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短編

帰り道の手紙

言葉を失った青年が、誰かの代筆を通して父に宛てる一通を見つけ直す物語。

Genre
現代文学
Series
単発
#家族#手紙#記憶#病院#再会

病院の一階にある売店では、季節がほかよりゆっくり入れ替わる。

春でもマスクと消毒液が目立つし、夏でも絵葉書の棚には雪景色が残っている。見舞いに来た人は急いでいて、退院する人はたいてい荷物が増えている。私はレジの横に便箋や封筒を並べる係で、ときどき、頼まれれば手紙の文面を書いた。

字がきれいだから、というのが表向きの理由だった。ほんとうは、話すより書くほうが少しましだった。口に出すと角が立つ言葉も、紙の上なら歩幅をそろえて並んでくれる気がした。

「すみません、代わりに書いてもらえますか」

梅雨に入ったばかりの午後、雨粒を肩に乗せたまま、一人の老婦人が売店の前で立ち止まった。薄い藤色のカーディガンを着て、買い物かごに絵葉書を一枚だけ入れている。絵柄は、青い朝顔だった。

備え付けの丸椅子に座ってもらい、私は便箋用の下敷きを差し出した。

「もちろんです。お相手はご家族ですか」

「ええ、主人に」

そう言って、老婦人は少し笑った。長年同じ呼び方をしてきた人だけが持つ、ためらいのない柔らかさだった。

「入院中でね。三階の、記憶の病気の病棟にいます」

私はうなずいた。あの階には、時間をうまく昨日につなげられなくなった人たちがいる。

「どういうふうに書きましょう」

老婦人は窓の外を見た。雨に煙る駐車場の向こうで、紫陽花が濡れながら色を深くしている。

「そうねえ。難しいことは書かなくていいの。朝顔が咲きました、と書いてください。洗濯物は午前のうちに取り込みました、と。それから、晩ごはんは鯵を焼くつもりです、と」

私はペン先を止めた。

「病院のことは、書かなくていいんですか」

「ええ」

老婦人は迷わなかった。

「あの人、もう家にいるのか病院にいるのか、あまりわからなくなっているから。だったら、帰る場所のほうを書いておきたいの」

私はその言葉を、紙より先に胸のどこかへ書きつけた。

老婦人は毎週木曜日に来るようになった。絵葉書はいつも季節の花で、文面はたいてい家の小さな報告だった。冷蔵庫の牛乳を新しいのに替えたこと。縁側の鉢植えに小さな虫がついたこと。近所の子が自転車に乗れるようになったこと。

「そんなことばかりで、退屈でしょう」

一度そう言われて、私は首を振った。

「いえ。読んだ人が、安心する文章です」

老婦人は目を細めた。

「そうだったらいいわ。人はね、正しいことだけで生きてるわけじゃないもの。今日が何日か忘れても、夕方に味噌汁の匂いがするって思えたら、それでちゃんと帰ってこられる日もあるでしょう」

帰ってこられる。

その言葉に、私はいつも少しだけ息が苦しくなった。

私の父も、同じ病棟にいた。

三か月前に入院してから、私は二度しか顔を出していない。一度目は手続きのため、二度目は看護師に呼ばれたからだった。父は私の顔を見て、取引先の誰かと間違えた。私は訂正できずに、曖昧に笑って帰った。

もともと、父とはうまく話せなかった。父は町工場で働いていて、機械の音に負けない声でしかものを言わない人だった。子どもの頃、私は叱られる前に身構える癖を覚えた。母が間に入ってくれていたあいだは、まだ家の会話に橋がかかっていたけれど、その母が五年前に亡くなってから、私たちはだんだん岸同士になった。

最後にちゃんと口論したのは、父が財布をなくしたと騒ぎ、母の遺影に向かって「おまえがしまったんだろ」と怒鳴った日だった。私は思わず「もう母さんを使うな」と言った。父は黙って、湯のみをひっくり返した。畳に広がったお茶の染みだけが、あの晩の会話の形見みたいに残った。

