短編
噛み合わせの名義
夜ごと噛み合わせを矯正するはずの器具が、少しずつ私の口と署名と身分を別人のものへ変えていく。
最初に違和感を覚えたのは、舌の置き場だった。
仕事中、口を閉じているだけなのに、舌先がいつもの前歯の裏に収まらない。わずかに右へ寄る。顎の蝶番が、自分の骨なのに借りものみたいにぎこちない。
三日前、駅前の雑居ビルにある歯科で、就寝用のマウスピースを作った。歯ぎしりがひどいから、と会社の健康診断で指摘されたのだ。保険証を出したとき、受付の女は妙に手際が悪く、私の名前を二度見した。
「……失礼しました。似たお名前の方が前に」
診察室で若い医師は、型取りした透明な器具を私の歯にはめながら、軽い口調で言った。
「噛み合わせって、意外と人格に関わるんですよ。食べ方、発音、表情の癖、みんなここから出ますから」
冗談めいていたが、言われたあとで口を閉じると、たしかに私は自分の顔を動かすための部品を初めて意識した。
その夜から、眠りが浅くなった。
朝起きると、足の裏がうっすら汚れていることがあった。洗面台の排水口に見覚えのない短い髪が詰まっていたこともある。台所のシンクに、水を飲んだだけにしては大きすぎるコップの水滴が残っていた朝もあった。
寝ぼけて歩き回ったのだろう、と最初は思った。マウスピースを外して洗うと、透明な樹脂の縁に細かな傷が増えている。歯ぎしりで削れたのかもしれない。
ただ、その傷は、内側から引っかいたみたいにも見えた。
会社で昼食を食べているとき、後輩の橋本が私を見て首をかしげた。
「先輩、辛いの平気でしたっけ」
私はカレーに七味を振っていた。自分でもぎょっとした。辛いものは苦手だ。胃が弱いから、普段なら絶対にやらない。
「なんとなく、今日は」
そう言って一口食べると、うまかった。舌が求めている味が、私の記憶と違っていた。
その日の夕方、社内便の受領欄に署名したとき、さらに気味の悪いことが起きた。書き終えて自分の字を見ると、普段より角ばっていて、払いが妙に強い。しかも最後の一画が、私の癖ではなく、誰かが私の指を上から押さえて書いたような止め方になっていた。
橋本がのぞきこんで笑った。
「字、変わりましたね。なんか年配っぽい」
その言葉が、なぜか胸に冷たく落ちた。
夜、鏡の前で口を開け、スマホのライトを当てた。頬の内側、ちょうど奥歯の横の粘膜に、薄い白い筋が走っている。噛んだ跡にしては妙だった。線ではなく、文字の書き損じのようにも見える。
舌先でなぞると、へこんでいる。
翌日、その筋は一つ増えた。
私は歯科に電話したが、営業時間外のアナウンスが流れるだけだった。しかたなく仕事帰りに直接行くと、雑居ビルの三階にあるはずの看板が消えていた。案内板からも医院名が外され、テナント募集の紙が貼られている。
管理人室で聞くと、老いた管理人は眉を寄せた。
「歯医者? ここはずっと空いてますよ」
「いや、三日前に診てもらって」
「三日前も空ですよ。半年は誰も入ってない」
私が食い下がると、管理人は面倒そうに記帳台を寄越した。
「ほら、入館記録あるから見てみな」
そこには私の字で、三日前の時刻と名前があった。だが、住所欄の筆跡だけが違った。角ばって、払いが強く、年寄りじみた字。
そして住所の末尾に、今はもう存在しない旧字体の「邸」がついていた。
帰宅して、クローゼットの奥にしまった保険証を見た。ケースの中に、紙切れが一枚入っている。診察券だと思って抜き出すと、黄ばんだ名刺サイズのカードだった。
安積歯科補綴研究所
印字された電話番号は市外局番が古く、裏には鉛筆で一言だけ書かれていた。
『合えば戻る』
