短編
消えた声の修理屋
人の声が少しずつ消えていく街で、古い録音機を直す修理屋の女は、最後まで残った一つの声の行方を知る。
雨の降らない梅雨だった。
雲だけが律義に空へ居座り、街は一日じゅう、洗われない皿のような鈍い色をしていた。商店街のアーケードには風だけが通り、吊り下げられた古い宣伝旗を、意味もなく裏返しつづけている。
その通りの外れに、小さな修理屋があった。看板には「音野修理店」とだけ書いてある。時計もラジオも蓄音機も直すが、いちばん多く持ち込まれるのは録音機だった。カセットデッキ、ICレコーダー、テープレコーダー。古いものも新しいものも、故障の仕方だけはよく似ていた。再生はできるのに、声だけが抜け落ちる。雑音、足音、遠くの電車、コップの触れ合う音、そういうものは残るのに、肝心の誰かの言葉だけがきれいに消えている。
街の人間は、その現象をいつからか「声抜け」と呼ぶようになった。
原因はわからない。市役所は湿度だの磁気だのと紙切れ一枚で説明したが、誰も信じていなかった。湿度で母親の叱り声だけが消えるはずがないし、磁気で恋人の別れ話だけが薄くなるはずもない。
音野澪は、修理をしながら、その理不尽に慣れてしまっていた。
細いドライバーでネジを外し、劣化したベルトを取り替え、ヘッドを磨く。機械はたいがい素直に直る。だが、中に納められた声のことになると、彼女には何もできない。残酷なくらい、何も。
「直りますか」
その日、店に来たのはひどく背の高い老人だった。灰色の帽子をかぶり、胸の前で、黒いカセットレコーダーを赤子のように抱いている。
「機械なら」
澪は受け取って重さを確かめた。
「でも、声は保証できません」
老人は、わかっているというふうにうなずいた。
「それでもいい。回るだけでいいんです」
カウンターの上に置かれた録音機には、白いテープが貼ってあった。震える字で「春子 四月十二日」と書かれている。
「奥さまですか」
「妹です」
老人は少し笑った。笑ったというより、昔そういう表情をよくしていた名残が顔に浮いた、という方が近い。
「死ぬ三日前に、急に電話をよこしてね。今さら兄さんに言っておくことなんてないのに、三十分も喋った。せっかくだから録っておいたんです。くだらない話ばかりだったけど」
くだらない話ばかりだった、と言う人ほど、それを失うことに耐えられない。澪は経験で知っていた。
「預かります。三日ください」
老人が帰ったあと、澪はシャッターを半分下ろし、作業台の灯りだけをつけた。店の奥には窓が一つあるが、向かいの壁しか見えない。昼も夕方も、その窓からは時間の代わりに湿った明るさだけが入ってくる。
レコーダーの中はひどく汚れていた。磁気ヘッドには茶色い粉がこびりつき、ベルトは伸びきって、ゴムではなく黒い糸のようになっている。丁寧に取り替え、接点を洗い、電源を入れる。モーターは苦しげに一度唸り、それから、意外なほど滑らかに回りはじめた。
再生ボタンを押す。
まず、生活の音が流れた。受話器を取る気配。椅子のきしみ。どこかで湯の沸くような遠い音。老人の咳払い。そして、沈黙。
声だけが、なかった。
澪は停止ボタンを押さずに、そのまま耳を澄ませた。沈黙にも輪郭がある。言葉があった場所だけ、空気がわずかに痩せている。春子という人が三十分話したなら、その三十分ぶん、音の布地に人の形をした穴が空いているのだった。
彼女は自分の棚から、小さな補聴器の部品を取り出した。録音機の修理には関係のない部品だが、時々、声の抜けたテープを聞くときに使う。増幅というより、欠けた部分に周囲の気配を寄せ集めるような、そんな細工をするためのものだった。正式な技術ではない。父が生きていたころ、夜更けの作業台でこっそり教えてくれた。
「音は、なくならないことがある」
父はそう言った。
「消えたように見えて、居場所を変えるだけだ。困るのは、たいてい人間の耳の方だよ」
澪は配線をつなぎ、もう一度再生した。
今度は、沈黙の奥に、紙を撫でるようなざらつきが生まれた。窓の外で誰かが小さく息をしているみたいな、頼りない気配だった。集中すると、さらに微かな波がある。言葉未満の抑揚。声になる直前の、喉の震えの名残。
聞こえる、と思った瞬間、それはまたほどけてしまった。
澪は何度も試した。閉店後の暗い店で、同じ三十分を繰り返し聞いた。店の時計が九時を打ち、十一時を打ち、やがて電池切れみたいな小さな声で十二時を告げても、春子の言葉は戻らなかった。だが、最後の二十秒だけは違った。
受話器の向こうで、確かに誰かが笑う気配がある。
