短編
三〇七号室のさいごの伝言
亡き伯母の部屋を片づけに来た女は、古い留守番電話に残された「まだ帰らないで」という声に、少しずつ自分の居場所を奪われていく。
伯母の住んでいた団地は、駅から二十分も歩いた川沿いにあった。十階建ての、古びているくせに妙に頑丈そうな建物で、夏の終わりの湿気を壁の中にまでためこんでいるようだった。
三〇七号室の鍵を回したとき、私はまず、空気の重さに驚いた。人のいない部屋には独特の軽さがあるものだと思っていたのに、ここだけは反対だった。長く息を止めていた誰かが、扉の向こうでやっと息を吸ったような、そんな感じがした。
伯母が亡くなって、もう二週間になる。身寄りの薄い人だったから、いちばん近い親族というだけで私に後始末が回ってきた。といっても、伯母と私はほとんど会ったことがない。子どものころ、正月に一度会ったきりだ。そのとき伯母は、私の名前を呼んで、それから「この子は帰る場所をなくさないようにね」と母に言った。妙に耳に残る声だった。
部屋はきれいだった。古い家具が少し、湯のみが二つ、読みかけの文庫本が一冊。ひとり暮らしにしては、どこか「誰かを待つ」形のまま整っている。
電話台の上に、カセットテープ式の留守番電話があった。液晶は薄く、赤いランプだけが点いている。
電源、入ったままなんだ。
気になって再生ボタンを押すと、テープが回るかすかな音に続いて、女の声が流れた。
『お姉ちゃん、今日は行けない。ごめんね』
知らない声だった。次は男の声。
『家賃、月曜には振り込みます』
その次は無言。息だけが数秒ぶん録音されている。
そして四件目で、私の指が止まった。
『まだ帰らないで』
低くも高くもない、よく通る女の声。年齢がわからない。けれど、聞いた瞬間に背筋が冷えた。伯母の声だ、と思った。会った記憶はほとんどないのに、なぜかわかった。
『まだ帰らないで。ひとりになるから』
そこでテープは切れた。
私は再生を止め、部屋を見回した。もちろん誰もいない。カーテンは閉じ、台所の蛇口から一滴の水が落ちる音だけがしている。ばかばかしい、と口に出してみたが、声は部屋に吸われたように小さくなった。
作業を始めても、どうにも落ち着かなかった。本を段ボールに詰め、食器を包み、引き出しの中の古い領収書をまとめる。そのあいだじゅう、留守番電話の赤いランプが視界の端で明滅している気がした。実際には点きっぱなしなのに、なぜか瞬いて見えた。
夕方になって、窓を開けた。外には同じ形のベランダがずらりと並び、洗濯物の気配も人影もない。団地全体が、もう少しで役目を終える巨大な器官みたいだった。
ふと、隣のベランダとの仕切り板の向こうから、声がした。
「まだいるの」
年配の女の声だった。
「ええ、片づけで」
そう答えると、相手は少し黙った。
「そう。あの人、ようやく誰か来たのね」
私は仕切り板に近づいた。「伯母をご存じだったんですか」
「よく電話が鳴ってたわ」
会話のつながりとしては妙だった。
「でも、出ないの。ずっと待ってるみたいだった。誰かのこと。夜中でも、受話器を持って、じっと」
私は言葉に詰まった。仕切り板の向こうでスリッパの音がして、相手はそれきり何も言わなかった。のぞき見るのも気味が悪くて、そのまま窓を閉めた。
帰る前に、最後に一通り確認しようと思って、押し入れを開けた。中は空だった。ただ、天袋に小さな紙箱があり、中にはカセットテープが一本だけ入っていた。ラベルに、丸い字でこう書かれている。
「帰る日のために」
嫌なものを見つけたと思いながらも、私はそれを留守番電話に差し込んだ。再生すると、しばらく無音が続き、それから伯母の声がした。
『もしこれを聞いているのが静香ちゃんなら』
