短編
空室の名札
アパートの空室の郵便受けに自分の名前を見つけた夜から、住んでいるはずの部屋が少しずつ自分を追い出しはじめる。
引っ越して三年になるアパートのことを、私は気に入っていた。
古いわりに掃除が行き届いていて、廊下はいつも薄い洗剤の匂いがした。四階建てで、エレベーターはない。郵便受けは一階の階段脇に並んでいて、銀色の蓋に部屋番号と名字が差し込まれている。帰宅して最初にそこを見るのが、私の癖になっていた。
その日も、仕事から戻ってきて、いつものように自分の部屋の郵便受けを開けた。四〇二号室、野上。チラシが二枚。電気料金の封筒が一通。そこまではよかった。
違和感は、隣の列の一番端にあった。
三〇三号室。ずっと空室のままの部屋だ。ここに越してきた時から名札は抜かれ、郵便受けは養生テープで半分塞がれていた。そのはずなのに、その日だけは透明な差し込み板の内側に、白い紙が入っていた。
野上。
私の名字だった。
見間違いかと思って顔を近づけた。印字ではなく、少し古びたテプラで、確かに「野上」と打たれている。妙に細い文字だった。
誰かのいたずらだろうと、その時は思った。管理人の高木さんは耳が遠く、たまに郵便物を部屋番号違いで挟んでしまう。名札を入れ間違えたのかもしれない。
私はスマートフォンで写真を撮り、そのまま四階まで上がった。
ところが、自分の部屋の前で立ち止まった時、少し妙な気持ちになった。ドア横の小さな差し込み式の表札が、空になっていたのである。
朝、出る時まではあった。黒い文字で「野上」と入った、百円ショップで買った簡単な名札だ。あれが、なくなっている。
私はしばらく立ち尽くした。誰かが盗ったのか。そんなものを盗って何になる。
部屋に入って確かめたが、荒らされた様子はなかった。財布も通帳もある。窓の鍵も閉まっている。けれど玄関に立つと、ほんの少しだけ、他人の部屋に入ったような感じがした。家具の位置は変わっていない。カーテンも私のものだ。なのに、冷蔵庫に貼ったメモが妙に遠く、食器棚の取っ手の傷が見覚えのないものに見えた。
その夜、管理人に電話をしたが出なかった。
代わりに、隣の四〇一号室の三宅さんに会った。ゴミ出しの時間がよく一緒になる、五十代くらいの女性だ。事情を話すと、三宅さんは生返事のあとで、妙なことを言った。
「このアパート、空室の名札はね、次に出る人の名前が先に入るって、昔から言うのよ」
冗談めかした声ではなかった。
「前にもあったんですか」
「私は見たことないけど。そういう話。古い建物だから、変な言い伝えくらいあるでしょう」
言ってから、三宅さんは少しだけ顔をしかめた。
「でも、三〇三は長いこと空いてるのよねえ」
それ以上は何も言わず、ドアを閉めた。
眠れなかった。
午前一時ごろ、廊下で物音がした。何か大きなものを引きずる音だった。家具を運ぶような、重く鈍い音。こんな時間に引っ越し作業をする人がいるはずもない。音は階下からではなく、すぐ外から聞こえた。私の部屋の前を、何度も往復しているようだった。
覗き穴に目を当てると、廊下には誰もいなかった。
なのに音だけが、すぐ目の前を通っていく。
ず、ずる、ずる。
私は息を殺した。やがて音は止み、その代わりに、金属の蓋を開け閉めする乾いた音が、一階の方から小さく響いた。郵便受けだ、と思った瞬間、なぜか強い吐き気がこみ上げた。
翌朝、私は会社へ行く前に一階へ降りた。
三〇三号室の郵便受けには、昨日と同じように私の名前が入っていた。けれど養生テープはきれいに剥がされ、投函口は普通に開くようになっていた。中には何もない。
代わりに、四〇二号室の私の郵便受けが半分だけテープで塞がれていた。
