短編
窓際の読書会
区立図書館の小さな読書室で続く二人分の予約を引き継いだ司書補は、町の名前を読み上げる静かな約束の意味を知っていく。
区立みなと川図書館の分館は、古い商店街のはずれにあった。駅前に新しい複合施設ができてから、利用者は目に見えて減り、返却ポストに本が落ちる音だけが広く聞こえる午後も珍しくなかった。
僕はその分館で、年度末までの司書補をしていた。正規職員がひとり、あとは午前と午後で交代するパートが二人。十二月の半ば、カウンターの引き継ぎで、退職を控えた堀内さんにひとつだけ念を押された。
「毎月、最終水曜の五時半。読書室の二番を空けておいて。椅子は二脚、窓を少しだけ開けるの」
「利用者名は」
「御影さん。たぶん、それで通じるから」
たぶん、という言い方が仕事の引き継ぎとして正しいのかはわからなかったが、堀内さんは利用カードの束を整えながら、それ以上説明しなかった。
最終水曜の夕方、読書室二番に椅子を二脚置き、窓を指一本分だけ開けた。冷たい空気が細く入ってきて、紙の匂いに冬の湿り気が混じった。
やってきたのは、灰色のコートを着た小柄な老女だった。髪はきちんと撫でつけられ、紺の布袋を提げていた。
「御影さんですか」
「ええ。今月も、ここで」
彼女はそう言って、貸出カウンターから市史の薄い巻と、昔の路面電車の写真集、それから天気の記録をまとめた郷土資料を抱えていった。小説ではなく、たいてい町のことが書かれた本ばかりだった。
読書室の扉は完全には閉まらない。古い蝶番が少し歪んでいるせいで、細い隙間ができる。その隙間から、彼女の声がときどき聞こえた。
「ほら、藤枝さん。この橋、欄干が新しくなったんですって」
「駅前のパン屋は去年で閉めたそうよ」
「でも、桜の時期の風だけは、まだ同じね」
相槌を打つ声はない。あるのはページをめくる音と、彼女の穏やかな読み上げだけだった。
最初は、亡くなった家族に話しかける類いのものかと思った。図書館はそういう個人的な儀式が意外と似合う。静かで、誰にも邪魔されず、時間だけは平等にある場所だからだ。
けれど、予約台帳を見て少し不思議になった。御影千代の名前の下に、ずっと手書きで「同席者 藤枝夏」とある。蔵書システムで検索すると、藤枝夏の利用カードは八年前に失効していた。住所不明、更新なし。備考欄にだけ、堀内さんのものらしい丸い字で「読書室予約継続」と残っていた。
継続、とだけ。
一月の終わり、雪の予報が外れて、重たい雨になった日があった。閉館後、御影さんは自分の手袋を本の間に挟んだまま帰ろうとして、僕が声をかけた。
「駅まで送ります」
「そんなに遠くないのよ」
そう言いながら、彼女は図書館の外で立ち止まった。商店街のアーケードの先を見ているようで、でも焦点は少しずれていた。
「ここ、前は何屋さんだったかしら」
向かいの空き店舗を指して、彼女が訊いた。今はシャッターにテナント募集の紙が貼られているだけだ。
「少なくとも、僕が来たときはもう空いてました」
「そう。じゃあ、私のほうが古いのね」
笑っていたが、どこか困っている顔でもあった。結局、僕は彼女の住む団地まで傘を差した。エントランスの名札はほとんど剥がされていて、郵便受けにも空白が多かった。御影さんの部屋の表札の横には、もうひとつ外された跡があり、日焼けの差だけが四角く残っていた。
「藤枝さんは、お友達ですか」
階段の踊り場で訊くと、御影さんは少しだけ考えてから、手すりに指を置いた。
「昔、私たちは町の名前を決める仕事にいたの。新しい道路、できたばかりの公園、橋、広場、停留所。地図に載る前の場所には、まだ名前がないでしょう」
「はい」
「藤枝さんはね、名前がつく瞬間が好きだった。誰かがそこで待ち合わせできるようになるからって」
雨の音が、団地の吹き抜けをゆっくり落ちていった。
「でも、年を取ると、名前からこぼれていくのよ。店の名も、道の呼び方も、人の顔も。忘れてしまうほうもつらいけれど、忘れられる町も、たぶん少しずつ消えていく」
