短編一覧へ戻る

短編

雨の日の図書館の余白

除籍される本の余白に残された短い言葉をたどって、司書補の青年は名も知らない二人の時間の続きを見届ける。

Genre
日常幻想
Series
単発
#図書館#手紙#記憶#再会#雨

その年の六月は、雨が丁寧だった。激しくもなく、やむ気配もなく、図書館の窓を一日じゅう細い指で叩いていた。

私は市立すずかけ図書館で、三か月だけの司書補をしていた。司書補といっても、やることの半分は本を運ぶことで、残りの半分は本の行き先を決めることだった。返却棚に戻すのか、修理に回すのか、あるいは除籍するのか。人にたとえるなら、玄関まで送り届ける役目に近い。

梅雨のあいだ、私には地下書庫の整理が任されていた。古い蔵書をデータベースに移し、重複や傷みの激しいものを選り分ける。地下はいつもひやりとしていて、紙と糊と湿気が混ざった匂いがした。私はその匂いが嫌いではなかった。ものが長く同じ場所にいたときだけ持つ、静かな諦めの匂いだった。

その本を見つけたのは、火曜日の午後だった。

『月の裏側の植物図鑑』という、三十年近く前の翻訳本だった。背表紙は日に焼け、表紙布は角から白く擦れている。内容は、ありもしない植物について学者めいた口調で延々と説明する、少しおかしな本だ。借りる人はほとんどいないのに、なぜか捨てられずに残っている本というのが図書館にはある。この本もその一冊だった。

開くと、百十二ページの下端に、ごく薄い鉛筆の文字があった。

「雨の匂いがする日は、ここから読む」

落書きと呼ぶには控えめで、書き込みと呼ぶには親しげすぎた。

私は顔を近づけた。筆圧が弱く、消しゴムで消そうと思えば消えてしまうような文字だった。けれど、書いた人はきっと消されるとは思っていなかったのだろう。消されてもかまわないと思っていたのかもしれない。余白に書かれた言葉というのは、たいていそういう顔をしている。

業務手順では、書き込みのある本は除籍候補に回すことになっていた。私はその本を「要確認」の箱に置いた。だが次の本を扱っているあいだも、百十二ページの一文が、濡れた靴下のように意識に張りついて離れなかった。

その日の閉館後、カウンターで先輩の久世さんに訊いた。

「古い本に書き込みがあったら、やっぱり廃棄ですよね」

「内容によるかな」と久世さんは返却本のバーコードを読みながら言った。「電話番号とか悪質なのはだめ。でも、昔の図書館って案外おおらかだったのよ。栞を挟んだまま返す人もいたし、献本に手紙が挟まってることもあった」

「手紙」

「読まないで捨てるのがいちばん正しい。でも、たまに読んじゃうのよね」

久世さんはそう言って笑った。笑い方が、白いマグカップの縁みたいに乾いていた。

「その本、何が書いてあったの」

「『雨の匂いがする日は、ここから読む』って」

久世さんはバーコードリーダーを止めた。

「いいわね。なんだかもう、それだけで小説みたい」

「でも消さないと」

「消してもいいし、消さなくてもいい。図書館は、正しいことだけでできてるわけじゃないから」

その言葉は慰めというより、古い鍵のように聞こえた。どこかの扉に合うのだろうが、今の私にはまだどの扉かわからなかった。

翌日、私はもう一度『月の裏側の植物図鑑』を開いた。百十二ページから先をめくると、別の余白にも薄い文字があった。

「この花はたぶん嘘だけど、あなたの説明は本当みたい」
「返却日までには読み終えるつもり」
「次は一六八ページ」

まるで会話だった。ただし二人のうち一人は几帳面で、一人はそっけない。筆跡が違う。片方は丸みがあり、もう片方は細く急いでいる。読むうちにわかった。これは感想の書き込みではなく、誰かが誰かに宛てて残した、遅い往復書簡だった。

図書館の本でやることではない。けれど、その禁じられた感じが、むしろ切実に思えた。私用のノートも、メールも、いくらでもある時代に、わざわざ返却期限のある本の余白に言葉を残す。その不便さには、それだけの理由があったはずだ。

私は貸出履歴を見たい誘惑に襲われたが、もちろんできなかった。システム上も、倫理上も。図書館は、読んだ本から利用者を守る場所だ。何を読んだかを知られないために、本は貸し出される。私はその当たり前を尊いと思って働き始めたのに、余白の二人のことだけは知りたかった。

数日かけて全ページを確認すると、書き込みは十三か所あった。最後は二百三ページ。

「先に返します。つづきはまた」
「じゃあ次は、雨の降る日に」
「約束は苦手だけど、これは覚えておく」

それで終わっていた。

終わっていることが、かえって気になった。約束の先が書かれていないのは、守られたからか、守られなかったからか、どちらでもありえた。

私はその本を除籍箱から外し、修理待ちの棚に移した。誰に命じられたわけでもない小さな延命だった。

それから雨の日ごとに、私はその本を開くようになった。百十二ページから読み始める。植物の説明は相変わらずもっともらしくて馬鹿馬鹿しく、余白の言葉は相変わらず慎ましかった。私は名前も顔も知らない二人のあいだに立ち入っている後ろめたさを感じながら、それでもページをめくるのをやめられなかった。

七月のはじめ、閉館三十分前に一人の女性が入ってきた。六十代の終わりくらい、紺色のレインコートの袖口がすこし濡れていた。館内を一巡してから、彼女はカウンターに来た。

