短編
最後の館内放送
閉店の日の百貨店で、館内放送係の青年は、もう来ない人の名を最後に一度だけ呼ぶ。
その百貨店は、呼び出しの声から先に古くなった。
丸柏百貨店は駅前でいちばん古い建物で、わたしはその六階、案内所の奥にある細い放送室でアルバイトをしていた。ガラス窓の向こうには、もう半分以上灯りの落ちた売場が見える。婦人服は棚だけになり、玩具売場は床に四角い日焼けの跡を残して消え、贈答品コーナーには包装紙の匂いだけが薄く残っていた。
本日をもちまして、丸柏百貨店は営業を終了いたします。
その文句を、朝からもう二十回は読んでいた。読めば読むほど、自分の声がこの建物の壁に吸い込まれ、空っぽになっていく気がした。
閉店まで、あと二時間というころだった。案内所のカウンターに、灰色のコートを着た年配の女の人が来た。髪はきちんとまとめられていたが、肩口だけ雨に濡れていた。持っていたのは買い物袋ではなく、使いこんだ革の手帳だった。
「呼び出しを、お願いできますか」
いまどき館内放送で個人名を呼ぶことは、ほとんどない。携帯電話のない時代の名残みたいな仕事で、わたしが入ってからは、迷子と落とし物の案内を何度かしただけだった。
「お連れさまですか」
「ええ。そういうことに、しておいてください」
言い方が少し妙で、わたしは顔を上げた。女の人は笑っていなかったが、無理に困った顔もしていなかった。ただ、何かを慎重に壊さないように持っている人の顔をしていた。
「申し訳ありません、私的なお呼び出しは、原則お断りしていて」
「原則なら、今日は例外の日ではありませんか」
そう言われると弱かった。今日だけは、たいていの規則がもう、閉店の事情という大きな布でゆるく包まれていた。店長は朝礼で、最後の日だからお客様に気持ちよく帰っていただくように、と言った。その気持ちよく、の中身は誰にもはっきりしなかった。
女の人は手帳を開き、小さな紙片を差し出した。癖のない字で、こう書いてあった。
寺尾 恒一 様
屋上にて、お待ちしております
「屋上はいま立ち入りできませんよ」
「知っています。ですから、来られないのです」
意味がすぐにはわからず、わたしは紙片と女の人の顔を交互に見た。彼女はようやく少しだけ笑った。
「来られない人を、一度だけ呼んでほしいんです」
断る理由は、まだいくらでもあった。けれど、その人は無理を言っているというより、長く抱えてきた順番がようやく自分に回ってきた、という顔をしていた。わたしは放送室の椅子に座り、マイクのスイッチに指をかけた。
「文言は、このままでいいですか」
「はい。できれば、ゆっくり」
わたしは息を整えた。いつもの業務の声ではなく、けれど私語にもならないところを探して、読んだ。
「お呼び出しを申し上げます。寺尾恒一様。屋上にて、お待ちしております。寺尾恒一様、屋上にて、お待ちしております」
名前の部分だけ、妙に室内に残った。切ったはずのマイクがまだ生きているみたいに、寺尾、という二音が胸のあたりで小さく反響した。
「ありがとうございます」
女の人は深く頭を下げた。用事はそれで終わったように見えたが、帰ろうとしなかった。わたしも、次の定型文を読む気になれず、マイクの前でじっとしていた。
「ご主人、ですか」
聞いてから、立ち入りすぎたと思った。けれど彼女は気を悪くした様子もなく、窓の外を見た。
「ええ。正確には、主人でした」
雨脚が少し強くなり、ガラスに細い線が増えた。
「主人は、この店の時計売場にいました。修理も、電池交換も、遅刻の言い訳も、だいたい引き受ける人でした」
そんな人、いそうだと思った。百貨店には、その売場の商品以上のものを引き受けてしまう人がいる。昔の店員は特にそうだったのだろう。彼女は続けた。
「若いころ、喧嘩をすると、主人はいつも屋上へ逃げたんです。観覧車もない、つまらない屋上でしたけど、あそこだけ空が見えたから。電話なんてすぐできない時代ですからね。私が案内所に頼んで、寺尾恒一様、屋上でお待ちです、と呼んでもらうと、十分くらいしてから、しかたなさそうな顔で降りてきました」