彼女はそこで一度言葉を切った。
「どちらかが先に怪しくなったら、毎月会って、この町のことを読み上げようって約束したの。新しくなくなるもの、なくならないもの、ちゃんと残っている匂いまで。そうすれば、少なくとも二人のあいだでは、町は急に消えないから」
「藤枝さんは、今は」
僕が言いかけると、御影さんは困ったように目を伏せた。
「それがね、最近、順番がわからなくなるの」
それからの彼女は、ときどき同じことを二度訊いた。来館のたびに「今日は最終水曜でしたっけ」と確認し、読書室に入ると必ず空いた椅子の背を軽く撫でた。読み上げる内容も、以前は月ごとに変わっていたのに、少しずつ繰り返しが増えた。
「川沿いの柳が切られたそうよ」
「駅前の郵便ポスト、赤が塗り直されたの」
「パン屋は去年、閉めたのよね」
それでも読み上げる声は落ち着いていて、妙な執着や芝居がかった感じはなかった。ただ、誰かと続けてきた話の途中を、途切れさせまいとしているように聞こえた。
二月の終わり、分館の閉鎖が正式に決まった。利用者には駅前の中央館への統合が案内され、掲示板には大きなお知らせが貼られた。御影さんはそれを見上げて、「終わる場所が増えると待ち合わせが難しいわね」と言ったあと、すぐに「でも、あなたたちは悪くないのよ」と付け足した。
三月の最終水曜は、朝から風が強かった。古い建物は外壁のどこかで小さく鳴り続け、返却ポストの蓋も何度もかたかた鳴った。御影さんの予約はいつもどおり入っていた。僕は読書室二番に椅子を二脚置き、湯のみを二つ並べ、窓を少しだけ開けた。
五時半になっても、六時になっても、御影さんは来なかった。
閉館時刻が近づき、同僚たちは返却処理と戸締まりを始めた。僕はなぜか読書室の片付けに手をつけられず、そのまま席に座った。机の上には、昼のうちに郷土資料棚から選んでおいた古い市街図がある。何気なくそれを開いた。
昭和の地図には、今はもうない停留所の名が並んでいた。朝凪町、汐見橋前、柳原二丁目、みなと川市場入口。声に出して読んでみると、紙の上の文字が少しだけ輪郭を持つ気がした。窓の隙間から入る風がページをかすかに揺らし、向かいの空いた椅子の脚が床を擦って、ごく小さな音を立てた。
そのとき、返却ボックスの回収に行っていた同僚が、「これ、読書室の人のかな」と一枚の紙切れを持ってきた。レシートの裏に、震えた字でひとことだけ書いてあった。
今月も窓を少しだけ
それだけだった。名前はない。
閉館後、読書室の利用記録を整理しながら、僕は予約台帳の「同席者 藤枝夏」という文字をしばらく見ていた。これを削除するべきなのか、中央館へ引き継ぐべきなのか、判断がつかなかった。システム上は存在しない利用者で、もう来ないかもしれない人のための記録だ。それでも消してしまうと、何かが本当に終わってしまう気がした。
結局、備考欄に短く書いた。
「最終水曜 17:30 読書室二番 窓少し開」
中央館に必要な情報とは思えなかったが、それ以外に残し方を知らなかった。
四月になって、分館の建物は閉まり、掲示板も外された。前を通ると、ガラス扉に僕の姿だけが映る。商店街の端で風が回り、どこか遠くで工事の音がした。停留所の名前は新しい表示に変わっていて、地図アプリも更新されていた。
それでも最終水曜の夕方になると、僕は少しだけ窓の開いた部屋を思い出す。
あの日、待っていたのが御影さんだったのか、藤枝さんだったのか、もう自信がない。約束を覚えていたのがどちらで、先に町の名前からこぼれていったのがどちらだったのかも、はっきりしない。
ただ、町は人がいなくなってからもすぐには消えず、誰かが呼ぶあいだだけ、細く残るのだと思う。
だからときどき、ひとりで古い地図を開く。声に出すほどではないけれど、失くなった停留所の名を順に目で追う。そのたびに、指一本分だけ開いた窓から入る冷たい空気まで、一緒に思い出せる気がするのだった。