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短編

終電の判

終電後の無人駅で「忘れたい記憶に判を押す」仕事を始めた男が、消したはずの別れにもう一度向き合う話。

Genre
現代文学
Series
単発
#駅#記憶#再会#喪失#時間

市の外れにある鷺沼北駅は、昼間でも少し夕方のような顔をしていた。改札は自動化され、売店は三年前に閉まり、待合室の時計だけが几帳面に正しい時刻を指しつづけている。正しいことが、これほど頼りなく見える場所も珍しいと、私は毎晩思った。

終電が出たあとの二時間、私は駅長室の隣にある小さな窓口に座る。窓口の上には、古びた木札でこう書かれている。

「記憶整理受付」

もちろん正式な業務ではない。駅の会計にも、市の書類にも載っていない。前の駅長が個人的に始めた妙な習慣を、今の駅長が黙認しているだけだ。誰かがこの駅でどうしても置いていけないものを持て余したとき、ここに来る。切符でも傘でもない。もっと曖昧で、もっと重たいものだ。

やることは簡単で、持ち主の話を聞き、古い改札鋏の脇に置いた紫のスタンプを、申込用紙の右下に一つ押す。それだけで、客は少しだけ楽になって帰る。忘れるわけではない。ただ、記憶の角が丸くなる。素手では持てないものが、布越しなら持てるくらいにはなる。

最初にこの仕事を頼まれたとき、私は断ろうとした。そんなあやしいまじないのようなものを、なぜ自分が引き継がなくてはいけないのかわからなかったからだ。駅長は、湯呑みの縁を指でなぞりながら言った。

「君、顔がちょうどいいんだよ。信用できそうで、でも救えなさそうだ」

褒められたのか侮られたのかわからなかったが、断る理由も特になかった。三十五歳の私は、二年前に出版社を辞めてから、何に向いているのかよくわからなくなっていた。原稿を読むことにも、人の言い分を聞くことにも疲れ、結果として、誰の話にも最後まで責任を持てない人間になった。そういう人間が、記憶の受付には向いているのかもしれなかった。

客は多くない。月に五人か六人。息子に言えなかった嘘を整理しに来た母親。引っ越した恋人の合鍵を返し損ねたまま十年経った男。定年の日に社章を捨てたことを後悔している元教師。みんな、自分の抱えているものを「こんなこと」と言いながら、ひどく丁寧に机の上へ置いていく。

その夜、最後の利用者が帰ったあと、窓口のガラスを引こうとしたときだった。改札の向こうに、女が一人立っていた。

紺色のコートの襟を立て、旅行鞄も持たず、ただホームの暗がりからこちらを見ている。終電はとっくに出ている。入口は閉まっているはずなのに、彼女は昔からそこにいるみたいな自然さで立っていた。

「受付、まだですか」

声を聞いて、私はガラス戸に触れたまま動けなくなった。

七年前、私が結婚寸前までいって、結局なにも説明できないまま別れた相手だった。名前を口にすると、駅の空気ごと崩れてしまいそうで、私は黙って窓口の椅子に座り直した。

彼女はゆっくり近づいてきた。照明の下で見れば、思っていたより年を重ねていた。それでも、人の沈黙を待てる目つきだけは変わっていなかった。

「久しぶり」
「どうしてここに」
「そういう言い方、昔から下手だったね」

彼女は笑わなかった。ただ事実を述べただけだった。

差し出された申込用紙には、記入欄がほとんど埋まっていなかった。名前も住所もなく、「整理したい記憶」の欄に一行だけ。

――置いていかれた日のこと。

私は用紙を裏返して、もう一度表に戻した。文字は消えなかった。当たり前だ。

「これ、私じゃなくても」
「あなたがいいの」
「困るよ」
「そうだろうね」

彼女は窓口の前に立ったまま、少し首を傾けた。「でも、困る人にしか頼めないことってあるでしょう」

駅の蛍光灯が一度だけ明滅した。線路の先で、もう来ない電車の気配がした。

別れた日、私は待ち合わせのホームに行かなかった。行けなかった、という言い方もできる。父が倒れたと連絡が来て、病院へ向かった。だが、それだけではなかった。向かう車の中で私は、ほっとしていた。生活を誰かと分け合うこと、自分の癖も臆病も毎日見られること、その具体性に怯えていた。父の病は、私に逃げる口実をくれた。病院に着いてからも、一通の連絡すら入れなかった。

