短編
返却期限のない図書館
返しそびれた一冊に導かれた男が、別れを先延ばしにしていた自分の時間へ静かに向き合う話。
駅前の再開発で、古い市立図書館が取り壊されることになったと聞いたのは、梅雨の終わりだった。新聞の隅に、来月閉館、と小さく載っていただけなのに、私はそれを見つけた瞬間、胸のあたりに薄い紙で指を切ったような痛みを覚えた。
図書館には、返していない本が一冊ある。
正確には、返せなかった本だ。十年前、妻が入院する前に借りた詩集で、表紙は群青色、題名はたしか『水辺の光』だった。病室で読もうと思って持っていき、結局ほとんど開かないまま、彼女の荷物と私の仕事と葬儀と手続きに押し流され、気がつけば本は部屋の本棚の、奥の奥に沈んでいた。
督促は来なかった。延滞金もない図書館だった。こちらから忘れたふりをすれば、あちらも何も言わなかった。その沈黙に甘えているうちに、十年が経った。
閉館の知らせを読んだ夜、私は本棚の前に座り込んだ。埃をかぶった文庫や旅行案内の背を指先でなぞっていくと、群青色は案外あっさり見つかった。薄い詩集だった。ページの間に、黄ばんだ診察券が挟まっていた。妻の名前が、もう他人のもののような顔でそこに印字されていた。
翌土曜、私は詩集を鞄に入れて図書館へ向かった。
建物は昔より小さく見えた。子どもの頃は城のように思えたレンガの壁も、今は雨に濡れた菓子箱のように頼りなく、玄関脇の植え込みには雑草がまばらに伸びていた。自動ドアは少し遅れて開き、冷えすぎた空気と紙の匂いが私を迎えた。その匂いだけは昔のままだった。
カウンターには若い司書がひとりいた。私は鞄の中の詩集に触れたが、すぐには出せなかった。十年返していませんでした、と言うには、あまりに遅すぎる気がした。謝罪には鮮度がある。腐ったものを差し出すようで、ためらった。
館内をひとまわりしてからにしようと思った。
雑誌コーナーの椅子は新しくなっていたが、窓際の閲覧席は昔のままだった。そこで妻はよく本を読んでいた。私と付き合い始めた頃、待ち合わせに早く着くと、彼女はここで時間をつぶしていた。私はその姿を見つけるのが好きだった。窓の光のなかで、世界から半歩だけ遠いところにいるような顔をしていた。
二階の郷土資料室へ上がる階段で、見覚えのある後ろ姿を見た。ベージュのカーディガン、肩までの髪、細い首筋。もちろん妻であるはずがなかった。いるはずがない。しかし、その人が踊り場で少し振り向いたとき、私は思わず足を止めた。
顔は違った。年齢もたぶん、妻が亡くなったときより若い。それでも、目のあたりに奇妙な既視感があった。
「どうかしましたか」
女の人のほうから声をかけてきた。
「いえ」と私は言い、「少し、知り合いに似ていたもので」
それは失礼な言い方だったが、彼女は気を悪くした様子もなく、小さくうなずいた。
「この図書館、そういうことが多いですよ」
「そういうこと?」
「誰かに似ている人を見かけるんです。たぶん、みんな長く通っているから。記憶が本棚みたいに並んでいて、似た背表紙を見つけると、勝手に引き出してしまう」
彼女はそう言って笑った。静かで、乾いていて、それでもどこかやわらかい笑い方だった。
「閉館するから、今日は人が多いですね」
「ええ」
「何か、お探しですか」
「返したい本があるんです」
「それなら、早めに返したほうがいいですよ」
彼女は当然のことのように言った。
「本だけじゃなくて」
「え?」
「返さないまま持っているものって、長く持つほど、自分のものみたいな顔をしてきますから」
言い終えると、彼女は会釈して二階へ上がっていった。私はしばらくその場に立っていた。赤の他人に言われただけの言葉なのに、薄い刃物のようにまっすぐ入ってきた。
カウンターへ戻ると、若い司書は貸出処理の機械を拭いていた。私は鞄から詩集を取り出した。
「あの、これを返却したいんですが」
司書は本のバーコードを探し、裏表紙をめくって一度だけ目を上げた。
「かなり前のお預かりですね」
責める調子ではなく、天気を読むような声だった。
「すみません。返しそびれてしまって」
「大丈夫ですよ」
機械に通しても反応がなく、彼女は古い端末を数回叩いた。やがて、少し困ったように笑う。
「記録がもう残っていません。古いデータは移行できなかったので。返却処理は不要です」
不要です、と彼女は言った。
私は妙に狼狽した。十年分のためらいが、たったそれだけで無効になるのが信じられなかった。
「でも、借りたままだったんです」
「本は戻りました。それで十分です」
司書は詩集を受け取り、返却済みの棚に置いた。あまりにあっけなくて、私はその群青色が遠ざかるのを見送るしかなかった。叱られたかったのかもしれない。罰を受ければ、終わった気がしただろう。だが現実は、ただ静かに受け取られただけだった。
「閉館まで、館内で読まれますか」
「いえ……少しだけ」
私は窓際の席に座った。雨が降り出していた。ガラスに細い筋がいくつも流れ、外の景色を読みづらくした。ちょうどあの頃みたいだ、と思った。病院の窓も、あんなふうに雨をまとっていた。
妻は死ぬ前の日、唐突に言ったのだ。本、返しておいてね、と。
私は、もちろん、と答えた。軽く、簡単に。できることだと思っていた。だがその約束は小さすぎたせいで、かえって大きくなった。守れなかったことが、彼女を失ったことの周りに薄い膜を作り、私はそこを破れずにいたのだ。返してしまえば本当に終わる気がして、終わらないために先延ばしにした。十年も。
館内放送が、まもなく閉館時刻です、と告げた。
私は立ち上がり、返却棚の前へ行った。群青色の詩集は、もう他の本と並んでいた。そこにあることが自然で、私の手にあった十年間のほうがむしろ不自然に思えた。
出口へ向かう途中、二階で会った女の人の姿を探したが、見つからなかった。司書に尋ねようかと思ってやめた。たぶん、尋ねるようなことではない。誰かに似ている人だった。ただそれだけで十分だった。
玄関で傘を開く前に、私は振り返った。消えかけた蛍光灯の下で、図書館はひどく老いて見えた。けれど、みじめではなかった。役目を終えようとする建物の、疲れていて親切な顔だった。
私はポケットから妻の診察券を取り出した。詩集に挟まっていたものだ。いつのまにか手に残していたらしい。雨に濡らさないようにしばらく掌に包んでいたが、やがてそれを財布の透明なポケットに入れた。捨てるのではなく、しまうのだと思った。返すべきものは返した。残すものは、自分で残すと決めればいい。
階段を降りると、雨脚は少し弱まっていた。駅前の工事用フェンスの向こうで、重機の腕が暗い空に伸びている。その先に新しい建物が建ち、古い図書館はなくなるだろう。なくなっても、そこにいた時間まで壊されるわけではない。
私は傘をさして歩き出した。背中が軽いわけではなかった。ただ、重さの名前が少し変わった気がした。もうそれは返却遅れではなく、持って生きていく記憶だった。そう思うと、雨の匂いの中に、ごくかすかな紙の匂いがまじった。私は振り返らずに、駅の灯りのほうへ歩いた。