短編
返し日の風鈴
廃止される「声の返却」サービスの最終日に、司書の私は一人の老婦人とともに、借りたままだった夏の音を返しに行く。
市立図書館の別館地下には、もうほとんど使われていない小部屋がある。扉の小さなガラス窓に、白いテープで「音声資料室」と貼られている。資料室といっても、本があるわけではない。棚に並んでいるのは薄い録音カードだけだ。三分だけ声を預かり、未来の自分か、指定した誰かに一度だけ返す。昔、市が気まぐれのように始めた「声の返却」というサービスである。
利用者は年々減り、今月で廃止になる。
私はその最後の担当だった。
返却日を過ぎた声は、規則どおり消去する。再生は一度きり、複製は禁止。私はこの規則が嫌いだった。声は紙よりもあっけない。指先ひとつで消えてしまうくせに、耳に入ると妙に長く残る。誰かの笑い方や息継ぎや、言葉の終わりにわずかに混じるためらいが、夜になっても耳の奥に沈まない。
最終日の予約は一件だけだった。
午後二時ちょうどに来たのは、藤野春子さんという七十過ぎの女性だった。薄い灰色のワンピースに、日よけの手袋をしている。右手には、細長い風呂敷包みを提げていた。
「予約していた藤野です」
確認票を受け取りながら、私は風呂敷の形を見た。中身は細い筒のようだった。骨壺には小さすぎ、酒瓶には軽すぎる。
「返却番号、最後なんですね」
私がそう言うと、春子さんは少し笑った。
「最後まで引きのばしてしまって。期限なんて、あってないようなものだと思っていたの」
録音カードには、預けた人の名前が記されている。
藤野隆一。
預入日は十二年前。返却先は配偶者。返却指定日は、今日。
機械にカードを差し込むと、古い機械らしい小さな唸り声がした。部屋には私と春子さんしかいない。私は再生ボタンの前で一度だけ確認する。
「一度きりです。止めても巻き戻せません」
「ええ」
春子さんは頷き、膝の上で両手を重ねた。白い指の関節が、薄い紙のように見えた。
私は再生ボタンを押した。
最初に、マイクに指が触れるざらりとした音がした。次に、少し遠くで咳払い。
『春子へ』
低い声だった。乾いているが、ひどく弱っているわけではない。むしろ、録音前に何度か言い直す練習をした人の、慎重な明るさがあった。
『これを聞くころ、俺はもう喋るのが下手になってるか、ずいぶん先なら、いないかもしれん』
そこで一度、微かな笑いが入った。
『用事がある。縁側の南の端に吊してあるガラスの風鈴、あれを佐伯さんのところへ返してください。借りものです。ひと夏だけって言って借りたのに、音がいいから、そのままにしてしまった』
春子さんの肩が、ごく小さく震えた。
『病気のことが出てから、ますます返しそびれた。死にそうな男が風鈴返しに来たら、相手も困るだろうと思ってな。でも、困る困らんじゃなくて、借りたものは返さんといかん。物だけじゃなくて、季節もだ』
テープの向こうで、硝子がちりんと鳴った。録音した場所の音らしかった。
『あれを返したあとに家に残る音が、たぶん、ほんとうに自分の家の音だ。もしまだ吊してたら、頼みます』
数秒の無音のあと、最後に短く付け足された。
『返したら、報告は要らん。君が聞いたら、それで済みだ』
テープはそこで終わった。
機械が小さくカチ、と鳴る。部屋に戻ってきた静けさは、再生前より少しだけ狭かった。
春子さんはしばらく顔を上げなかった。泣いているというより、遠くの字を読むときのように目を細めていた。やがて風呂敷包みを撫でた。
「持ってきたの。今日なら返せるかと思って」
「中に、風鈴が」
「ええ。ずっとしまえなくて、でもずっと出してもいられなくて。毎年、六月になると吊して、秋になると包んで。そんなことをしていたら十二年たってしまった」
私は規則では言わなくていいことを言った。
「佐伯さんは、今もお近くですか」
「亡くなられたわ。三年前に。でも、お孫さんが家を継いで、パン屋をしているの。返す相手として正しいかどうかはわからないけれど」
春子さんはそこで初めて、少し困ったように笑った。
「こういうのは、正しいところに返すより、返すことのほうが先なのかもしれないわね」
私は本来なら、返却完了の署名をもらい、テープを消去すればそれで仕事は終わりだった。けれど、その日は閉館後に機械を搬出するだけで、ほかに利用者もいなかった。
「よかったら」
自分でも少し唐突だと思いながら言った。
「届けるところまで、ご一緒しましょうか」
春子さんは一度だけ目を丸くした。それから、「司書さんなのに」と可笑しそうに言い、しかし断らなかった。
地上に出ると、午後の光が古い商店街のアーケードの端で白く揺れていた。図書館から佐伯ベーカリーまでは歩いて十分とかからない。風呂敷の中の風鈴は、歩くたびにかすかに触れ合って、鳴る手前の気配だけを立てた。
パン屋は、昔のままの木枠の引き戸を半分だけ残し、あとは大きなガラス戸に替わっていた。店先にはあんパンと食パンの札が並び、奥からバターの匂いがした。
応対に出た若い女性は、春子さんの名前を聞くと、すぐに表情をやわらげた。
「祖母から聞いたことがあります。藤野さんのお宅の風鈴の音、商店街で一番きれいだって」
春子さんは風呂敷を開いた。中から出てきたのは、透明にうっすら青が差した古い硝子の風鈴だった。短冊は新しく替えられていたが、結び目は何度も結び直された跡がある。
「お借りしたままでした」
若い女性は、風鈴を両手で受け取った。受け取られる瞬間、それは急にただの物に見えた。形も重さも、説明できる範囲にすっと収まる。なのに、店の軒下に吊された途端、通り抜けた風にちりん、と鳴って、私にはそれがひどく遠い場所から帰ってきた音のように聞こえた。
春子さんはその音を聞いて、目を閉じた。泣かなかった。代わりに、肩の力だけがゆっくり抜けていくのがわかった。
「これで、うちの夏が少し痩せるわね」
「痩せたぶん、別の音が入りますよ」
思わずそう言うと、春子さんは私を見て、やわらかく頷いた。
「そうね。冷蔵庫の音とか、やかんの笛とか。そういうもので十分なのよね、きっと」
図書館へ戻る道で、商店街のどこかの店先からラジオが流れてきた。夕方の天気予報だった。明日も暑いらしい。
地下の音声資料室に戻り、私は返却完了の欄に時刻を記した。春子さんは丁寧な字で署名し、ありがとうございました、と言って帰っていった。もう風呂敷は空だった。
一人きりになった部屋で、私は最後の録音カードを見た。これを消せば、棚は本当に空になる。
前なら少し躊躇しただろう。声は保存されるべきだと思っていた。残っていることが、誠実さに近いと信じていた。けれど、さっき店先で鳴った風鈴の音を思い出すと、残すことだけが誠実ではないのだとわかった。返されて、役目を終えるものがある。終わることで、ようやく持ち主の時間に戻るものがある。
私は消去ボタンを押した。
機械は短く唸り、すぐに静かになった。
その静けさの中で、どこか遠く、地上の風が細いものを鳴らす気配がした。たぶん気のせいだったし、気のせいでよかった。返された音は、もう私の耳に留まる必要がないのだから。