短編
黒子犬
ある日拾った子犬が、家族の中に入り込んでいく――“誰か”の代わりとして。
「かわいいじゃない、飼ってあげましょうよ」
母がそう言ったとき、父も妹も、なぜか反対しなかった。
小さな黒い子犬だった。
雨の中、僕が近所の公園で見つけて、タオルに包んで家に連れて帰った。細く震えて、ぐったりしていたのに、母に差し出した瞬間、急に元気になった。
名前は「クロ」に決まった。短毛で、目が異様に丸くて黒くて、夜はどこにいるのか分からないくらい馴染んでいた。
でも、奇妙なことはすぐに起き始めた。
家族の誰かが部屋に入ると、クロはじっと見つめる。まばたきもせずに、喉も鳴らさずに。
普通の犬は、もっと落ち着きがないものだと思っていた。でもクロは、ただ静かに、見ている。
ある夜、僕が寝ていると、耳元で声がした。
「……いれて……」
はっとして起きたが、部屋には誰もいなかった。ドアの前にクロが座っていた。暗がりに目だけが浮いて見える。
「お前、しゃべった?」
当然返事はなかった。けれど翌朝、妹がぽつりとつぶやいた。
「クロってさ……夜、笑ってる時ない?」
家族はみんな、だんだん変わっていった。
父は口数が減り、夜中に壁を見つめるようになった。
母は料理をしながら独り言を言い続けている。
妹は、部屋にぬいぐるみをびっしり並べて、「クロに見られてるから」だと言った。
僕だけが、何も変わらなかった。
ある日の朝、台所で母が言った。
「ねえ、元から四人家族だったわよね?」
手が止まった。母の声は穏やかだったけど、目が笑っていなかった。
「前にも、もう一人いた気がするんだけど……兄弟、いなかった?」
僕は黙った。目の前にいたはずの妹が、いつからか“思い出”に変わっていることに気づいてしまった。
部屋の写真立て。そこに写っているはずの五人目が、ぼんやりと黒く塗り潰されていた。
クロは今日も家の中にいる。
食事のとき、必ずテーブルの下で誰かの足に身体を寄せている。
その位置は日替わりだ。昨日は母。今日は僕だった。
夜、またあの声がする。
「……つぎは、きみ」
次の日、僕の部屋には、黒い毛が敷き詰められていた。ベッドにも、机にも、天井にも。
そして、壁の鏡の中に映る僕の顔の“隣”に、笑っているクロがいた。
気づけば、家族は誰も「クロ」とは呼ばなくなった。
代わりに、僕の名前を思い出せないようだった。
きっと、もうすぐ僕は、家の中から“いなくなる”。
でも安心してほしい。新しい誰かが来れば、また元に戻る。
その頃には、クロは――「僕」になっているかもしれない。