短編
空箱
靴箱に現れた“もう一足の上履き”が、少女の生活をじわじわと侵食していく。
放課後の昇降口は、いつも薄暗い。
雨が降り始めていた。傘を忘れたことに気づいた千紗は、ため息をつきながら上履きを靴箱にしまおうとした。
――そこに、“もう一足”の上履きがあった。
自分と同じサイズ、同じメーカー、同じ色。だけど、かかとの内側に名前が書いてある。
「安藤 千紗」
「……私の、じゃない?」
一瞬、記憶を疑った。けれど今履いているこの上履きも、しっかりと「安藤 千紗」と記されている。
千紗は自分の靴を上段に戻し、もう一足の“それ”をじっと見つめた。
次の日の朝、靴箱には“また”二足あった。
しかも、どちらが自分のものか、わからなくなっていた。
昨日までついていたはずの泥の跡も消えていて、両方とも新品のようにきれいだった。
「ねえ、私の靴って、こっちだっけ?」
隣のクラスの友人に聞いたが、曖昧な返事しか返ってこない。
「え、千紗って白の上履きだったっけ? あれ……?」
その日、授業中に教師に呼ばれた。
「安藤千紗さん、さっき呼びましたよね?」
「え? 呼ばれてません」
「おかしいですね。……さっき前の席の“安藤さん”が返事をしてくれたと思ったんだけど」
千紗の席は、最後列の端だった。
前の席には、誰もいない。
放課後、靴箱を確認すると、上履きは“自分の分しか”なかった。
不思議に思いながら帰宅すると、玄関に脱ぎ捨てられた同じ上履きがもう一足。
母に聞いても「知らない」と言い、父は「あんた、そんなの前から持ってたじゃないか」と言った。
次の日の学校で、「安藤千紗」が二人いることに誰も違和感を抱いていなかった。
「ねえ、あんた、どこのクラス?」
知らない女生徒にそう話しかけられた。
彼女は笑いながら、こう言った。
「……名前、同じだね」
それから少しずつ、千紗は“居場所”を失っていった。
呼びかけられない。教科書が机から消える。
ロッカーには知らないノートが増え、日直表から名前が消える。
放課後、誰もいない昇降口で、千紗は見た。
靴箱の前で、もう一人の“安藤千紗”が自分の靴を履いていた。
「返して」
声をかけると、その少女は静かに振り返った。
顔は、自分とまったく同じだった。
「やっと揃ったんだよ、左右」
そう言って、微笑んだ。
その瞬間、千紗の足元から感覚が消えた。
動かない。声が出ない。
鏡の中では、笑顔の“千紗”が制服を整えている。
だけど、それはもう自分じゃない。
彼女は、ぴったりの靴を履いて、学校へ向かっていった。
……千紗の靴箱は今もある。
誰もいないはずの昇降口に、今日も“もう一足”の上履きが並んでいる。