短編
消印のない手紙
配達されなかった一通の手紙をきっかけに、止まっていた母娘の時間が静かに動き出す物語。
雨の匂いは、古い紙の匂いに似ていると、真昼は思っていた。
駅前の再開発で取り壊されることになった旧郵便局の整理を、彼女は区役所の臨時職員として手伝っていた。窓口の木枠は指で押すとわずかに軋み、誰も座らなくなった長椅子には、長い時間の重みだけが残っている。局内は薄暗く、六月の湿気が封筒の端をふやかしていた。
真昼は黙って、差出人不明の葉書や、宛先不備で戻された封書を箱に分けていった。廃棄のための確認作業だった。誰にも届かなかった言葉を、最後にひと目だけ読むことが、仕事の一部になっていた。
昼過ぎ、錆びたスチール棚のいちばん奥から、紐でくくられた小箱が見つかった。表に小さく「保留」と鉛筆で書いてある。蓋を開けると、古い封筒が七、八通、きれいに重ねられていた。そのいちばん上にある茶色い封筒を見たとき、真昼の手が止まった。
宛先は、見慣れた住所だった。
もうなくなった実家の、青柳荘二〇三号室。
受取人は、青柳真昼様。
差出人は書かれていない。
真昼は喉の奥が細くなるのを感じた。青柳荘は三年前に取り壊され、母はその少し前に亡くなっていた。父はいない。親戚づきあいもほとんどない。自分宛ての手紙が、こんな場所に眠っている理由を、彼女はすぐには考えられなかった。
消印は押されていなかった。
封は古びていたが、糊の跡はきちんと閉じられた形のままだった。差し出される前に紛れ込んだのかもしれない。誰かが書いて、誰にも渡さず、そのままここへ置いたのだろうか。
真昼は作業机の隅に座り、窓の外の雨脚が強まるのを見てから、そっと封を切った。
便箋は一枚だけだった。丸みのある字で、短く書かれている。
「真昼へ
あなたがこれを読むころ、私はたぶん、あなたの前でうまく謝れないままだと思います。
あの日、進路の紙を破いたことを、ずっと覚えています。
あなたが町を出たいと言ったとき、私は捨てられるみたいで怖かった。
母親なのに、そんなことで怒ってしまった。
あなたの行きたいところへ行ってよかったのに。
帰ってこなくても、元気ならよかったのに。
でもほんとうは、帰ってきてほしかった。
勝手でごめん。
机のいちばん下の引き出しに、赤い通帳と、あなたが小さいころ集めた切手を入れてあります。
切手はもう使えないものもあるけれど、きれいだから捨てないでください。
言えなかったので書きました。
母より」
真昼は便箋を裏返し、また表に戻した。たったそれだけの文章なのに、読み終えるまでに時間がかかった。
高校三年の秋、彼女は東京の美大に進みたいと言った。実家の暮らしにそんな余裕はないとわかっていたが、それでも一度だけ言ってみたかった。母は黙って願書を見て、それから台所で何かをこぼした音がして、戻ってきたときには機嫌を失っていた。大げさだ、身の程を知れ、と言われ、真昼も負けじと、ここにいたら息が詰まる、と言い返した。進路希望の紙が破れたのは、そのあとだった。
結局、真昼は地元の短大へ進み、卒業後は事務の仕事を転々とした。母と完全に絶縁したわけではない。正月には顔を見せ、煮物を食べ、天気の話をした。ただ、あのときから、肝心なことだけが二人のあいだを避けて通るようになった。
母が倒れたのは、真昼が転職した年の冬だった。病室で母はよく眠り、目を覚ましても、湯のみの位置や窓の外の信号の色みたいなことしか言わなかった。真昼も同じだった。言うべき言葉は互いにあったはずなのに、それを口にすると何かが決定的になる気がして、どちらも黙っていた。
便箋を持つ手に、じんわり汗がにじんだ。
机のいちばん下の引き出し。
