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短編

壁の向こうの返事

古い団地に越してきた女が、薄い壁の向こうから届く奇妙な返事に少しずつ日常を侵食されていく話。

Genre
ホラー
Series
単発
#団地#隣人#壁#孤独#怪異

引っ越してきたその夜、わたしは隣の部屋の人に挨拶をしたつもりだった。

段ボールを三つほど開けたところで、壁が一度だけ、こん、と鳴ったのだ。古い団地ではよくある音なのだろうと思った。けれど、あまりに間のよい音だった。わたしが独り言のように「疲れた」とこぼした直後だったからである。

こん。

「うるさかったかな」

そう言って、わたしはまだカーテンも吊っていない窓のほうを見た。返事はない。だが、しばらくしてまた壁が鳴った。

こん。

まるで、いいえ、と言われた気がした。

築四十年を越えた五階建ての団地は、夜になると音の輪郭だけが残った。風呂の排水、上階の椅子を引く音、遠いくしゃみ。生活というものはこんなにも小さな衝撃の積み重ねなのだと、あらためて知った。以前のアパートでは隣人の気配すらなかったから、壁の向こうに誰かいるという事実は、かえって心を落ち着かせた。

離婚して半年が過ぎていた。ひとりで部屋を借り、ひとりで食器を揃え、ひとりで眠る。誰にも説明しないで済む生活は静かだったが、静かすぎる日もあった。だから、壁一枚向こうに他人の暮らしがあるのは、思っていたより救いだった。

二日目の夜、わたしはカップ麺の蓋を押さえながら、何とはなしに話しかけた。

「隣の人、いますか」

間を置いて、こん、と返ってきた。

たまたまだろうと思いながらも、わたしは少し笑った。

「わたし、宮本っていいます」

こん。

「よろしく」

こん、こん。

それは、どこか不器用な返礼に聞こえた。

それからしばらく、わたしは壁に向かって短い言葉を投げるようになった。帰宅したときの「ただいま」、眠る前の「おやすみ」、仕事で失敗した夜の「最悪」。すると、向こうは必ず何らかの返事をした。ひとつ、あるいはふたつ。ときには、こちらが黙っているのに、寝返りを打つ頃合いを見計らったように、こん、と気遣うような音を送ってきた。

姿も名前も知らない隣人とのやりとりは奇妙だったが、だからこそ都合がよかった。顔を見てしまえば、こんなことはやめなければならなくなる。壁越しのままなら、優しさだけを受け取っていられる。

管理人の佐久間さんは、郵便受けの前で会うたびに、よく喋る老人だった。ある昼、わたしが「隣の方、静かな人ですね」と言うと、佐久間さんは首をかしげた。

「隣って、四〇六のこと?」

「ええ」

「あそこ、空いてるよ。去年から」

手にしていたチラシが、かさりと鳴った。

「でも、物音がしますよ」

「上か下じゃないの。古い建物だからねえ」

笑って済まされた。その笑い方が、あまりこちらを見ていない人のそれで、わたしはそれ以上聞けなかった。

その夜、壁の前にしゃがみこんで、わたしは言った。

「あなた、四〇六の人じゃないの」

返事はなかった。

「いるんでしょう」

沈黙がつづいた。冷蔵庫の低い唸りばかりが部屋の底で揺れていた。胸の奥に、見えない糸が一本ずつ切れていくような不安が生まれた。わたしは壁に耳を当てた。ざらついたビニールクロスがひやりとしていた。

そのとき、耳のすぐそばで、こん、と鳴った。

喉の奥から短い悲鳴が漏れた。壁の向こうではなかった。壁の内側、わたしの頬が触れている、そのすぐ奥で鳴ったように思えたのだ。

わたしは飛びのき、しばらく動けなかった。

翌朝、壁を見ると、小さな膨らみがひとつできていた。画鋲の頭ほどの丸いふくらみで、白い壁紙が内側から押されていた。昨日まで、こんなものはなかった。

指で押すと柔らかい。空気ではなく、もっと弾力のある何かが内側にある感触だった。

管理会社に電話をしようとして、やめた。壁の中に何かいる、などと言っても取り合ってもらえないだろう。疲れているのだ、と自分に言い聞かせた。その日の帰りにパテを買ってきて、膨らみを覆った。白い傷痕みたいな跡だけが残った。

