短編
岬のベンチ宛て
閉鎖を控えた小さな郵便局で働く女性が、長いあいだ宛先を持てなかった手紙を、岬のベンチに座るひとりの女性へ届ける話。
汐見郵便局が閉まるまで、あと四日だった。
潮風のせいで看板の青はすこし白く剥げ、玄関脇の赤いポストには、長く海を見てきた金属だけが持つ鈍い艶が出ていた。沙代は臨時職員として、その最後の片づけを手伝っていた。窓口はもう午後二時で閉め、奥で帳簿や古い書式の束を箱に詰める仕事ばかりになっている。
郵便局が閉まる町には、静かな諦め方がある。魚屋は「今どき車で十分だしな」と笑い、薬局の主人は「年寄りにはちょっと遠いが」と笑わずに言った。誰も怒鳴らないかわりに、少しずつ不便の形に身体を合わせていく。その感じが、沙代は苦手だった。濡れたシャツが背中に貼りつくみたいで、じわじわと気持ち悪い。
その日、古い仕分け棚の最下段を外したとき、奥に薄い缶箱が見つかった。青い紐で束ねられた封書が十一通、きちんと重なっている。いちばん古い消印は十二年前、いちばん新しいものは去年の秋だった。どれも切手は足りていて、封も切られていない。ただ、宛名だけが妙だった。
岬のベンチで、たいてい海を見ている人へ
住所も郵便番号も、名前すらなかった。
箱の裏に、小さく鉛筆で書き込みがあった。
「保留 黒田」
黒田はこの局の元局長で、三年前に退職した人だった。今は足を悪くして、港の向こうの施設にいると聞いている。沙代はその日の帰りに寄ってみた。
黒田は窓辺で将棋の本を開いていたが、沙代の顔を見るとすぐに目を細めた。
「ああ、宮本さんとこの娘さんか。手足が似てきたな」
母がこの局でパートをしていたことを、沙代は久しぶりに思い出した。夏休みに連れてこられ、切手の裏の糊の匂いを嗅いでいた記憶がある。
封書の束を見せると、黒田は本を閉じ、しばらく黙って海のほうを見た。
「捨てずに残ってたか」
「届けなかったんですか」
「届け先が、いつもそこにいるとは限らなかったからな」
黒田はそう言って、封筒を指先で軽く撫でた。
差出人は晴男という漁師だった。無口で、港では一日に三語しか話さないとからかわれていたが、手紙だけは毎年きちんと書いて局へ持ってきたのだという。相手は千春という女性で、昔は夕方になると岬のベンチで海を見ていた。夫を事故で亡くしてから、そういう時間が増えたらしい。
「じゃあ、届ければよかったのに」
沙代が言うと、黒田は苦笑した。
「晴男がな、毎回『まだいい』と言うんだ。出す以上は届いてほしい。でも届いたら困る、とも言う。難儀な男だった」
「意味がわかりません」
「わしも半分しかわからんよ」
黒田は咳をしてから続けた。
「ただ、去年の冬に晴男が倒れてな。見舞いに行ったら、郵便局が閉まる前に、もしあの人がまた岬に座っていたら渡してくれと言った。ぜんぶでなくてもいい、一通でもいいからと」
施設を出たとき、海は夕方の色になっていた。紫と灰色のあいだみたいな、名前のつきにくい色だった。沙代はそのまま岬まで歩いた。町のはずれの遊歩道を抜け、風の強い坂を上る。ベンチは崖の手前にひとつだけあり、座面の木が潮で白く痩せていた。
その日は誰もいなかった。
次の日も、その次の日も、ベンチは空だった。沙代は局の仕事を終えると岬へ寄り、十分だけ座って帰った。海は毎日ちがう顔をしているのに、空のベンチだけは同じ表情で黙っていた。
閉鎖前日の夕方、ようやく人影があった。
紺色の薄いカーディガンを羽織った女の人が、膝の上に両手を揃え、海を見ていた。髪には白いものが混じっていたが、背中は思ったより若く見えた。近づくと、相手がこちらを向いた。目の形が、古い町の人によくある、笑う前から少し笑っている目だった。
「すみません」と沙代は声をかけた。「汐見郵便局の者です」
女性は首をかしげた。「もう閉まるんでしょう」
「明日で」
