上げて、コードだけの状態にしておいた。けれど翌朝、顔を洗っていると、玄関のほうからあの呼び出し音が鳴った。受話器は床に垂れたままだったのに。
気味の悪さは、恐怖というより、生活の中に針が一本紛れ込んだような不快さだった。食事をしていても、髪を乾かしていても、眠ろうと目を閉じても、あの声が「今なら呼べば出る」とどこかで待っている気がした。
ある夜、真白は意を決して言った。
「用があるなら、下から上がってきてください」
受話器の向こうで、小さく笑う気配がした。
『上がれないの』
「じゃあ、誰なんですか」
『いたでしょう、前に』
その返答に、心臓が一度だけ強く脈打った。
『あの人も最初は、よく出てくれた』
「前の住人の人?」
『寂しい人だった。夜になると、ずっと廊下に立ってた』
真白は無意識に、自分の立っている場所を見下ろした。冷えた廊下の板の上に、裸足がある。
『でもね、窓を開けるようになってから、だめになった』
「何が」
返事はすぐに来なかった。代わりに、受話器の奥でかすかな風の音がした。遠いところを抜けてくる、細く乾いた風の音だった。
『来るから』
その夜、真白は初めて部屋中の窓を確かめて回った。鍵はかかっていた。もちろん、何もいなかった。外には団地の無数の窓が並び、そのいくつかに明かりが灯っているだけだった。
それでも、カーテンの隙間が気になって眠れなかった。
数日後のことだった。
仕事から帰ると、玄関ドアの内側に細い紙片が落ちていた。白いメモ用紙を裂いたような切れ端で、青いボールペンでひと言だけ書いてある。
きょうは出ないで
真白は息をのんだ。朝、部屋を出るときには絶対になかった。誰かがこの部屋へ入ったのだ。
警察を呼ぶべきだ、と思った。だがその考えは、背後で鳴り出したインターホンの音で霧散した。
二回、短く。
受話器を取ると、あの声が囁いた。
『いる』
真白は固まった。
「どこに」
『ベランダ』
喉が鳴った。部屋は静かだった。静かすぎて、冷蔵庫の低い唸りと、自分の呼吸だけがやけに大きい。
『カーテン、見ないで』
声は初めて、はっきりと怯えていた。
『音を立てないで。電気もつけないで』
真白は玄関に立ったまま、居間のほうを見た。暗い部屋の奥、レースカーテンが夜の色を含んでぼんやり浮かんでいる。風はない。なのに、その裾だけが、ごくゆっくりと揺れた。
誰かいる、と思った瞬間に、全身の血が引いた。
『前の人はね』
声が言った。
『私の言うことを、だんだん聞かなくなったの』
真白は受話器を握りしめたまま、声も出せなかった。
『だから、代わりに私が見てた』
「……あなたは、誰」
問いは震えていた。
しばらく沈黙が続いた。玄関の小さな明かりだけが、靴箱の角を照らしている。
やがて声は、少し考えるようにしてから答えた。
『下の部屋』
意味がわからず、真白は瞬きをした。
『もうずっと、誰も住んでない下の部屋。あそこ、前から空いてるでしょう』
真白は思い返した。引っ越しの日、ポストを見たとき、一階下の同じ号室には確かに名札がなかった。
『私は窓から見えるの。上の部屋の、ベランダも、廊下も。昔から』
「……それ、人じゃなくて」
『うん』
妙に素直な返事だった。
『だから上がれない。呼ぶことしかできない』
カーテンが、今度はもう少し大きく揺れた。内側から、誰かが指先でめくろうとしてやめたみたいに。
『ねえ』
受話器の向こうの声が、ひどく静かに言った。
『今から玄関を開けて、外へ出て。鍵は置いていっていいから』
「外に出たら、どうなるの」
『それは知らない』
あまりにも正直で、真白は一瞬だけ笑いそうになった。笑えるはずもないのに、極度の恐怖は時々、感情の継ぎ目を壊す。
『でも、ここにいたら入ってくる』
居間の奥で、かすかな音がした。
サッシに爪を立てるような、細く硬い音。
真白はようやく身体を動かした。受話器を肩と頬ではさみ、鍵を抜き、ドアノブに手をかける。金属の冷たさが、生きているものみたいに掌へ張りついた。
『静かに』
声に従って、真白はドアを少しだけ開けた。外廊下の非常灯が、緑がかった弱い光を差し入れる。
その時、居間のほうで、がたん、と大きな音がした。
何かがカーテンにぶつかったのだとわかった。
真白は息を止めて外へ滑り出た。裸足のまま廊下へ出て、そっとドアを閉める。閉まる寸前、部屋の暗がりの中で、白っぽいものが床を這うように動いたのが見えた気がした。大きさも形もわからなかった。ただ、人が入ってくる動きではなかった。
鍵を回す手が震えた。うまく差し込めない。
『だめ、もういい』
受話器の向こうで声が言った。
『階段へ行って』
真白は鍵をあきらめて走った。受話器はいつ切れたのかわからない。階段を一段飛ばしで下り、踊り場でようやく振り向くと、自分の部屋のドアは閉まったままだった。廊下は静かで、何も追ってきてはいない。
そのまま一階まで下り、管理人室の前でへたりこんだ。膝が立たず、呼吸ばかりが浅く速かった。
朝までそこで待って、管理人に事情を話した。警察も呼ばれた。部屋を調べてもらったが、ベランダにも室内にも侵入の痕跡は見つからなかった。割れたものも、盗まれたものもない。ただ、居間のカーテンだけがレールごと床に落ちていた。
「古くなってたんでしょう」
警官はそう言った。
真白はその日のうちにホテルへ移り、翌週には部屋を引き払った。違約金はいらないと管理人が言った。あの老女は最後まで、真白の目をまっすぐ見なかった。
それから半年後。
真白は別の街の、オートロック付きの新しいマンションで暮らしている。モニター付きのインターホンは鮮明で、宅配業者の制服の色までわかる。廊下が冷えることもない。夜に窓が鳴ることもない。
なのに、時々、料理をしている最中や、歯を磨いている最中、ふいに呼び出し音が聞こえた気がして手を止めることがある。
もちろん鳴っていない。
それでも癖で、受話器に手を伸ばしそうになる。
昨日の夜もそうだった。
真白はスマートフォンを充電器につないだまま、しばらく画面を見つめていた。着信も通知もない黒い画面に、自分の顔だけが映っている。
何気なく、その黒い画面を傾けたとき、背後の窓が映りこんだ。
十階のはずの窓の外に、誰かの顔があった。
暗くて輪郭は見えない。ただ、レースカーテン越しに、こちらを見ている薄い楕円だけがある。
真白の指が凍りついた。
その瞬間、スマートフォンが震えた。
非通知。
出るつもりはなかった。それなのに、気づけば指先が画面をなぞっていた。
耳に当てると、あの声がした。前より少し遠く、少し弱い声だった。
『ごめんね』
窓の向こうの顔が、ゆっくり近づいた。
『そこまでは、見えない』