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短編

最後の声はカップの底に

閉店間際の喫茶店で、録音された「最後の声」を預かってきた女が、自分の止まっていた時間をわずかに動かす物語。

Genre
現代文学
Series
単発
#喫茶店#手紙#記憶#再生#短編

商店街のはずれにある喫茶店《火曜日》は、木曜の夕方だけ妙に静かだった。定休日ではないのに客が少ないのは、近くの医院が休みで、いつも帰りに寄る老人たちの足が向かないからだと、店主の真船は言っていた。

私はその店のいちばん奥、壁にひびの入った鏡の前の席を選んだ。コートのポケットには、小さなICレコーダーが入っている。軽いはずなのに、今日は文鎮みたいに重い。注文したブレンドが来ても、すぐには口をつけられなかった。

「お待たせしました」

真船がカップを置く。受け皿の縁が、かすかに欠けている。三年前から同じ欠け方をしているのを私は知っていた。

「久しぶりだね、篠田さん」

「半年ぶりくらいです」

「もっと空いてる」

そう言って真船は笑ったが、責める響きはなかった。この店の時間は、人を咎めるより先に冷めていくコーヒーを気にかけるようにできている。

私はようやくカップを持ち上げた。苦味のあとに、少し遅れて甘い匂いが鼻の奥に残る。昔、兄がここでいつも「砂糖は入れないほうが、あとで甘く感じる」と得意そうに言っていたのを思い出した。兄は、そういう、誰に教わったのかわからない小さな台詞をよく持っていた。

「今日は、何かあった顔だ」

真船はカウンターの中でグラスを拭きながら言った。私は返事をしかけて、やめた。何かあった顔というのは便利な言い方で、こちらが説明する気になるまで待ってくれる。

「兄の荷物が、やっと一つ返ってきたんです」

そう言うと、真船の手が止まった。グラスの底に白い布が詰まったままになる。

兄の陽介は三年前の冬に死んだ。事故だった。夜の高速道路で、玉突きの最後尾に巻き込まれた。即死ではなかったらしい、と私は警察から聞いた。そういう情報は、優しさの顔をして、長く残る傷になる。

返ってこなかった荷物があった。財布でも鞄でもなく、仕事用の録音機材の一部だった。兄はラジオ制作会社で下請けの録音をしていて、街の音や人の声を集めていた。失くなったのは、取材先から借りたICレコーダーだと聞いていた。見つからなかったものは、だいたい見つからないまま話題から外れる。私もそう思っていた。

「今日、会社から連絡があって。倉庫の棚の裏から出てきたって。中のデータも残ってるかもしれないって言われて」

「それで持ってきたのか」

私はうなずいた。真船は何も急かさなかった。店内では古いジャズがかかっていたが、サックスの旋律が妙に遠い。外では、シャッターを下ろす店の金属音が、夕方の骨みたいに響いていた。

兄の死後、私は長いあいだ、自分が最後に兄へ何を言ったのか思い出せなかった。たしか、冷蔵庫にプリンがあるから食べるな、だったような気もするし、洗濯物を取り込んで、だった気もする。人の生は終わるのに、会話は案外、家事の途中で途切れる。そこに意味を見つけようとすると、生活の雑音ばかりが増幅される。

「聞くの、ここでいいのか」

「家だと、たぶん再生できない気がして」

真船はカウンターの下から古い延長コードを出して、私の席の近くまで伸ばした。私はICレコーダーをテーブルに置いた。角に細い傷がある。兄が落としたときのものか、知らない誰かが倉庫でぶつけたものかはわからない。電源を入れると、緑の小さなランプがついた。生き物みたいで、少し腹が立った。

データは六件残っていた。日付が一番新しいものは、事故の日の午後だった。ファイル名はただの連番で、なんの説明もない。私は再生ボタンを押した。

最初に流れたのは風の音だった。マイクが布に擦れるざらついた音、信号機の電子音、遠くで子どもが笑う声。兄の声はしない。次のファイルには、商店街の福引きの鐘が入っていた。三つ目は川沿いらしく、水鳥の羽ばたきと、ランナーの足音が断続的に続いた。

四つ目のファイルで、ようやく兄の声が入った。

『えー、テスト。マイクチェック、午後四時十二分。駅前再開発の音。思ったより工事音が低い』

私は息を止めた。兄の声は記憶の中より少し高く、少し他人だった。死んだ人の声は、思い出の中で均されていく。こうして録音で聞くと、語尾の癖や、短く息を飲む間合いが、やけに具体的で困る。

『あとで真船さんとこ寄る。あの人に頼まれてたやつ、忘れないこと』

そこでファイルは切れた。

真船が目を上げた。「俺に?」

「そう聞こえました」

「何を頼んだかな」

彼は眉を寄せたが、すぐには思い出せないようだった。兄は誰かの頼まれごとを、妙にきちんと覚えている人だった。代わりに自分のことは後回しにした。立派というより、不器用だったのだと今は思う。