声そのものではない。笑ったあとにわずかに揺れる空気。相手が黙っていても、笑っているとわかる、あの輪郭だけが残っていた。
澪はそこだけを切り出し、何度も巻き戻した。
笑いのあと、コト、と軽い音がする。ガラスだろうか。いや、違う。もっと薄く、軽い。店の奥を見回して、彼女ははたと気づいた。風鈴だ。昔ながらの、硝子ではなく、安いアルミの風鈴。短く、乾いて鳴るやつ。
記憶が引っかかった。
春先、この店へ来た女がいた。年齢は五十を過ぎていたが、目だけが妙に若かった。小さなテープレコーダーを持ってきて、「これは直さなくていいんです」と言った。「ただ、この音がどこのものかわかりませんか」と。
再生すると、誰かの笑い声のあとに、アルミの風鈴が一度鳴った。女はそれだけを何度も聞いていた。自分の声なのに、肝心の言葉は全部消えているのだと、困ったように笑っていた。
「昔、電話をかけたんです。兄に」
そう言っていた。
「たぶん、死ぬ前に」
澪は立ち上がった。記憶の中の女の横顔と、老人の手の甲の骨ばり方が、遅れてひとつにつながる。
翌朝、店を開ける前に、澪は商店街を一本裏へ入った古道具屋へ向かった。軒先にぶら下がった錆びた道具類のあいだに、アルミの風鈴がいくつも揺れている。
店主の老婆は事情を聞くと、「ああ」とだけ言った。
「春子さんなら、駅前のアパートにいたよ。去年取り壊されたけどね。ベランダに、うるさいくらい風鈴を下げてた」
「兄がいたこと、ご近所は知ってましたか」
「さあねえ。でも、あの人、電話のあとによう泣いてたよ」
老婆は奥から古い箱を出した。
「片付けのとき、大家が捨てるっていうから一つもらった。これじゃないかい」
差し出された風鈴は、ありふれたアルミ製だった。短冊だけがなく、吊り糸も新しいものに替わっている。澪がそっと指で弾くと、あの録音に残っていたのと同じ、短く乾いた音がした。
店へ戻り、彼女は老人のテープを再生しながら、その風鈴を耳元で鳴らした。偶然を重ねるみたいな、当てのない試みだった。笑いの余韻に、風鈴の一音が重なる。その瞬間、抜け落ちていた声の穴の輪郭が、ふっと濃くなった。
――兄さん。
澪は息を止めた。
たった一語だった。女の、少し掠れた、笑いを含んだ声。
すぐにまた沈黙が戻ったが、もう十分だった。そこに誰かがいた。春子はたしかに話し、たしかに兄を呼んだのだ。
三日後、老人が店に来た。澪は整備した録音機を返し、正直に言った。
「全部は戻りませんでした。でも、ひとつだけ」
店の奥で再生すると、老人は身じろぎ一つしなかった。生活音、沈黙、かすかな笑い、風鈴のような余韻。そして、小さく、「兄さん」。
それだけだった。
老人は長いこと下を向いていた。泣いているのかと思ったが、違った。何かを数え終えた人のような、静かな顔をしていた。
「十分です」
やがて彼は言った。
「妹は昔から、用事がなくてもそう呼ぶ人だった」
澪は古道具屋でもらった風鈴を差し出した。
「これ、たぶん妹さんの部屋にあったものです」
老人は受け取らず、首を振った。
「あなたが持っていてください。そういう仕事場に置かれる方が、あいつも機嫌がいい」
困っている人に預けるみたいに言うので、澪は断れなかった。
老人が帰ったあと、彼女はその風鈴を、店の奥の窓辺に吊るした。向かいは相変わらず、何も映さない壁だった。けれど午後になると、どこからか細い風が来て、風鈴を一度だけ鳴らした。
その乾いた音を聞きながら、澪は思った。
人の言葉は、全部を残すには脆すぎる。愛しているも、さようならも、謝罪も約束も、磁気や湿度や年月に負ける。けれど、呼びかけだけは少し違うのかもしれない。誰かが誰かを見つけようとして発した声は、意味より先に行き先を持つ。だから完全には消えず、窓辺や金属片や、聞こうとする耳のそばに、かろうじて引っかかる。
その日から、声の抜けた録音機が来るたびに、澪は作業の前に風鈴を鳴らすようになった。直るものは相変わらず機械だけで、ほとんどの声は戻らない。それでもまれに、失われたはずの一語が、遠い岸から流れ着くように聞こえることがある。
名前だったり、ただの相槌だったり、ひどくつまらない一言だったりする。
つまらないからこそ、人が生きていた証になるのだと、今では澪も知っている。
夕方、店じまいの支度をしていると、窓辺でまた風鈴が鳴った。短く、確かに。
澪は振り向きもせず、
「はい」
と返事をした。
呼ばれた気がしたからではない。
たぶんこの街では、消えなかった声に返事をするのが、いちばんまっとうな礼儀だった。