ぞっとして、思わず声を上げた。その声で奥の管理人室から高木さんが出てきた。事情を説明すると、高木さんは郵便受けを眺め、それから首をかしげた。
「野上さんは三〇三でしょう」
冗談ではないと思った。契約書も鍵も四〇二だと訴えたが、高木さんは困った顔をするばかりだった。
「四〇二は去年から空いてますよ。ほら」
掲示板の入居者一覧を指さされ、私は言葉を失った。
四階の欄、四〇一三宅、四〇二空室。
三階の欄、三〇三野上。
私の名前がそこにあった。
会社は休んだ。部屋に戻って契約書を探したが、見つからない。火災保険の書類も、更新通知も、何もかも消えていた。代わりに、本棚の隅から古いスーパーのレシートが一枚出てきた。宛名欄に、三〇三野上様、と印字されていた。
そんなはずはない。私は三年前、駅から近い四階の角部屋がいいと思って、この部屋を選んだのだ。階段のきしみも、窓から見える駐車場も、隣の部屋のテレビの音も、全部覚えている。
夕方、三宅さんを訪ねると、ドアチェーン越しに不審そうな目を向けられた。
「どちらさまですか」
冗談を言っている顔ではなかった。
「野上です。隣の」
「うちは角部屋ですけど」
その一言で、膝から力が抜けた。四〇一の隣は四〇二だ。私のはずだった。
部屋へ戻ると、空気がひどくよそよそしかった。カーテンの折り目は最初からここにあったみたいに硬く、ベッドのへこみすら私の重みを知らないようだった。私はやっと気づいた。この部屋は、私の持ち物を少しずつ「置かれているもの」に変えはじめているのだと。
夜になると、また引きずる音がした。
今度ははっきり、私の部屋の中で聞こえた。振り返るたび、テーブルが数センチずつ玄関に近づいている。キャリーケースが勝手に倒れ、口を開けていた。押入れの襖は半分だけ開き、奥の暗がりで段ボールがきちんと積み直されている。引っ越しの荷造りみたいに。
私は泣きそうになりながら、財布とスマートフォンだけ掴んで外へ飛び出した。階段を駆け下り、一階の郵便受けの前で止まる。
三〇三号室の投函口が、少し開いていた。
中から、紙がのぞいていた。
震える指で引き抜くと、それは白い名札だった。百円ショップで買った、見慣れた私の表札。黒い文字で「野上」とある。裏面には、両面テープの剥がし跡までそのまま残っていた。
同時に、背後でかすかな電子音が鳴った。エントランスの古いインターホンが、来客を告げる時の音だった。
ジジ、という雑音のあとで、機械じみた声が流れる。
「三〇三号室、野上さま。お届けものです」
こんな時間に。そう思ったが、足は動かなかった。
ガラス扉の向こうに、誰か立っている。宅配業者の制服に見えた。帽子を目深にかぶり、大きな段ボールを抱えている。顔は影になって見えない。
もう一度、機械の声が言う。
「三〇三号室、野上さま。ご不在のため、お部屋をお預かりします」
お預かりします、という言い方が、ひどく静かで丁寧だった。
私は反射的に階段へ目を向けた。四階の廊下の先、私の部屋だったはずの場所のドアが、ゆっくり閉まるのが見えた。誰も触れていないのに、音もなく、ぴたりと。
それきり、四〇二の表札差し込みは、空のままだった。
私はまだ、このアパートの外にいる。管理会社に電話しても建物名が伝わらず、地図アプリに住所を入れても駐車場しか出てこない。財布の免許証の住所は、いつのまにか三〇三号室に変わっていた。写真の中の私は、見知らぬ三階の廊下を背に笑っている。
それでも夜になると、スマートフォンに一件だけ通知が来る。
三〇三号室に、新しい郵便物が届いています。
見に行くたび、投函口の奥は暗い。けれど耳を近づけると、狭い箱の向こうで、誰かが部屋を片づけている音がする。
ず、ずる。ず、ずる。
次に入る人のために。