短編
最後のポストに空の封筒
母の遺した未投函の手紙に導かれ、故郷へ戻った娘が、最後の集配を迎える赤いポストへ返事のない返事を投じる話。
駅前の赤いポストが撤去される、と市の広報に小さく載っていた。
春香はその一行を、東京の昼休みに食べかけのサンドイッチの横で読んだ。たったそれだけの知らせなのに、喉の奥に古い飴玉のようなものが引っかかった。母が死んでから半年が過ぎ、故郷の家はまだ片づかないままだった。四十九日も納骨も済んでいるのに、二階の押し入れには冬物のコートが吊られたまま、台所の棚には母の好きだった薄い湯呑みが伏せられたまま、時間だけが家の中に置き忘れられていた。
ポストの撤去は来週の金曜。最後の集配は午後五時。
それに合わせるように有休を取り、春香は海沿いの小さな町へ戻った。六月の風は湿っていたが、駅前だけは昔のまま乾いた匂いがした。ロータリーは狭く、古いタクシーが一台、あくびのように停まっている。ポストは駅舎の脇で、赤さを失いかけた赤のまま立っていた。口の上に貼られた白い紙に「このポストは本日をもって運用終了します」とある。誰かが雨を避けるように透明なテープを重ねていて、そのぶんだけ言葉が慎重に見えた。
家に戻ると、仏壇の前に座ってから、春香は母の部屋の箪笥を開けた。きちんと揃えられた下着、使いかけの便箋、輪ゴムで束ねた領収書。その奥の引き出しから、茶封筒が一通だけ出てきた。自分の名前が書いてあった。
春香 様
住所は十年前に住んでいた東京のアパートだった。母の字は、相変わらず横に少し流れていて、急いでいないのに急いでいるように見えた。切手は貼られていない。封はされていたが、糊の端がもう乾いて浮いている。
その場で開ける気になれず、春香は封筒を持って台所へ下りた。やかんに水を入れて火にかける。沸くまでのあいだ、窓の外で風鈴が一度だけ鳴った。母が最後の夏に吊るしたままの、ひびの入ったガラスの風鈴だった。
手紙は便箋二枚分だった。
「あなたが出ていった夜、追いかけようと思ったけれど、お店のシャッターを閉める途中で手を止められませんでした。あのとき私は、あなたより毎日のほうを選んだみたいに見えたでしょうね」
そこまで読んで、春香はいったん便箋を伏せた。
高校を出て町を出る前夜、春香は母と喧嘩をした。大学進学ではなく、東京で働きたいと言った春香に、母は「好きにしなさい」とだけ言った。その言い方が、突き放すように聞こえた。父がいなくなってから、母は駅前で小さな文具店を一人で切り盛りしてきた。ノートも鉛筆も、町の子どもが進級するたび母の店から減っていった。春香には、母が店と町を自分より大事にしているように見えた。
手紙の続きを読む。
「あなたを止めたかったのではありません。止めたら、あなたがこの町を憎むと思いました。
ただ、行ってらっしゃいをうまく言えなかった。
私は昔から、送り出す言葉が下手です」
春香は声を出さずに息を吐いた。冷蔵庫のモーター音だけが台所に残った。
「駅前のポストを知っているでしょう。あなたが小さいころ、あそこに自分で描いた絵葉書を入れたがったポストです。
もしあなたがいつか帰ってきて、この手紙を読むことがあったら、あのポストに空の封筒を一通入れてください。
何も書かなくていい。
まだ言葉にならないなら、そのことだけで十分です」
最後に、短く追伸があった。
「返事は、なくても届きます」
春香は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。自分が怒っていた時間の長さより、母がこの手紙を出さずに持っていた時間の長さのほうが、急に重く感じられた。なぜ出さなかったのだろうと思い、それから、出せなかったのだろうと考え直した。切手を貼ることより難しいことが、人にはある。
午後四時を過ぎて、春香は商店街の隅の文具店へ行った。母の店はもう閉めてしまったが、別の店が一軒だけ残っている。白い封筒を一枚ください、と言うと、店主の老婆は何も聞かずに、いちばん薄いものを選んでくれた。ついでに切手も勧められたが、春香は首を振った。
「出さない手紙なので」
老婆は少しだけ笑った。
「そういうのが、いちばん遠くまで行くこともあるよ」
駅前へ戻るころには、撤去を見に来たらしい人が何人か集まっていた。若い母親と子ども、制服姿の高校生、散歩のついでのような老人。誰も大げさな顔をしていない。ただ、みんな少しだけ足を止めて、ポストを眺めている。長く町にいたものが消えるとき、人は見送るというより、見届ける顔になるのだと春香は思った。
集配車は五時少し前に来た。郵便局員の若い男が、丁寧な仕草で蓋を開ける。金属の鳴る音がして、その一瞬だけ、子どものころの夕方が戻ってきた気がした。母が店じまいの前に売上金を数え、春香が店先から駅の時計を見上げていた頃の、どうということもない時間が。
春香は鞄から空の封筒を出した。何も書いていない。宛名もない。中にも何も入っていない。ただ指で触れたぶんだけ、紙がわずかに温まっていた。
母の手紙を読んだあと、何か書こうともした。責めたこと、ごめんということ、会えなくてさびしかったこと。けれどどの言葉も、書いた瞬間に小さく縮んだ。自分の本当の気持ちは、まだ文字の形に追いついていなかった。
列に並ぶほどの人数でもないのに、春香はひとりひとりの後ろ姿を待った。最後に自分の番が来るのがいいと思った。ポストの口は少し錆びていて、差し入れるとき紙の端がかすかに引っかかった。
その感触に、なぜだか救われた。
つるりと何事もなく飲み込まれるより、少しだけためらわれてから受け取られるほうが、自分にはふさわしい気がした。封筒はすぐに見えなくなった。
集配車が走り去り、人々も散っていく。撤去は明日の朝らしい。ポストはもう役目を終えたのに、夕暮れの中でまだ立っていた。春香はその前にしばらく残った。返事はなくても届く。母の書いたその一文が、今ようやく意味を持ちはじめていた。
家へ戻る道すがら、駅前のシャッターの閉まった店々が淡い群青に沈んでいた。母の文具店の前で、春香は立ち止まった。ガラス戸の内側に、色褪せた値札がまだ一枚だけ貼られている。三百二十円。たぶん、もう何の値段だったか母自身も忘れていたはずの数字。
春香は鞄の中の手紙を確かめた。これは持って帰ろうと思った。捨てるためではなく、保存するためでもない。たぶん折に触れて読み返し、そのたび少しずつ違う意味で受け取るために。
翌朝には赤いポストはなくなるだろう。跡だけが残り、やがてそれも舗装されて見えなくなる。けれど、なくなったものが全部消えるわけではないと、春香は知っていた。届かなかった言葉は、遅れて形を変える。出せなかった手紙は、別の季節に受け取られる。
家の鍵を開けると、ひびの入った風鈴が朝の風に鳴った。
細く、たしかな音だった。