私はその場で動けなくなった。静香は私の名前だ。
『たぶん私はもういないでしょう。ごめんなさいね、こんな形で』
声は穏やかだった。少し笑っているようにさえ聞こえる。
『あなたのお母さんから、昔、聞いたの。あなた、知らない場所でも平気な顔をしてしまう子だって。本当はすぐ帰りたくなるのに、誰にも言えない子だって』
古いテープのざらつきの向こうで、衣擦れの音がした。
『わたしもそうだった。だから、部屋に声を残したの。ひとりでいる部屋は、黙っていると人を食べるから』
何を言っているのかわからない。けれど、そこで再生を止めることができなかった。
『最初は、自分の声を録って、帰ってきたみたいに聞かせるだけでよかった。でも、そのうち足りなくなった。声は返事を欲しがるの。待つ部屋には、待たれる人がいるから』
テープの向こうで、かすかに電子音が鳴った。電話機の操作音だ。
『だから静香ちゃん、聞いたらすぐ帰って。赤いランプが点いていても、全部聞こうとしないで』
そこまで聞いたとき、留守番電話のランプが、いま見ている前で、はっきりと一度だけ明滅した。
ピッ。
新着メッセージを示す音がした。
私は息をのんだ。今、この瞬間に録音されたような音だった。震える指で再生ボタンを押す。
ザーッというテープノイズ。続いて、聞き覚えのある声。
『もしこれを聞いているのが静香ちゃんなら』
私は弾かれたように停止ボタンを押した。今のは、さっき聞いたものと同じではない。もっと近く、もっと乾いた、自分の喉に似た響きがあった。
部屋のどこかで、小さく咳をする音がした。
押し入れの中ではない。台所でもない。すぐ後ろだった。
振り向けなかった。首の骨が、そうしてはいけないと知っているみたいに固まっていた。耳だけが、背後の気配を大きく拾っていた。裸足が床をこすらずに一歩近づく気配。誰かの体温ではなく、そこに立つ意思だけがあるような気配。
電話が鳴った。
部屋の中の留守番電話ではなく、玄関脇の壁付け電話だった。さっきまで線なんてつながっていないと思っていたのに、けたたましく鳴っている。
出ればいいのか、逃げればいいのか、判断が遅れた一瞬のあいだに、留守番電話が自動で応答した。
ガチャ、という小さな音。
そして受話器の向こうから、女の声がした。
『まだ帰らないで』
伯母の声だった。
すぐ近くの背後で、それを真似るように、もうひとつ同じ声が重なった。
「まだ帰らないで」
私はやっと振り向いた。
誰もいなかった。けれど、電話台の脇に置いた段ボールの表面に、つい今しがた指でなぞったような線が浮いていた。
かえらないで
その文字を見た瞬間、体が戻った。私はバッグも鍵もほとんど投げるようにつかみ、玄関へ走った。ドアを開け、廊下へ出て、閉める。古い扉が重く鳴り、金属の感触が手に食いこんだ。
閉めた直後、部屋の中で電話の呼び出し音がぴたりとやんだ。
静まり返った廊下で、自分の呼吸だけがうるさかった。
そのとき、ドアの郵便受けが、内側からかたんと持ち上がった。
暗い差し入れ口の向こうに、何も見えない。見えないのに、誰かがそこに顔を寄せているとわかった。気配だけが、薄い鉄板一枚を隔ててこちらへ押してくる。
そして、伯母の声ではない、もっと若い女の声が、はっきりと囁いた。
「静香ちゃん、あなたの声、置いていって」
私は階段を転がるように下り、団地を出るまで一度も振り返らなかった。
あれから三ヶ月、私は知らない番号からの電話に出ていない。けれど週に一度だけ、決まって日曜の夕方に、留守番電話へ無言のメッセージが入る。再生時間はいつも十三秒。最初の十二秒は、ざらついた無音だ。
最後の一秒で、私の声がする。
『まだ帰らないで』