そんなもの、見た覚えがない。母の死後、アパートの整理は急いで終えた。必要な書類と衣服だけを段ボールに詰め、残りの家具は業者に任せた。引き出しのひとつひとつまで、丁寧に確かめたとは言えない。
気づくと、真昼は立ち上がっていた。今日はもうここまででいい、と主任に告げると、訝しげな顔をされたが止められなかった。雨の中をバスに乗り継ぎ、かつて青柳荘があった場所まで行く。そこにはもう、ガラス張りの三階建ての薬局が建っていた。
もちろん引き出しなど残っていない。
それでも真昼はしばらく店先に立ち尽くした。濡れた歩道に、赤い自転車が一台、客を待つように停められている。母がよく乗っていた自転車も、あんな色だった気がした。記憶は勝手だ。大事な場面ほど曖昧にし、どうでもいい色だけを、いつまでも濃く残している。
帰ろうとして、ふと薬局の隣の古道具店が目に入った。以前はコインランドリーだった場所だ。軒先に古い机や椅子が並んでいる。そのいちばん端に、見覚えのある引き出し付きの小机があった。天板の角が丸く削れ、右脚にだけ補修の釘が打ってある。子どものころ、宿題をした机だった。
真昼は吸い寄せられるように店へ入った。
「それ、うちで引き取ったアパートの家具なんですよ」
店主の老人はそう言った。「解体前に片づけたんだけど、中を全部見たつもりでも、たまに残ってるんです」
真昼はしゃがみ込み、いちばん下の引き出しを引いた。軽い音がした。奥に、輪ゴムの劣化した束と、銀行の古い通帳と、小さな缶が入っていた。
缶の蓋には、猫の切手が貼られていた。
開けると、色褪せた記念切手が何十枚も詰まっていた。花、鳥、月面着陸、知らない国の王冠。子どものころ、母が郵便局の窓口から持ち帰ってきた見本の紙を、二人で切り分けて遊んだことがある。糊のつかない切手でも、台紙に並べれば世界地図みたいだった。
真昼はそこで初めて泣いた。声は出なかった。店主が何も言わず、奥へ引っ込んでくれたのがありがたかった。
雨は夕方にはやんでいた。真昼は机を買い取り、通帳と缶を鞄に入れて、小箱の手紙も胸元にしまった。荷台に机を載せた軽トラックがゆっくり走り出す。濡れた舗道に、切れた雲の光がひろがっていく。
母は謝りたかったのだろう。たぶん、ずっと前から。けれど手紙を出さなかったのは、勇気が足りなかったからだけではないのかもしれない。出してしまえば、それで済ませたことになると怖かったのかもしれない。会って言うには遅すぎて、書いて渡すには近すぎる。そんな距離が、親子にはある。
真昼は駅までの道を歩きながら、明日、旧郵便局へ戻ったら、主任に頼んであの小箱をもう一度見せてもらおうと思った。自分のものだけではなく、ほかの誰にも届かなかった手紙も、できるなら捨てる前に読み返したい。勝手なことだとわかっている。それでも、届かなかった言葉には、届かなかったままの理由がある。
駅のポストの前で、真昼は足を止めた。鞄からメモ帳を出し、立ったまま短く書く。
「お母さんへ
机、見つけました。切手もありました。
わたしも、あのとき町を出ることばかり考えて、ごめん。
でも出たかったのは、あなたを捨てたかったからじゃない。
息がしやすい場所を探したかっただけです。
いまは少しわかります。
帰りたい場所は、なくなるんじゃなくて、自分で増やしていくものなんだと思います」
そこまで書いて、真昼はペンを止めた。宛名は書かなかった。その代わり、紙を丁寧に折って、猫の切手の缶にしまうことにした。出さない手紙があってもいい。届いたあとで、ようやく書ける返事もある。
列車の到着を告げるアナウンスが、湿った夕暮れに流れる。真昼はポストに触れず、改札へ向かった。胸の内側に、消印のないまま生き延びた言葉が一通、静かに息をしていた。