何日もたってから会いに行ったが、彼女はもう部屋を引き払っていた。共通の知人から「待ってたよ」とだけ聞いた。その短い言葉が、いちばん長く残った。

私はスタンプを手に取った。紫のゴム面には、擦り切れた駅名が逆さに彫られている。これを押せば少し楽になる、ということを私は他人にだけ信じさせてきた。

「何を消したいの」
「消したいんじゃない」と彼女は言った。「形を変えたいの」

「同じことじゃないの」
「違う。消したら、なかったことになるでしょう。そうじゃなくて、持ち方を変えたいの。あの日の私は、ホームでずっとあなたを待っていた。その自分の惨めさばかり覚えてる。でも本当は、待っていたってことは、信じていたってことでもあるから」

彼女はそこまで言って、初めて少し笑った。

「信じていた自分まで、嫌いになりたくないの」

駅舎の外で風が鳴った。掲示板の隅に貼られた古い時刻表が、かすかにめくれた。

私はようやく、申込用紙の空欄を見た。受付者記入欄。そこにはいつも、利用者の話を一言に要約して書くことになっている。私はペンを取ったが、うまい言葉は出てこなかった。編集者だったころは、なんでも短くまとめるのが仕事だったのに、いま目の前にあるものは、要約するとすぐに嘘になった。

「私も、整理したい記憶がある」と私は言った。

彼女は黙っていた。

「君を待たせたことじゃない。その前から、自分はいつでもちゃんと説明できる人間だと思っていたことだ。黙ることにも理由がある、とか、いまは言えないだけだ、とか、そういうふうに自分を擁護してきたこと」
「それで?」
「それを、やめたい」

彼女は窓口の下に置かれた丸椅子を引いて座った。客が座るのは珍しかった。彼女は両手を膝に置いて、まるで診察の順番を待つ人みたいに静かだった。

「じゃあ、書いて」
「何を」
「置いていった側の記憶」

私は新しい申込用紙を一枚抜いた。自分の名前を書くのがひどくぎこちなかった。整理したい記憶、の欄に、考えた末にこう書いた。

――言わなくても伝わると思っていたこと。

彼女はそれを覗きこみ、「少しずるい」と言った。
「そうだね」
「でも前よりはまし」

私は二枚の用紙を机に並べた。一枚は置いていかれた日のこと。もう一枚は、言わなくても伝わると思っていたこと。どちらも、片方だけでは成り立たない記憶だった。

スタンプ台の蓋を開ける。乾きかけた紫のインクに、ゴム面をゆっくり押し当てる。私は先に彼女の用紙へ判を押した。ついで、自分の用紙にも。同じ駅名が、少しにじんで、二つ並んだ。

それだけで何かが消えるわけではない。七年前のホームはそのままだし、間に合わなかった言葉も戻らない。それでも、にじんだ文字を見ていると、記憶はただの刃物ではなく、使い方を覚えれば紙も切れるのだと思えた。

彼女は用紙を受け取り、丁寧に四つ折りにした。

「これで終わり?」
「たぶん」
「たぶん、ね」

彼女は立ち上がり、窓口の横を見た。昔、売店だった場所にはシャッターが下りたままだ。その前に、埃をかぶったベンチがある。

「少し座っていってもいい?」
「利用時間はとっくに過ぎてる」
「受付の人の裁量で」
「そんな規則はないよ」
「今日できた」

私は笑ってしまった。笑う資格がまだ残っていたことに驚いた。

私たちはベンチに並んで座った。改札の向こう、真っ暗な線路が二本、どこかへ伸びている。話すことはたくさんあったし、ないとも言えた。七年分を埋めるには、言葉はいつだって遅い。でも遅いからこそ、今から使うしかないのだとわかった。

彼女が近況を話し、私も父が亡くなったことや、仕事を辞めたことを話した。途切れ途切れの会話は、壊れたものを直す音というより、長く閉めた窓を少しずつ開ける音に似ていた。

始発の時刻が近づくころ、東の空がわずかに白んだ。待合室の時計は、あいかわらず正しい顔をしていた。

「もう行く」と彼女が言った。
「どこへ」
「まだ決めてない。でも、今度は自分で決める」

彼女は立ち上がって、数歩進み、それから振り返った。

「ねえ」
「なに」
「次に誰かを待たせるときは、せめて待たせていることを知っていて」

私は頷いた。赦されたとは思わなかった。ただ、その言葉は判のように、私の中のどこかに静かに押された。

彼女が駅舎を出ていくまで、私は見送った。外は朝になりかけていて、街はまだ、昨日を手放しきれずにいる時間だった。

窓口へ戻ると、机の上にインクの蓋が開いたまま残っていた。閉めようとして、私は少しだけ考え、開けたままにした。今夜また誰かが来るかもしれない。忘れたいのではなく、持ち方を変えたい記憶を抱えたまま。

鷺沼北駅は、昼間でも少し夕方のような顔をしている。けれどその朝の駅だけは、珍しく朝そのものの顔をしていた。私は窓を開け、冷たい空気を入れた。正しい時刻は相変わらず頼りなく、それでも昨日よりは少しだけ信じられた。