それきり、私は父に何を言えばいいかわからなくなった。

ある木曜日、老婦人はいつもの朝顔の絵葉書を選んだあと、私の顔をまっすぐ見た。

「あなた、誰かに手紙を書きたい顔をしてる」

レジの上で、透明な募金箱の硬貨が光った。私は笑ってごまかそうとしたが、うまくいかなかった。

「書きたいというより、書かないで済ませてるだけです」

「それが一番、重たくなるのよ」

老婦人は自分の絵葉書を裏返しながら言った。

「立派なことを書かなくていいの。謝るとか、許すとか、わかり合うとか、そういう大きい言葉は案外すべりやすいから。今日の天気とか、夕飯とか、そんなのでいいのよ」

「そんなことで、届きますか」

「届く先が心なら、たぶん」

その日の閉店後、私は売り物にならない見本の便箋を一枚もらった。白地に、隅だけ薄い灰色の罫線が入っている。売店の蛍光灯の下で、私は久しぶりに父の名前を書いた。名前を書くだけで、相手がこの世にちゃんといると認めることになるのが、少し怖かった。

父へ。

それだけ書いて、しばらく止まった。謝罪も説明も、すぐには続かなかった。かわりに、売店から見えた夕暮れのことを書いた。病院の駐車場にできた水たまりが、信号の赤を揺らしていたこと。売店の前のベンチで、小さな男の子が退院祝いの風船を離さないでいたこと。帰りに商店街の豆腐屋がまだ開いていたら、湯豆腐にしようと思うこと。

書き終えると、内容はひどくささやかだった。けれど、嘘ではなかった。父がどこにいるのかわからなくなっても、読んだその瞬間だけ寄りかかれるような、手すりくらいにはなるかもしれないと思えた。

翌日の昼休み、私は三階に上がった。

父は窓際の椅子で、外の雲を見ていた。以前より背中が薄くなって、肩だけが頑固そうに角張っていた。看護師に声をかけられ、父はゆっくり私を見た。目に、認識の薄い膜が一枚かかっているようだった。

「こんにちは」

私が言うと、父は少し首をかしげた。

私は返事を待たず、封筒から便箋を出した。

「手紙を書いてきた」

父は、それを受け取る手つきだけは昔のままだった。油で汚れた部品でも壊れ物でも同じ力で扱えた、大きくて不器用な手。父は黙って文字を追い、途中で一度、窓のほうへ視線を逃がした。

長い沈黙のあと、父が言った。

「豆腐なら……生姜を切っとけ」

私は顔を上げた。父はもう紙から目を離していたけれど、口元にわずかな癖が戻っていた。命令のようで、照れ隠しのようでもある、あの言い方だった。

「わかった」

それだけ言うのが、精一杯だった。

父は便箋をもう一度見た。

「おまえ、字がうまいな」

私は笑ってしまった。泣くには静かすぎる午後だったし、笑うには長すぎる空白が、そこにはあった。

病室を出る前、父は便箋をたたみ、枕元の引き出しにしまった。大事な工具を所定の場所へ戻すみたいに、きちんと。

売店に戻ると、夕方の光が床を斜めに横切っていた。レジの横には、新しい絵葉書の束が届いている。向日葵、入道雲、金魚鉢。季節は、ここでは少し遅れて、でも確かに進んでいく。

翌週の木曜日、老婦人はまた朝顔の絵葉書を選んだ。

「今日は何を書きましょうか」

私が尋ねると、老婦人は嬉しそうに考えた。

「そうね。風が少し変わりました、と書いてください」

私はペンを取り、白い面に最初の一行を書いた。

書きながら、帰り道のことを思った。商店街の豆腐屋で一丁買って、生姜を切って、味噌汁は少し薄めにしよう。父が読めなくなる日が来ても、読める日がたまに戻ってきても、そのどちらにも間に合うように、私はこれから何度でも書くだろう。

帰る場所は、立派な家でなくてもいい。

紙一枚の上に、夕飯の湯気ひとつ分あれば、人はそこへ向かって歩けるのかもしれなかった。