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短編

言葉預かり所

亡き妻に言えなかった一言を預けに来た男が、誰かの言葉を受け取ることで、自分の沈黙の形を知っていく話。

Genre
幻想文学
Series
単発
#短編#幻想#雨#喪失#再生

その店は、商店街のいちばん端、三年前に時計屋が閉じた場所にできた。

看板は小さく、白地に墨で「言葉預かり所」とだけ書かれていた。花屋とクリーニング屋のあいだで、それは古い本の背のようにひっそり立っていた。初めて見つけたとき、私は何の店かわからず通り過ぎた。二度目には、ガラス戸の内側に机が一つ、椅子が二つ、棚にびっしりと小箱が並んでいるのが見えた。三度目の雨の日に、私はようやく扉を開けた。

店の中は、紙と石鹸をまぜたような匂いがした。

「いらっしゃいませ」

店番の女性は年齢のわからない顔をしていた。若くも老いても見えず、雨の音を聞き慣れている人の顔だった。机の上には、万年筆と、灰色のカード束と、小さな砂時計が置かれている。

「ここは何を預かるんですか」

「言えなかった言葉です」

冗談のように聞こえたが、彼女は笑わなかった。

「口に出せなかったもの。もう相手に届かないもの。届いても困るけれど、自分の中に置いておくには重すぎるもの。そういう言葉をお預かりします」

私は濡れた傘をたたみ、入口の壺に立てた。壺の中には、ほかにも二、三本、黒い傘があった。どれもよく似ていて、誰のものかわからない。

「預けたら、どうなるんです」

「少し軽くなります」

「消えるんですか」

「消えません。消えないまま、持ち方が変わります」

そう言われて、私は妙に納得した。

妻が死んでから十一か月が過ぎていた。病気は急ではなかったが、最期は思っていたよりずっと早かった。人は準備のできる別れならましだと言うが、あれは嘘だ。準備をしているつもりで、その実、もっと先へ延ばしているだけだ。私は何度も、今日こそ何かまともなことを言おうと思って病室へ行き、結局、天気のことや洗濯物のことや、医者の説明の聞き取りにくさのことばかり話した。

言いたかったことは、いまでも一つしか思い浮かばない。

ありがとう。

あまりに平凡で、あまりに遅かった。

「そのカードに」

女性が灰色の一枚を差し出した。「預けたい言葉をお書きください。長くても短くても結構です。ただし、言い訳は別料金です」

私は少しだけ笑った。笑ったのは、妻の葬儀以来かもしれなかった。

カードに向かうと、手が止まった。ありがとう、と書けば済むはずだった。だが、紙の上ではその五文字がひどく薄く見えた。ありがとう、だけでは足りない気がした。ありがとう、台所の湯気に。ありがとう、安物のマグカップに。ありがとう、私のつまらない話に付き合ってくれた夜に。ありがとう、私を見限らなかったことに。ありがとう、先に死んでしまってもなお、私に夕飯を思い出させる癖を残していったことに。

けれど、そう書き連ねるほど、どれも本筋から外れていくようでもあった。

結局、私はこう書いた。

――ありがとう。あなたといるあいだ、私は思っていたより幸福でした。

書き終えると、砂時計が半分ほど落ちていた。女性はカードを読みもせず、二つ折りにして薄い封筒へ入れ、私の目の前で朱色の印を押した。印には「預」とだけ彫ってある。

「これで終わりですか」

「いえ。もしよければ、ひとつ受け取っていきますか」

「何を」

「誰かの言葉です」

棚の小箱を見れば、それぞれに番号が振られている。彼女はその中の一つを迷いなく取り出した。白い小箱だった。

「預けた方の了承があるものだけ、お渡ししています。いまのあなたに合うものを」

「そんな都合のいいことがあるんですか」

「都合はよくありません。ただ、たまに合います」

小箱の中には、小さく折られた紙が一枚入っていた。開くと、癖のない字で一行だけ記されている。

――間に合わなくてごめん。でも、待っていてくれてありがとう。

それだけだった。

誰が誰に宛てたのか、事情は何もわからない。病室なのか駅の改札なのか、ひょっとすると出生届や離婚届の窓口かもしれない。待つという行為にはいくつもの形がある。けれど、その一行を読んだ瞬間、私は病室の椅子に座っていた自分を思い出した。妻は眠っていたのではなく、あのころ、ずっと私を待っていたのかもしれない。立派な言葉ではなく、たった一つの簡単な言葉を。