「そう。困るわね」
口調に大げさなところがなく、本当に少しだけ困ると言っているのがわかった。
沙代は封書の束を差し出した。
「もしかしたら、あなた宛てかもしれません」
女性は受け取らず、まず宛名を見た。それから、ほんの少しだけ肩を落とした。
「ずいぶん遠回りしたのね」
「千春さん、ですか」
「ええ」
風が強くなり、封筒の角がかすかに鳴った。千春はようやく両手を伸ばして束を受け取った。重さをたしかめるように、掌の上でそっと持ち直す。
「誰からかは、聞きましたか」
「晴男さんからだと」
「そう」
千春はそこまで言って、ひとつ笑った。嬉しいとも悲しいとも言えない、長い時間のあとでしか出ない笑い方だった。
「生きてるうちに渡せばよかったのにね、あの人」
責める調子ではなかった。海のことを言うみたいに、仕方のない事実として口にしただけだった。
沙代は返す言葉に困った。代わりに、「すみません」となぜか謝った。
千春は首を振り、いちばん上の一通だけを開けた。便箋を広げる指が、驚くほど迷わない。読み終えるまで、沙代は海を見ていた。波が岩に触れて砕けるたび、白い息のようなものが上がっては消えた。
「なんて書いてありましたか」と、沙代は訊かずにいられなかった。
千春は便箋を折り直しながら言った。
「このベンチから見る灯台は、季節で大きさが変わる気がする。あなたがいる日は小さく見える、って」
沙代は思わず笑った。「変な手紙ですね」
「ええ、変な人だったから」
千春も笑った。今度ははっきりと。
「でも、わかるの。そういう言い方しかできない人がいるって」
束の上から二通目、三通目へと指を滑らせながら、千春は海ではなく封書を見つめていた。十二年という歳月が、急にここへ持ち込まれたのに、彼女は取り乱さなかった。悲しみが静かすぎて、もう悲しみの形をしていないのかもしれないと、沙代は思った。
「返事を書いてもいいかしら」と千春が言った。
「もちろんです」
「どこに出せば届くと思う?」
冗談のようでもあり、本気のようでもあった。
沙代は少し考え、それから正直に答えた。
「わかりません。でも、受け取ります」
千春は小さくうなずいた。近くの売店はもう閉まっていたので、沙代は局から持ち帰っていたメモ帳とボールペンを差し出した。ベンチの端で千春は短い手紙を書いた。何度も考え込むことはなく、数行で終わった。封筒の表にはこう書かれていた。
潮の匂いをつけて帰る人へ
差出人はない。
「困らせてごめんなさい」と千春が言う。
「郵便局の仕事ですから」
そう答えた瞬間、自分でも少し可笑しかった。住所も名前もない手紙を受け取って、仕事ですと言えるくらいには、この町に染まっていたらしい。
翌朝、汐見郵便局の最後の日は、驚くほどいつも通りに始まった。年金の振込を訊きに来る人がいて、切手を記念に買う人がいて、ポストの前で写真を撮る親子がいた。昼過ぎ、閉局の時刻になると、局長代理が短い挨拶をし、シャッターが半分だけ下ろされた。
片づけの最後に、沙代は千春の手紙へ消印を押した。
二〇二六年六月二十日 汐見
乾いた音が、小さな局内にきれいに響いた。届く先はわからない。それでも、たしかに受け付けたという印だけは残せる。郵便というものの情けは、もしかするとそこにあるのかもしれなかった。
集配袋のいちばん上に、その手紙を入れる。宛先のない手紙は本来なら受けられない。けれどこの局は今日で終わる。最後くらい、規則より先に救われるものがあってもいいと沙代は思った。
シャッターを下ろしきる前に、外のポストを見に行くと、口の縁にひとひら、白い小さな貝殻が引っかかっていた。誰かのいたずらか、風の運んだ偶然かはわからない。沙代はそれを指先でつまみ、ポストの上にそっと置いた。
海のほうから、夕方の風が来ていた。岬のベンチまで届くくらい、まっすぐな風だった。