それが二人の仲直りのやり方だったのだろう。いま思いついたような話ではなく、何度も使って角の丸くなった小道具の話し方だった。
「閉店するって聞いたとき、主人が言ったんです。最後の日には、ちゃんと呼ばれに行かないとなあって」
「でも」
「去年、亡くなりました」
声は静かで、説明のためだけに置かれた石みたいだった。重いのに、ひどく乾いていた。
「亡くなる少し前、もう人の名前をうまく思い出せなくなっていたんです。私のことも、娘のことも。でも、この店のことだけはよく覚えていて。閉店の放送が入ったら、急がないと叱られる、って、そんなことを何度も言うんです」
彼女は指先で手帳の端を撫でた。
「ですから、今日呼んでいただければ、それで間に合う気がしたんです。来られないのはわかっています。でも、呼ばれないまま終わるのは、少しかわいそうでしょう」
わたしは返事ができなかった。可哀想、という言葉はときどき便利すぎて、ほんとうの気持ちの輪郭を潰してしまう。でもそのときの彼女の言い方には、便利さがなかった。長く連れ添った相手の欠点も癖も知り尽くした上で、それでも最後にひとつだけ整えておきたい、という実務に近い優しさがあった。
「屋上まで、行かれますか」
自分でもなぜそんなことを言ったのかわからない。屋上は立入禁止だし、従業員でも勝手には開けられない。ただ、設備点検の人が使う非常階段の鍵なら、案内所の引き出しにあるのを知っていた。
彼女は少し驚き、それから頷いた。
わたしたちは客の少なくなった売場を抜け、従業員用の階段を上った。途中の踊り場には、閉店後に撤去予定の案内板が立てかけてあり、どれも行き先を失った矢印をこちらへ向けていた。
屋上の扉を開けると、冷たい風がすぐに入ってきた。防水塗装の剥げた床、錆びたフェンス、役目の終わった遊具の土台だけ。子どものころ、ここで食べたソフトクリームの味を思い出そうとしたが、思い出せたのは金属の手すりの冷たさだけだった。
彼女はフェンスの近くまで歩き、雨の町を見下ろした。駅前のロータリーには傘がいくつか動き、アーケードの先が白く煙っていた。
「ここで、よく待たせました」
それはわたしに向けた言葉ではなく、風の中へ置いた独り言だった。
「主人は、いつも少し遅れて来るんです。急いでいるふりをして、でも絶対に走らない。時計売場の人間なのに、そういうところが大雑把でした」
彼女は笑った。初めて、自然に。
「でも今日は、もう十分呼んでいただきましたから」
それだけ言うと、彼女は手帳を閉じた。祈るでもなく、泣くでもなく、ただ迎えに来た人が用件を済ませた顔をしていた。
放送室に戻ると、閉店まであと十五分だった。わたしは定型文を最後に三回読んだ。いつもの調子で読もうとして、うまくいかなかった。どの文も、さっき呼んだ一つの名前ほどには、建物に届いていない気がした。
午後七時、シャッターが順に降りはじめた。売場の灯りが帯のように細くなり、最後に案内所の上の照明だけが残った。店長が合図を出し、わたしは本日の営業終了を告げる最終放送を入れた。
「長らくのご愛顧、誠にありがとうございました」
言い終えてマイクを切る。室内は急に狭く、素手みたいな静けさになった。
片づけのために放送記録のノートを開く。何時何分、閉店告知。何時何分、迷子案内。今日はそんな記録ばかりだった。わたしは最後の行に、規定にない一文を小さく書き足した。
十六時四十分 寺尾恒一様 屋上にてお待ちしております
誰に提出するわけでもない、ただの業務ノートだった。それでも、書いておけば、この店でその名前が確かに一度呼ばれたことだけは残る気がした。
照明を落とす前に、窓の外を見た。雨はいつのまにか上がり、駅前の舗道だけが鈍く光っていた。もう客もいない百貨店の中で、わたしは消えたマイクに向かって、自分の名前を声に出さずに一度だけ口の形にした。
建物は何も答えなかった。けれど、答えないということもまた、覚えていることの一つなのかもしれないと思った。