短編
空室の留守番電話
誰も住んでいないはずの隣室から毎夜かかってくる留守番電話は、やがて主人公の名前ではない呼び名で彼を呼び始める。
団地に引っ越して三日目の夜、私は初めて隣の部屋の留守番電話を聞いた。
壁が薄いという意味ではない。電話の呼び出し音でもない。
玄関脇のインターホンが、短く、ためらうように鳴ったのだ。時刻は十一時十七分。風呂上がりに麦茶を飲んでいた私は、反射で受話器を取った。
「はい」
返事はなく、代わりに女の声がした。
『もしもし。お鍋、火にかけたままかもしれないの。もし聞こえたら、止めてくれませんか』
録音だとすぐにわかった。息継ぎの位置が不自然にきれいで、こちらの応答を待たないまま、同じ速さで続いたからだ。
『ごめんなさいね、すぐ戻るつもりだったのに』
そこで切れた。
私はしばらく受話器を耳に当てたまま、何もない回線の音を聞いていた。団地の古い設備には詳しくないが、部屋のインターホンに留守番電話みたいな機能がついているとは思えない。誤配線かと思って管理人に聞いたが、翌朝、箒を持った管理人の佐原さんは、眉だけを少し上げて言った。
「隣、四〇二のことですか」
私の部屋は四〇一号室だった。
「今は空いてますよ。ずっと。前の人が出てってから」
「前の人、電話を残していったとか」
「さあねえ。家具もないはずだけど」
佐原さんはそこで話を切り上げるように、廊下の端にたまった枯葉を掃き始めた。あまり聞かれたくない話題らしかった。
その夜、同じ時刻にまたインターホンが鳴った。
『もしもし。お鍋、まだ火にかけたままなら、弱くしてください。焦げる匂いが、廊下まで出るから』
声は昨夜と同じだった。やわらかく、少し疲れている。三十代か四十代か判別しづらい、生活に擦れた声だ。
私は気味が悪くなって、玄関を開けた。廊下に人影はない。非常灯の青白い光が、コンクリートの床に平たく広がっているだけだった。だが、確かに匂いがした。玉ねぎを炒めすぎたときの、甘さの奥に黒い苦みがある匂い。隣の四〇二号室のドアポストから、細く流れてきているように思えた。
ドアノブを回してみたが、もちろん鍵がかかっていた。
三日続くと、人は慣れる。
四日目には、私は十一時十七分の少し前から、なんとなく麦茶を用意して待つようになっていた。五日目には、録音の文句が少しずつ違うことに気づいた。
『お鍋の中、じゃがいもから先に柔らかくなるから』
『味見して、塩をひとつまみだけ』
『あの子、薄い味だと食べないのよ』
あの子、という言葉に、私は小さく身じろぎした。
誰かに向けて残された日常の断片が、壁一枚隔てたところから流れてくる。そう考えると、怖いというより、やけに生々しかった。
一週間ほどたって、階下の郵便受けに古いチラシを捨てに行ったとき、二階に住む婦人に声をかけられた。
「四階の人でしょう。夜、たまに音、聞く?」
私は曖昧にうなずいた。婦人は嬉しくもなさそうに、話せる相手が見つかったという顔をした。
「四〇二に住んでた人ね、息子さんを待ってたのよ。東京で働いてるって。毎週来るはずが、だんだん来なくなってね。料理だけはずっと作ってた。誰かが帰ってくるみたいに」
「亡くなったんですか」
「病院で、とは聞いたけど。部屋で倒れて見つかったって噂もあったわね。こういう団地、噂の方が長生きするから」
婦人はそう言ってから、私の顔をじっと見た。
「でも、夜のあれ、最近また聞こえるようになったの?」
「最近、というと」
「前は四〇三の子が聞いてたのよ。引っ越しちゃったけど」
四〇三は、私の部屋の向かいだった。
その晩、インターホンはいつも通り十一時十七分に鳴った。
だが、録音の最後に初めて別の一言が混じった。
『……ねえ、聞いてるの、まーくん』
受話器を取り落としかけた。
その呼び名を、私はここ十年以上、誰にも呼ばれていない。子どもの頃に祖母だけが使っていた名だ。両親も友人も知らない。戸籍の名前とはかけ離れていて、説明もしづらい、家庭の内側だけで通じる小さな綽名だった。
その夜はほとんど眠れなかった。