夜中の二時、こん、こん、こん、と速い音で目が覚めた。

壁ではない。枕元だった。

明かりをつけると、パテを埋めたあたりが、内側から小刻みに脈打っていた。ぴく、ぴく、と生き物のまぶたのように。わたしは毛布を握りしめ、声も出せずにそれを見ていた。

やがて、乾ききらないパテの中央に細い亀裂が入り、そこから黒いものがのぞいた。髪の毛だと思った。だが違った。髪にしては短く、湿っていて、先が丸かった。

指だった。

赤ん坊の指のように細く、小さな爪がひとつ、壁紙を押し上げている。

わたしはようやく悲鳴を上げたが、団地はそれを吸いこんでしまった。誰かのテレビの音が遠くで笑っていた。指は一本だけではなかった。亀裂は静かに広がり、暗い隙間の向こうで、いくつもの指先が重なり合っていた。押し合いながら、こちらへ出てこようとしているようだった。

その中心で、こん、と爪が鳴った。

わたしは思い出した。子どもの頃、祖母の家の土壁に耳を当てる遊びをしたことがある。壁の向こうには、前に住んでいた人の声が残っているのだと祖母は言った。家は、長く人を入れると、人の返事を覚えるのだと。

返事だけが残る。

相手がいなくなっても。

四〇六で、以前何があったのか、わたしはその瞬間に悟った。誰かが長く、長く、壁越しに助けを求めていたのだ。最初は隣へ、つぎに上へ、下へ、廊下へ、それでも届かず、ついには壁そのものに話しかけるしかなくなった。返事がほしかった。ただひとつでいいから、生きた誰かの気配が。

壁はそれを覚えてしまったのだ。

こん。

こん。

こん。

今度は部屋じゅうから音がした。押し入れの内側、玄関脇、台所の冷たい壁。目に見えない薄膜の向こうで、無数の爪が慎ましく、けれど譲らずに叩いていた。

開けて。

そう言われた気がした。

逃げなければならない、と頭ではわかっていた。けれど足がすくんだ。部屋の中心に立つわたしを囲むように、壁のあちこちがぽこり、ぽこりと膨らみはじめた。白いクロスの下に、指先ほどの小さな丘が増えていく。どれも同じ高さで、息を合わせるように震えていた。

そのとき、玄関のチャイムが鳴った。

我に返って駆け寄り、覗き穴を見た。誰もいない。ただ、ドアの外の共用廊下の蛍光灯が、古い魚の腹のような色で灯っているだけだった。

もう一度チャイムが鳴る。

ぴんぽん、ではなく、こん、と鳴った。

わたしはドアノブから手を離した。背後で、部屋の壁という壁から、いっせいに返事が返ってくる。

こん。こん。こん。

うれしそうだった。

それからのことは、あまりはっきり覚えていない。気づくと朝で、わたしは押し入れの前に座りこんでいた。壁の膨らみはなくなっていた。パテの跡だけが、変に白く残っていた。玄関を開けると、廊下には小さな泥の足跡がいくつもついていた。子どものものにしては数が多く、向きもばらばらで、四〇六号室の前でふっと消えていた。

管理人に聞くと、四〇六には昔、母子が住んでいたらしい。冬の夜に、母親が浴室で倒れた。幼い子どもは隣に向かって何度も壁を叩いたが、気づかれなかった。発見されたときには、母親は冷たくなっていたという。

「まあ、古い話だよ」

佐久間さんはそう言って、廊下の汚れを雑巾で拭った。「気味のいい話じゃないから、あまり人には言わないけどね」

わたしはその日のうちに別の部屋を探した。退去の手続きを急ぎ、荷造りをしながら、一度も壁に話しかけなかった。返事も、もう来なかった。

なのに、最後の夜、段ボールを閉じて明かりを消したとき、思わず口から漏れた。

「……じゃあね」

沈黙があった。

もう終わったのだと思った。けれど、暗闇のどこか奥、壁のずっと深いところから、ためらいがちな音がひとつ返ってきた。

こん。

それは引き留める音ではなかった。

やっと返事がもらえた子どもが、礼儀正しく頷くような、小さな音だった。

わたしは泣きそうになりながら、部屋を出た。

今は別の街の、鉄筋の新しいマンションに住んでいる。隣の気配はほとんどしない。壁は厚く、静かで、頼もしい。

それでもときどき、夜更けに歯を磨いていると、洗面所の鏡の中で、自分の背後の壁がほんの少しだけ脈打つのが見えることがある。

振り向いても、もちろん何もない。

ただ、耳の奥にだけ、聞こえるのだ。

こん。

返事は、ついてきてしまったのだと、そのたびに思う。