その夜、眠るのが怖かった。マウスピースをゴミ箱に捨て、ビニール袋を二重に縛った。それでも不安で、台所の椅子を玄関に立てかけ、窓の鍵を確かめ、眠らないよう灯りをつけたまま布団に入った。
気づくと朝だった。
椅子は元の位置に戻り、玄関には外履きの泥が点々と残っていた。ゴミ箱は空で、洗面台のコップにマウスピースが浸かっている。ぬるい水の底で、透明なそれは昨夜より私の歯列に馴染んで見えた。
私は悲鳴を上げようとして、できなかった。
喉が閉じたのではない。口の中のどこかが、「今は騒ぐべきではない」と先に判断したのだ。
それから日中にも、小さな乗っ取りが起きるようになった。
コンビニで会計のとき、私は買うつもりのない硬い豆菓子を持っていた。エレベーターの鏡の前で、口角がわずかに上がる癖を見た。それは私が嫌っていた父の笑い方に似ていたが、もっと古く、写真の中でしか見たことのない時代の人間の笑い方にも見えた。
舌で頬の内側を探る。白い筋は増え、今では明らかに文字の形になっていた。
あ・づ・み。
私は洗面所で吐いた。吐瀉物はほとんど胃液だけだったが、その酸っぱい匂いの奥に、知らない男の口臭のような、古い煙草と薬品の混じった臭いがした。
土曜の朝、チャイムが鳴った。ドアスコープをのぞくと、濃紺のスーツを着た女が立っている。銀行員だった。近くの支店で口座の本人確認手続きに不備があり、登録情報の再確認をしているという。
「この住所に、安積誠一さまはいらっしゃいますか」
私はいない、と答えるはずだった。
だが唇が先に開いた。
「以前は」
自分の声なのに、響きが違った。少し低く、奥歯を鳴らすような発音。
女はタブレットを見て、営業用の笑みを崩さない。
「亡くなられた扱いで口座を停止しておりましたが、最近、生体認証が一致する履歴が複数ありまして」
私はドアを閉めようとした。しかし手が動かない。肩から先が、私の命令を聞かない。
女がタブレットをこちらへ向ける。画面にはATMの静止画が映っていた。夜の無人コーナーで、帽子も被らず立っているのは私だった。いや、私の顔をした誰かだった。口元だけが不自然に固く、慣れない笑いを覚えた子どものように、ぎこちなく上がっていた。
「こちら、昨晩のものです。暗証番号も指紋も一致しています」
私は首を横に振ろうとした。だが顎が重く、蝶番が別の角度で噛み合った。
口の中で、透明な樹脂がぬるりと舌に触れた。入れた覚えはないのに、マウスピースがはまっている。
女は事務的に言った。
「失礼ですが、お名前をお願いします」
言うな、と私は思った。喉の奥でその一語だけが泡立つ。
けれど、歯列が閉じ、舌が持ち上がり、唇が整う。その一連の動きはあまりにも滑らかで、むしろ普段の私より自然だった。
「安積誠一です」
女はうなずき、確認欄を差し出した。
受取人署名の線の上に、私の手が迷いなく字を置いていく。角ばって、払いが強く、年寄りじみた古い字。書き終わった瞬間、頬の内側がぴたりと治まった。ずっと外れていた部品が、ようやく元の位置に戻ったみたいに。
女は一礼して帰っていった。
ドアが閉まってから、私は床に膝をついた。泣くことも叫ぶこともできない。口の中があまりに静かだった。舌は正しい場所を知ってしまい、顎は新しい角度を好んでいる。
洗面所へ這うように行き、鏡を見る。
顔は私のままだった。けれど、安堵した拍子に浮かんだ微笑みが、見たこともないほどよく馴染んでいた。
頬の内側の白い筋は消えていた。代わりに、私の名前を思い出そうとすると、舌先が少しだけもつれた。まるで、その発音だけがもう古い噛み合わせに属しているみたいに。