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短編

光差郵便局の朝

恒星間航行船に乗った母との長い通信遅延のなかで、地上に残された娘が届くのが遅すぎた手紙に返事を書く物語。

Genre
SF
Series
単発
#通信#時間差#家族#宇宙#喪失

東京湾の外縁にある光差郵便局では、朝が二度来る。

ひとつは地球の自転に合わせた普通の朝で、窓のブラインドに海の反射光が差し込む。もうひとつは、外惑星中継鏡の反射角が合って、深宇宙からの通信がまとめて雪崩れ込む朝だ。こちらの朝は毎日少しずつ時刻がずれる。七時十三分の日もあれば、九時四十六分の日もある。私はその不規則な朝に合わせて出勤する。

届くのは、紙ではなく薄い金属膜に焼かれた文字だ。恒星間航行では、軽く、折れず、熱に強いものが好まれる。封筒の表面には送信地点と送信時刻、受信補正後の地球時間、それから差出人がどれだけ老いたかの推定値まで印字されている。郵便番号よりも、相対速度のほうが大事な世界になって久しい。

母は八年前、ケフェウス三号という移民船で地球を離れた。

地球では八年でも、母の側ではまだ三年少ししか経っていないはずだった。だから母から届く手紙には、古い天気のような明るさが残っている。船内菜園で最初のトマトが赤くなったこと。人工重力が安定した夜、みんなで紙の本を回し読みしたこと。甲板と呼ぶには狭すぎる観測室から、後退していく太陽を見たこと。

そのたびに私は返事を書き、母の知らない地上の年数を薄く均して送った。祖母が亡くなったことも、家の前の水路が埋め立てられたことも、父の咳が長引いていることも、一度に知らせると重すぎる気がして、少しずつ、天気の報告みたいに書いた。

父が死んだのは去年の冬だった。

肺の病気だった。昔の工場の、もう名前も残っていない微細粉塵が原因だと医者は言った。最期まで父は母のことを悪く言わなかった。「あいつは遠くへ行ったんじゃない、遅くなっただけだ」と、熱で乾いた喉で冗談みたいに言った。その言い方が、私はずっと嫌いだった。遅くなっただけで済む距離ではないと、残された側だけが知っている。

その朝、仕分け機の端で、古い規格の封筒が一枚はじかれた。今は使われていない、手書き用の余白が広い型だった。宛名は父の名前。差出人は母。送信時刻は、地球時間に直すと二年前の春になっていた。中継鏡の不具合で、木星軌道の倉庫局に取り残されていた便らしい。

死亡した宛先への通信は、規定どおりなら返送する。あるいは遺族代読の申請を出して、職員立ち会いのもとで開封する。

私は申請端末に自分の名前を打ち込んだ。

金属膜は、開くとき小さな冬の音を立てた。

手紙は短かった。母らしい、余白の多い文章だった。

船の主機関が定常運転に入って、はじめて「揺れない朝」が来たこと。揺れなくなった途端、自分が本当に戻れないところまで来てしまったのだとわかったこと。台所の流し台に置きっぱなしだった青いマグカップを、まだ父が片づけていない気がすること。私が高校の制服のまま、黙って食パンをかじっていた後ろ姿を、最近やけに思い出すこと。

それから最後に、こう書いてあった。

「あなたと汐里に、わたしはずいぶん長い返事をさせてしまっている気がします。家の柿は、今年も屋根を叩きましたか」

私はしばらく、その一文だけを見ていた。

実家は今月で収用されることになっていた。海面上昇対策の防潮堤を広げるため、周辺一帯の古い住宅は取り壊される。庭に一本だけ残っていた柿の木は、移植業者が引き取る手はずになっていた。父は最後の秋まで、落ちた実を拾っては、甘くもないのに台所に並べていた。

昼休みに私は局を出て、実家へ向かった。無人化された沿岸線の上を、細い電車が音もなく走る。家にはもうほとんど何もなく、畳の跡だけが四角く日に褪せていた。業者の印が柱に白く付いている。庭では、作業前の確認に来た若い人が柿の幹を測っていた。

一本だけ実が残っていた。枝の高いところで、冷たい色をしていた。

私は脚立を借りて、それを取った。掌に乗せると、思ったより軽かった。熟しきらないまま冬を越した実の重さだった。

郵便局へ戻ると、私は業務用ではなく私信の用紙を開いた。送信に使うのは同じ金属膜でも、私的な文面は少しだけ文字が柔らかく刻める。

母へ。

お父さんは去年、亡くなりました。あなたの手紙は間に合いませんでした。でも、遅すぎたとは思いたくありません。今朝、家の柿は最後の一つを枝に残していました。屋根はもうすぐなくなります。木は移されます。場所は変わるけれど、実が落ちる音までなくなるわけではないと、私は今日、少しだけ思えました。

書いてから、私はその下にもう一行だけ足した。

あなたの青いマグカップは、欠けたまま、まだあります。

それは本当だった。父は最後まで捨てなかったし、私も捨てられなかった。

封をする前に、私は庭で拾った柿の実を机の横に置いた。規定で生体試料は送れない。だから代わりに、表面の傷の形を高精度で走査して、同封データに添えた。意味があるのかはわからない。ただ、果物ひとつにも、ここを通ってきた冬の時間が刻まれている気がした。

送信窓が開くまで、あと十二分。

局内の時計は複数の時刻を並べて表示している。地球標準時。木星反射補正時。ケフェウス三号船内推定時。母のいる場所の朝は、こちらより少し若い。

私は送信承認のボタンに指を置き、ほんの少しだけためらった。返事が届くころ、母はどんな顔でこの文字を読むのだろう。泣くのかもしれないし、泣かないのかもしれない。そこまで想像して、やめた。光年の向こうの表情まで、地上にいる私が決める必要はない。

やがて窓の外で中継鏡の角度が変わり、局内のランプが青に変わった。

私は送信した。

細い光の束に変換された私の手紙は、見えないまま空へ上がっていった。朝が二度来る局で、二度目の朝はいつも少しだけ寂しい。けれどその寂しさには、たしかに宛先がある。私は机の横の柿を持ち上げ、まだ冷たいその重さを確かめた。遠くへ行ったものにも、遅れて届くものにも、それぞれの速度で触れ直すしかないのだと思った。

ブラインドの隙間から射した光が、金属膜の控えに細く反射した。海は満ちていて、古い街の輪郭はもう見えなかった。それでもどこかで、屋根を叩く実のような小さな音が、たしかに続いている気がした。