私は紙を折り直し、しばらく掌に乗せていた。

「これ、返さなくていいんですか」

「返してもいいし、持って帰ってもいいです」

「知らない人の言葉なのに」

「知らない人の言葉だから、持てることもあります」

店を出るころには、雨がやんでいた。商店街のアーケードの切れ目から、薄い夕方の光が差していた。私はそのまま帰るつもりでいたが、足は駅と反対へ向いた。川沿いの墓地まで、ゆっくり歩いた。十一か月、一度も行かなかったわけではない。だが、行くたび私は花を替え、手を合わせ、決まりの悪い沈黙を持ち帰るだけだった。

墓石は雨に濡れて黒く、いつもより新しく見えた。私は傘を持ったまま立ち、誰もいないことを確かめてから、声に出した。

「ありがとう」

喉がひどく乾いた。もう一度言った。

「君といるあいだ、思っていたより、ずっと幸福だった」

言い終えても、何か劇的なことは起こらなかった。風が吹いたわけでも、雲が割れたわけでも、返事がしたわけでもない。ただ、自分の声だけが妙に頼りなく耳に残った。けれど、その頼りなさは、いままで胸の中で固まっていた沈黙より、いくらかましだった。

私はポケットから、店でもらった一行を取り出した。

――間に合わなくてごめん。でも、待っていてくれてありがとう。

それは妻の言葉ではない。もちろん、私の言葉でもない。なのに不思議と、その行の余白に、私たちが言いそこねたものが少しだけ置ける気がした。人の心は整頓された机ではなく、誰かが忘れていった鍵をしばらく預かっておける引き出しなのかもしれない。

帰り道、商店街まで戻ってみたが、言葉預かり所は見つからなかった。時計屋の跡地には、内装工事中の紙が貼られ、来月オープンのたい焼き屋の絵が描かれていた。私は番地を確かめ、隣の花屋にも訊いてみたが、「そんな店、ありましたっけ」と首をかしげられた。

そういうものかもしれないと思った。

それから私は、ときどき紙に言葉を書くようになった。亡い人にではなく、生きている人に向けても書く。クリーニング屋の主人に、いつも急ぎを聞いてくれて助かっています、と。会社で隣の席の若い男に、その報告書はわかりやすかった、と。自分でも驚くほど、世界には伝えても遅すぎない言葉が多かった。

もちろん、相変わらず言えない日もある。飲み込んでしまう日もある。人はそう簡単に変わらない。けれど、口に出せなかった言葉がすべて腐るわけではない、と知った。預ける場所があるなら預ければいいし、なければ紙に書けばいい。大切なのは、沈黙を墓標のように胸に立てたまま生きないことだ。

冬のはじめ、私は新しいマグカップを二つ買った。ひとつで足りるのに二つ買ったのは、たぶん癖だった。レジ袋の中で陶器どうしが小さく触れ合い、澄んだ音を立てた。

その音を聞きながら、私はふと思う。あの店の棚には、いまも誰かの言えなかった一言が、静かに並んでいるのだろうか。おはよう。さようなら。先に食べていて。そんな些細な言葉ほど、人生の端をしっかり縫い留めている。

家に着いて玄関を開ける前に、私はもう一度だけ、誰に聞かせるでもなく呟いた。

「今日は、ちゃんと帰ってきたよ」

返事はなかった。だが、鍵穴に差し込んだ鍵は、前より少しだけ軽く回った。