短編
三番線のさいごの手紙
閉鎖される駅の三番線で、私は届くはずのなかった一通の手紙を受け取り、長く止まっていた別れにようやく返事を書く。
駅がなくなると聞いたのは、春先の、まだ指先にだけ冬が残っている朝だった。
地方紙の片隅に、ひどく事務的な言葉でそう書かれていた。利用者減少に伴い、来月末をもって霧坂駅は廃止される。写真には、赤錆びた手すりと、白線の薄くなったホームが小さく載っていた。見慣れた景色なのに、他人の古いアルバムの一枚みたいに見えた。
私は記事を切り抜いて、財布にしまった。その日すぐに行こうと思ったのに、結局、駅へ向かったのは月末ぎりぎりの夕方になった。
霧坂駅は、町から半分置き去りにされたみたいな場所にある。新しい道路も商業施設もみんな川向こうへ行ってしまい、こちら側には、曲がった電柱と、閉まったままの薬局と、風に鳴る看板だけが残った。
駅舎のガラス戸を開けると、油と埃と、昔の雨の匂いがした。待合室の木のベンチには誰もいない。時刻表は本数が少なすぎて、もはや表というより余白だった。
改札の横に、小さな机が出ていた。駅員はもういないので、代わりに町内会が「ご自由にお持ちください」と書いた紙コップの飴を置いている。机の隅に、古びた鉄の箱があった。郵便受けによく似ているが、口のところに「三番線ポスト」と手書きの札が下がっていた。
こんなもの、前からあっただろうか。
私は箱をのぞき込んだ。中には何も見えない。口の縁だけが、長年いろいろな指に触れられてきたみたいに、妙につやつやしていた。
「それ、最近また置いたんですよ」
背後から声がして振り向くと、売店だった場所の脇に、小柄な女の人が立っていた。ニット帽の下から白髪が少しのぞいている。見覚えがあると思ったら、昔この駅で切符を売っていた沢村さんだった。子どものころ、硬券に鋏を入れる音が好きで、私は用もないのによく窓口をのぞいていた。
「昔、ホームにあったでしょう。列車に乗る人が、出せなかった手紙を入れるっていう」
「そんなもの、ありましたっけ」
「正式な郵便じゃないから、なくなったり、戻ってきたり、ずいぶん適当でしたけどね」
沢村さんは笑った。少しかすれた、しかし澄んだ笑い方だった。
「最後だから、思い出した人が持ってくるんです。ほら」
机の上に、数通の封筒が置いてあった。どれも新しい切手は貼られていない。宛名の代わりに、「あの時のわたしへ」「父へ」「となりの席の人へ」などとだけ書いてある。
「出したら、届くんですか」
「さあ」
「さあ、ですか」
「駅って、そういう場所でしょう」
その言い方が妙に腑に落ちて、私はそれ以上聞かなかった。
三番線は、今はもう使われていない。草の生えた線路の向こうに、古いホームが一つだけ取り残されている。跨線橋は閉鎖されていたが、沢村さんに言うと、鍵を開けてくれた。
「暗くなる前に戻ってきてくださいね」
私はうなずいて、軋む階段を上った。橋の途中で見下ろすと、現役の一番線と二番線には新しい蛍光灯がついていて、三番線だけが薄い夕闇に沈んでいた。そこだけ時間の流れが遅いように見えた。
三番線のベンチは、昔のままだった。ペンキははげ、木は乾いてひび割れている。その端に座ると、不意に高校生のころの自分が隣にいる気がした。
十七歳の春、私はこの駅から町を出た。
進学のため、ということになっていたが、半分は逃げるためだった。家のこと、狭い人間関係のこと、自分が何者にもなれない気配のこと。その全部が息苦しくて、乗る予定の列車が来る前から、もうここには戻らないつもりでいた。
そのとき見送りに来たのは、ひとりだけだった。由良という同級生で、図書委員を一緒にやっていた。静かな人だった。話すより先に考える癖があって、考えたあとでも、半分くらいは言わないまましまってしまう人だった。
列車が来るまでのわずかな時間、私たちはホームの端に立っていた。風が強くて、由良の前髪が何度も目にかかり、そのたびに彼女は面倒そうに直した。
「向こうに行ったら、手紙を書くよ」
そう言ったのは私だったと思う。
由良は少し笑って、「たぶん書かないでしょう」と言った。
言い返そうとして、結局、私は何も言えなかった。図星だったからではない。由良の声があまりにも静かで、静かなものに反論するのは、何かを壊すことに似ていたからだ。