五つ目のファイルを再生すると、店内の音が流れた。カップの触れ合う高い音、椅子を引く音、そして真船の声。

『陽介くん、悪いね』

『いえ、ついでですから』

『もし俺が先にくたばったら、あのテープ捨てといてくれないか』

私は思わず顔を上げた。真船はカウンターの中で固まっていた。

『縁起でもないですね』

『いや、そういう話じゃないんだよ。残しとくようなもんでもない』

『残しといて困るなら、預かりますけど』

『預かるって、お前、そういうの全部持って帰る気か』

そこで二人が笑う声がした。兄の笑い声は短く、真船の笑いは息が長い。私はその違いを、たぶん昔は意識したこともなかった。

録音は続いた。

『この店、もう長くないかもしれないしな』

『またそういうこと言う』

『娘がさ、畳めってうるさい。膝も悪いし、まあ、潮時なんだろ』

『じゃあ、なおさら、残しといたらいいじゃないですか』

『何を』

『声とか。店の音とか。誰かが後で聞くかもしれない』

『誰が聞くんだ』

『さあ。でも、なくすよりはいい』

しばらく沈黙があって、それからカップを置く音がした。

『お前はそういうやつだな』

真船の声が、少しだけ笑って、少しだけ泣きそうだった。

ファイルはそこで終わった。

私は六つ目を再生するのをためらった。真船がカウンターから出てきて、私の向かいに座る。この店で店主が客席に座るのを初めて見た気がした。

「その話、忘れてた」

彼は低く言った。

「テープって、何だったんですか」

「女房の声だよ」

私は何も言えなかった。

「若いころ、店を始める前に、二人でカセットに吹き込んだことがあった。将来、店を持てたら、開店前にこれを聞こうって。くだらない話ばっかり入ってる。メニューの名前がどうとか、コーヒーの値段が高い安いとか。で、結局、開店のときは忙しくて聞きもしなかった」

真船の妻は、私が高校生のころに病気で亡くなっている。兄は葬儀にも来ていた。あの日の兄は、受付を手伝いながら、ずっと静かだった。

「捨ててって言ったのは、聞けないからだよ。残ってるってわかってると、聞かないことにも理由が要るだろ」

その言葉は、ひどく正しい気がした。私はこの三年間、兄のことを思い出さないようにしてきたのではなかった。ただ、思い出すたびに、自分が最後に何を言ったのかという狭い穴に落ちるから、穴の近くを歩かないようにしていただけだ。

「最後のファイル、聞きます」

そう言うと、真船はうなずいた。

六つ目のファイルには、車のドアが閉まる音と、エンジンのかかる前の静けさが入っていた。兄はたぶん、運転席で録音ボタンを押したのだ。

『忘れそうだからメモ。真船さんのテープ、来週取りに行く。篠田には、今度ちゃんと話す。あいつ、最近、会社やめてから元気ないし』

私は思わず目を閉じた。兄は続けた。

『言い方を間違えると怒るから、難しいけど。別に、急いで次を決めなくても、生きてれば季節は来る、みたいなことを、もう少しましな言葉で』

小さく笑う声。

『あとプリンは食べていい。どうせまた買えばいいし』

そこで録音は終わった。

店のスピーカーから流れていた曲が切り替わり、針の擦れるようなノイズが一瞬だけ混じった。私は泣くつもりではなかったのに、気づけば涙がカップの縁に落ちていた。コーヒーはすっかり冷めている。

「ずるいですね」

私が言うと、真船は「うん」とだけ答えた。何がずるいのか、たぶん説明はいらない。死んだあとで、ちょうどいいことを言うのは反則だ。反論も訂正もできない。

しばらくして、真船が立ち上がった。

「ちょっと待ってな」

彼は店の奥へ消え、細長い缶を抱えて戻ってきた。蓋の端が錆びている。

「これだよ、そのテープ」

「まだ、あったんですね」

「陽介くんに預ける前に、結局びびってやめたんだ。今さらだけど、聞いてみるかなと思って」

私は缶を見た。中身はただの磁気の帯で、切れたらもう戻らない。それでも、そこに時間が巻かれているのだと思うと、丁寧に扱うしかない気持ちになる。

「店、畳むんですか」

真船は少し考えてから、首を振った。

「いや。木曜だけでも、もう少し開けるよ。医院が休みでも、誰かは来るかもしれないし」

その「誰か」は、たぶん私のことも含んでいた。

店を出るころには、商店街のシャッターは半分以上閉まっていた。夜になりきる前の空は、薄い藍色で、古い紙みたいにやわらかい。私はICレコーダーをコートのポケットにしまい、いつもよりゆっくり歩いた。

兄の言う通り、季節は勝手に来るのだろう。だからこちらは、その来方に少しだけ間に合えばいい。急いで何者かにならなくても、今日みたいに一杯の冷めたコーヒーを前に、止まっていたものがわずかに動く日がある。

曲がり角で振り返ると、《火曜日》の窓に灯りが残っていた。真船はたぶん、錆びた缶を開ける準備をしている。私はスマートフォンを取り出して、新しい求人のページではなく、カレンダーを開いた。次の木曜に小さく印をつける。

それは大げさな再出発ではなかった。ただ、来週そこへ行くと決めるだけの、頼りない予定だ。けれど、生活というのはたぶん、そういう弱い約束をいくつも引き受けて、少しずつ先へ伸びていく。

ポケットの中で、ICレコーダーが指先に触れた。私はもう再生ボタンを押さなかった。聞いた声は消えないわけではないが、すぐに消えるわけでもない。今夜はそれで十分だった。