偶然だ、と何度も考えた。録音の中の「あきらくん」とか「まことくん」とかが、古いスピーカー越しにそう聞こえただけかもしれない。けれど翌日の昼、会社から帰ってきた私は、何に引かれるともなく管理室へ向かった。
佐原さんは古い台帳をめくっていた。私が四〇二の話を持ち出すと、今度は少し長く黙ってから、引き出しの奥から一本の細い鍵を出した。
「中を見たいですか」
案内された四〇二号室は、想像よりずっと普通だった。畳の焼け跡、外されたカーテンレール、うっすら四角く家具の跡が残る床。生活が剥がされた後の、どこにでもある空室だ。
ただ、台所だけが違った。
古い固定電話が、流し台の横にぽつんと置かれていた。コードは壁につながっていない。なのに受話器のランプだけが、小さく赤く灯っていた。
「撤去したはずなんですけどね」
佐原さんの声は、台所の中で平たく響いた。
私は電話の横に、何度も書き直されたメモ帳を見つけた。
買い物の一覧、煮物の時間、ゴミ出しの日。最後のページにだけ、別の字で一行だけあった。
『留守のあいだは、おとなりさんに頼む』
その字を見た途端、なぜかわかった。女の声ではない。文字の癖だ。祖母の書き置きに似ていた。曲がり方、止め方、諦めきれずにもう一度なぞる線の細さまで。
「閉めますよ」
佐原さんに促され、私は部屋を出た。
その夜、私は自分から四〇二の前に立った。時刻は十一時十六分。廊下は静かで、遠くのエレベーターが一度鳴っただけだった。
十一時十七分ちょうどに、私の部屋ではなく、四〇二の中から電話のベルが鳴った。
一回。
二回。
三回。
鍵は閉まっている。なのに、私は耳を澄ませば澄ますほど、その電話が私に取られるのを待っている気がした。
次の瞬間、ポケットの中の部屋の鍵が、ひどく重く感じられた。私は自分の部屋に駆け戻り、玄関を開けた。
部屋の中で、インターホンの受話器が外れたまま、床に揺れていた。
さっき自分が置いたはずのない位置で、コードに吊られ、壁をこつこつ叩いている。
スピーカーから、あの女の声がした。今度は録音のように滑らかではなかった。誰かがこちらの様子をうかがいながら、息を挟んで話している。
『よかった。今夜は間に合った』
私は受話器を耳に当てた。喉が乾いて、返事はすぐに出なかった。
「……誰ですか」
短い沈黙のあと、声は囁いた。
『そこ、寒いでしょう。流しの下に毛布を入れてあるの。まーくん、風邪をひくから』
流しの下。私はほとんど反射で台所へ向かった。観音開きの収納を開けると、見覚えのない古い毛布が、きっちり畳まれて入っていた。引っ越しのときにはなかったはずのものだ。毛布からは、日向と樟脳の混ざった、祖母の押し入れの匂いがした。
『ねえ』
声が近づいた。受話器の向こうではなく、背後から聞こえた気がして、私は振り返った。誰もいない。
それでも、確かにそこに誰かが立っていた分の空気が、冷たくゆっくり動いていた。
『次に来る人にも、伝えてね』
「何を」
『火を弱くしてって』
そのとたん、台所に焦げた匂いが満ちた。鍋の底を舐める火の、乾いた甘さ。私は慌ててコンロを見たが、当然火はついていない。
代わりに、壁の向こう――四〇二の方向から、金属の蓋がかたんと鳴る音がした。
翌朝、私は佐原さんに頼んで四〇二をもう一度開けてもらった。
台所の流し台の下には、昨日はなかったはずのアルミ鍋が置かれていた。中には黒くなったじゃがいもが一つ、煮崩れずに残っていた。
固定電話のランプは消えていた。
メモ帳の最後のページだけがなくなっていて、代わりに一番上の余白に新しい字が増えていた。
『おとなりさん、受け取りました』
その日から、十一時十七分の呼び出しは来なくなった。
静かになったはずなのに、私はときどき夜中に目を覚ます。台所の流しの下から、紙が擦れるような音がするからだ。確かめるたび、そこには何もない。けれど先週、毛布の上に小さなメモが落ちていた。
見慣れない、けれどもう見間違えようのない、あの細い字で。
『四〇一の次は、四〇五』
私はまだ、その紙を捨てられずにいる。