短編
鏡写し
古びた鏡に映るのは、自分ではない「何か」だった。
鏡を見るのが怖くなったのは、三ヶ月前のことだった。
風呂上がりに洗面所の鏡の前で髪を乾かしていたとき、ふと視線が合った。自分と。いや、「自分のようなもの」と。視線が合った瞬間、心臓が凍りつくような感覚があった。鏡の中の自分が、ほんのわずかに、乾かしている手の動きを遅らせたのだ。それも、ほんのコンマ数秒。しかし、それは決定的だった。
最初は疲れているのだと思った。仕事が忙しく、睡眠もろくに取れていなかった。けれど、それは一度きりでは終わらなかった。次の日も、その次の日も、鏡の中の「自分」は少しずつ、違う存在になっていった。
微妙な表情の違い。口角の上がり方。まばたきのタイミング。気づいてしまうと、それは日に日に明確になった。まるで、鏡の中にもう一人の自分がいるようだった。
家族に話そうとしたが、口に出すとすべてが現実になってしまいそうで、言えなかった。
ある晩、母親がふと口にした。
「ねえ、あんた最近、夜中に起きて何してるの? 鏡の前でずっと立ってるでしょ?」
心臓が跳ねた。
「何のこと?」
「さあね。でも、昨日の夜なんか、一時間以上も洗面所にいたんじゃない? あたし、トイレ行こうと思ったけど、気味悪くて我慢しちゃったわよ」
そんなはずはなかった。その時間、布団にいた。確かに寝つきは悪かったが、起き上がった記憶はない。けれど、母は嘘を言うような人間じゃない。
もしかして――鏡の中の「それ」が、勝手に動いているのでは?
ある夜、スマホをセットして、洗面所に向けて録画を仕掛けた。録画時間は夜中の0時から3時まで。翌朝、胸がざわつきながら再生してみると、そこには想像を超えた映像が記録されていた。
午前2時12分。何もないはずの鏡に、ゆらりと「自分」が現れる。寝巻き姿。髪は濡れていて、顔色は異様に白い。鏡の中の「それ」は、ゆっくりと左右を見回し、次第に鏡からにじみ出るようにして外へ出てきた。
その動きは、滑るように、音もなく。まるで映像の中の自分が、現実のこちらへと移動してきたかのようだった。しばらく部屋を見回したあと、「それ」はふたたび鏡へ戻り、消えた。
録画を止めたあと、スマホを握りしめた手が震えていた。何より恐ろしかったのは、再生中ずっと、鏡の中の「それ」がこちらを見ていたことだ。まるで、自分がそれを見ていることを知っていたかのように。
その日から、鏡のある場所はすべて布で覆った。けれど、ふとした反射に、やつがいる気配を感じる。
ある晩、帰宅すると、玄関に母の靴がなかった。部屋の中は静まり返っている。リビングに行くと、テレビも電気もついていない。ただ、洗面所のドアだけが、わずかに開いていた。
胸騒ぎがして、ゆっくりとドアを開ける。
中には、誰もいない。
ただ、鏡の前に、濡れた髪の自分が立っていた。
いや、「自分のようなもの」が。
こちらをじっと見て、にやりと笑った。
反射的に後ずさりした瞬間、背後から誰かの手が肩に触れた。
「……どうしたの? そんな怖い顔して」
振り返ると、そこには、母がいた。
笑っていた。
鏡の中のそれと、まったく同じ顔で。
――いや、それは本当に、母だったのだろうか。