列車が来て、ドアが閉まり、私は行った。手紙は一通も書かなかった。
理由はいくらでも作れた。新しい生活に慣れなかったとか、住所を聞きそびれたとか、今さら何を書けばいいかわからなかったとか。でも本当は、返事を必要とするものを、自分の側に置いておくのが怖かったのだと思う。書けば続きができる。続きができれば、失うときの形もはっきりしてしまう。
ホームに風が吹き抜け、草が擦れた。私は目を上げた。ベンチの向こう、錆びた支柱に、小さな白いものが挟まっているのが見えた。
近づいて取ると、封筒だった。
古びてはいたが、雨には濡れていない。表に、私の名前が書いてあった。今の姓ではなく、十七歳のころの旧姓で。見覚えのある、几帳面すぎて少し硬い字だった。
胸の奥で、何かがゆっくりと鳴った。長く止まっていた時計が、思い出したように一度だけ進むときの音に似ていた。
封はされていなかった。中の便箋を開く。
たった三行だった。
『あなたはたぶん手紙を書かないでしょう。
だから、先に書いておきます。
元気で、という言い方は少し乱暴なので、どうか、あなたのいる場所にちゃんと季節がありますように。』
日付は、あの日だった。
私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。夕方の光が、便箋の折り目だけを薄く透かしていた。あのとき由良は、私が書かないことを責めていたのではなかったのだ。たぶん最初から、返事を期待していなかった。ただ、列車に乗ってしまえば言えなくなることを、手紙という形にして、どこかに置いていっただけだった。
駅舎へ戻ると、沢村さんがもう戸締まりの準備をしていた。私の手元を見て、「ありましたか」とだけ言った。
「これ……どうして今」
「さあねえ。片づけをしていたら、昔のロッカーやら戸棚やらからいろいろ出てきまして。三番線に関係ありそうなものは、いったん向こうへ戻したんです」
「戻した」
「駅に覚えてもらったほうがいいものって、あるでしょう」
私はうなずいた。うなずくしかなかった。
「返事、書きますか」
と沢村さんが言った。
「もう、届かないかもしれませんよ」
「届かない手紙を書くための場所も、世の中には必要です」
机の上のポストを見た。鉄の箱は夕闇の中でひっそりと口を開けている。その暗さは不気味ではなく、どこか丁寧だった。言葉が落ちてきても、底で傷つかないように待っている暗さだった。
私は借りたボールペンで、置いてあったメモ用紙に返事を書いた。
長い文章にはならなかった。謝ることは山ほどあったが、謝罪だけで埋めるのは卑怯な気がした。近況を書くには時間が経ちすぎていたし、幸不幸を並べるのも違うと思った。結局、私は一番本当のことだけを書いた。
『あの町を出てから、季節のない場所にいた気がしました。
でも今日、春が来ました。
遅くなってごめん。あなたの言葉は、ちゃんと残っていました。』
署名を書いて、紙を三つ折りにした。封筒はなかったので、そのままポストへ入れた。落ちる音は、驚くほど小さかった。
駅を出るころには、空はほとんど藍色になっていた。次の列車まで少し時間があったので、私はホームの端に立った。風は冷たいのに、どこか柔らかかった。町の外れの山に、遅い夕月がかかっている。
二両編成の列車がゆっくり入ってきた。ドアが開く。乗り込む前に、私は振り返って三番線のほうを見た。暗くてよく見えないはずなのに、古いベンチのあたりだけが、なぜか薄く明るんでいる気がした。
もちろん、誰かが立っているわけではなかった。
それでも私は、一度だけ小さく手を振った。
列車が動き出す。窓の外で、廃止間際の駅が後ろへ流れていく。昔はそこから出ていくことばかり考えていたのに、今は、去っていく景色のほうが私を見送っている気がした。
財布の中には、新聞の切り抜きの代わりに、由良の手紙が入っている。紙は薄いのに、不思議と重みがあった。失ったと思っていた時間が、失われたままではなかったと教える重さだった。
どこにも届かない手紙がある。
けれど、届かなかったから消えるわけではない。
列車の窓に映る自分の顔は、少しだけ若いころに似ていた。いや、若返ったのではない。ただ、長いあいだ止めていたものが、やっと流れ始めたのだと思う。
次の季節がどこで来るのか、まだわからない。
それでも、今度はちゃんと迎えに行ける気がした。