短編
空っぽの部屋の留守電
母の遺品整理に訪れた団地の一室で、電話線のない留守番電話が、開けてはならない部屋の気配を録音しはじめる。
母が死んで三日目、私は古い団地の五階にある実家で、ひとり遺品を箱に詰めていた。
部屋はまだ冬のにおいを残していた。灯油のしみたカーテン、乾ききらない雑巾、何年も同じ場所に置かれていた家具の脚の跡。ベランダの硝子は白く曇って、その向こうの町は水の底みたいにぼやけて見えた。
この団地は、私が中学を出るころには半分以上が空室だった。階段を上がるたびに、誰も住んでいない部屋の前を通る。郵便受けに古びたチラシが折れ曲がったまま差さっていて、どの扉も、帰りを待つことをやめた顔をしている。
母は最後までここを離れなかった。
押し入れの前に座り、通帳や保険証券の束をまとめていると、居間の隅で赤いランプが点いているのに気づいた。古い留守番電話だった。子どものころからあった機種で、黄ばんだ受話器のコードが螺旋の癖を失い、だらりと畳に垂れている。
不思議なのは、その電話がとっくに不通だということだった。母は携帯すら持たず、固定電話も数年前に解約している。請求書の綴りを見れば明らかだった。
それでも、留守番電話のランプは確かに点滅していた。
私は半ば気味悪く、半ば機械の故障だろうと思って再生ボタンを押した。
ガー、というテープの擦れる音のあと、母の声がした。
『もしもし。あ、私です。帰ったら、流しの下を見て。合鍵、そこに入れたから』
いつ録音されたのか分からない、ただの日常の声だった。つづいてもうひとつ。
『あんた、押し入れの天袋の手前に権利書を入れてあるから。手前だけ見なさいね。奥は見なくていいから』
最後だけ、ひどく小さな声になっていた。
『奥の戸は、開けないで』
そこでテープは切れた。
押し入れの天袋に権利書があるというのは助かった。明日、不動産屋に渡さなければならない。私は脚立を持ってきて、言われた通り手前を探った。封筒はすぐ見つかった。だが、その奥に、見覚えのない木の縁があるのが見えた。
押し入れの奥に、もうひとつ、細い戸があった。
壁の色に合わせて雑に塗られていて、長年そこにあったくせに、見つからないように息をひそめているような戸だった。小さな真鍮のつまみまでついている。開けば、人ひとりようやく潜れるほどの空間があるのだろう。
こんなもの、昔からあっただろうか。
思い出そうとしても、記憶はうまく結ばれなかった。子どものころ、母から押し入れの奥へ手を伸ばすなと叱られたことだけは覚えている。その理由は、どうしても思い出せなかった。
玄関のほうで物音がして、私は脚立を降りた。隣に住んでいた佐伯さんだった。訃報を聞いて線香をあげに来てくれたのだと言う。小柄で、いつも背中を丸めて歩く人だったが、今日は妙に私の顔をじっと見た。
「まだ電話、置いてあるのね」
「ええ。でも、線は切れてるんです」
そう言うと、佐伯さんは曖昧にうなずいた。
「お母さん、毎晩あれの前に座ってたわ。誰もかけてこないのに」
「寂しかったんでしょうか」
「どうかしらね」
それから少し間を置いて、佐伯さんは声を潜めた。
「でも、鳴る日があったのよ。夜中の二時十七分。あの部屋の人は、みんなその時間を嫌がった」
あの部屋、と彼女が言ったのが、この部屋のことなのか、団地じゅうの空室のことなのか、私には分からなかった。
夕方まで箱詰めをつづけ、外が暗くなると、部屋の輪郭が少しずつ曖昧になっていった。台所と居間の境目、襖の桟、時計の針。団地の夜は妙に早い。人の住まない部屋が多いせいか、闇が遠慮なく廊下に溜まる。
帰るつもりだったが、権利書の他にも確認したいものがいくつかあり、結局そのまま泊まることにした。母の布団は押し入れから出せなかったので、居間に毛布を敷いた。
午前二時すぎ、目が覚めた。
理由はすぐに分かった。留守番電話の赤いランプが、暗い部屋の隅で脈を打つように明滅していたからだ。時計を見る。二時十七分。
そして、鳴った。
ベルの音ではなかった。もっと鈍く、壁の向こうで空き瓶を転がすような音だった。リン、ではなく、コト、コト、と乾いている。そのたびに押し入れの襖がほんの少し震えた。
電話は線につながっていない。それでも留守番電話は、新しい着信を受けたみたいにテープを回しはじめた。私は毛布を握ったまま、息をひそめた。
ガー、という音のあと、知らない子どもの声が流れた。
『お母さん、今日は誰が留守番してるの』
そこで一度切れ、すぐまた録音がはじまった。
今度は、私の声だった。
『もしこれを聞いてるなら、返事をしないで』
喉の奥が冷たくなった。録音の中の私は、泣くのをこらえているような息遣いで続けた。
『押し入れの奥にいるのは、帰ってきたがってるんじゃない。空いてる部屋を探してるだけだ。母さんは、ずっと留守番させてたんだ。返事をすると、こっちが空室じゃないと気づかれる』
その瞬間、押し入れの奥で、ことり、と金具の鳴る音がした。
細い戸の向こうで、誰かがつまみに触れている。
私は立ち上がることもできず、ただ押し入れを見ていた。襖の隙間から、ありえないほど細い冷気が這い出して、畳の上をまっすぐこちらへ伸びてくる。冬の夜気とも、古い家の湿気とも違う、長いあいだ呼吸の仕方を忘れていた場所の冷たさだった。
その向こうから、母の声がした。
「ねえ」
あまりに普通の、台所から私を呼ぶときの声だった。
「返事だけして」
私は唇を噛んだ。声はつづいた。やさしく、弱く、いつもの母の調子で。
「この部屋、もう空っぽだから」
留守番電話が、ひとりでに再生に切り替わった。さっきの私の声が、少し乱れて、しかしはっきりと言った。
『返事をしたら、向こうの部屋がこっちに来る』
それきり、押し入れの奥の気配は、長い長い沈黙に変わった。冷気だけが、あきらめたみたいに少しずつ畳から引いていった。
私は朝が来るまで灯りをつけたまま座っていた。
夜が明けると、押し入れの奥の細い戸は、どれだけ目を凝らしても見つからなかった。板壁があるだけだった。つまみも、隙間もない。ただ、押し入れの奥の木肌に、母の字で小さく鉛筆の跡が残っていた。
「空室にしないこと」
私は権利書だけ持って部屋を出た。留守番電話は置いていくつもりだったのに、玄関でなぜか振り返って、結局、段ボールに入れて持ち帰ってしまった。母の声を、あの部屋に残してくるのがまずいことのように思えたのだ。
その夜、新しいアパートで荷解きをしていると、段ボールの底で赤いランプが点いた。
電池は抜いてあるはずだった。
私はしばらく見ていたが、やがてゆっくり再生ボタンを押した。
テープの擦れる音のあと、母が安堵したように笑った。
『よかった。今夜から、そっちの部屋にいてもらえるのね』
その後ろで、聞き覚えのない小さな手が、押し入れの内側を爪で撫でる音がした。