「古い、植物の本を探しているんですけど」

私は検索端末を彼女のほうに向けた。「題名はおわかりですか」

「たしか、月がどうとか」

心臓が、棚の奥で本が倒れたときのように鳴った。

「『月の裏側の植物図鑑』ですか」

女性は目を上げた。驚いたというより、見つかると思っていなかったものが目の前に現れた顔だった。

「ええ。まだありますか」

「あります」

言ってから、私は少しだけためらった。図書館員は本の探し手に対して公平であるべきだ。けれど私はその一冊に限って、公平ではいられなかった。

地下書庫まで取りに行くあいだ、階段の踊り場で足を止めた。もし彼女があの余白の片方だったら。もし違ったら。どちらでも、私は余計なことを知りすぎている。そんなことを考えながら本を抱えて戻ると、女性は窓際の閲覧席に座って待っていた。

本を渡すと、彼女は表紙を撫でた。撫で方に覚えがあるような気がしたが、もちろん私に覚えがあるはずはなかった。

「この本、昔よく借りたんです」と彼女は言った。「若いころ」

「お好きなんですね」

「内容は半分も覚えてないんですけどね。待ち合わせに使っていたの」

私は息をのみ、顔に出ないよう気をつけた。女性は私が何も知らない前提で話している。その前提を壊したくなかった。

「変でしょう」と彼女は笑った。「あのころ、携帯なんてなかったし、家に電話をかけるのも気を遣う相手で。図書館なら誰にも見つからないと思って」

「見つからなかったんですか」

「たぶん、半分くらいは」

女性は本を開き、迷わず百十二ページを探し当てた。指がその余白の上で止まる。私は見てはいけないものを見ている気持ちになって、視線を窓の雨へ逃がした。

「まだ残ってる」

女性は、ごく小さくそう言った。

「消されていると思っていましたか」

「当然でしょう。本に書くなんて、褒められたことじゃないもの」

「そうですね」

「でも、消えてなかったんだ」

その「だ」だけが、不意に若かった。

私は迷った末に言った。「最後の約束の先は、書かれていませんでした」

女性はページから顔を上げた。叱られるときのような、やさしい驚きがあった。

「読んだのね」

「すみません」

「謝らなくていいです。こちらこそ、本当にすみません。図書館にとっては迷惑な話だったでしょう」

「いえ」

いえ、と言ったあとに続く言葉を、私は持っていなかった。

女性は本を閉じた。「約束は、守られなかったんです」

外の雨が少しだけ強くなった。排水溝に水が落ちる音が、館内の静けさを細かく刻んだ。

「相手が来なかった、とかではなくて」と彼女は言った。「来る前に、遠くへ行ってしまったの。転勤で。いまみたいに簡単に連絡が取れないころで、お互い、意地もあって」

「それで」

「それで終わり。そういう終わり方をする歳だったんでしょうね」

彼女は微笑んだが、その微笑みはよく磨かれたガラスみたいで、触ると冷たそうだった。

「今日、急に思い出したんです。雨の匂いがして。あのページから読む約束を、まだ自分が覚えてることを」

閉館の放送が流れた。音楽のようにやさしい声で、しかし容赦なく時間を告げる放送だった。女性は貸出手続きを希望した。私は規則どおり処理をした。貸出票を差し込みながら、返却予定日を伝える。たったそれだけのやりとりなのに、こちらが何か大きなものを手渡したみたいな気持ちになった。

「また雨の日に来ます」と女性は言った。

「はい」

私はそこで止めておけばよかったのだと思う。だが、止めなかった。

「あの、もし」と私は言った。「もし次に返却されるとき、余白でなくてもいいなら、栞を挟んでおいてください。忘れものとして、こちらで一週間は保管できます」

女性はじっと私を見た。図書館員として正しい提案ではない。けれど違反でもない、そのぎりぎりの場所だった。

「あなた、やさしいのね」

「ただ、正しすぎると、たまに拾えないものがあるので」

彼女は少し考えてから、深く頭を下げた。

十日後、その本は返却ポストに入っていた。閉館前の回収で、私は手袋をしたままそれを取り出した。ページのあいだに、白い細長い紙が挟まっている。レシートの裏だった。

「約束を覚えていました。私は元気です。あなたも元気でいてください」

宛名はない。署名もない。けれど、あの余白の丸い筆跡だった。

私は規則どおり、それを忘れものとして封筒に入れ、日付を書いた。落とし物棚のいちばん端に置く。来なければ一週間で処分する。ただの紙切れとして。

三日後の午後、ひとりの男性が来館した。七十代くらいで、折り畳み傘を杖のように持っていた。利用者カードの再発行を希望し、手続きのあいだにこう言った。

「昔、ここで借りた変な植物の本がまだあるかな」

世界はときどき、あまりに都合よくできていて、かえって現実味を失う。けれど現実は、都合のよさではなく、遅さでできているのだと私は思う。三十年遅れて届くものがあるだけだ。

私は男性に本の題名を確認し、地下に取りに行くふりをして、先に落とし物棚の封筒を見た。まだある。規則はまだ彼女の側にあった。

私は本と封筒を持って戻った。封筒については、彼が求めた忘れものの特徴と一致するかどうかを確認する必要がある、と自分に言い訳した。男性は本を受け取ると、二百三ページではなく百十二ページを開いた。そして、そこに残る薄い文字を見て、長く息を吐いた。

「まだ消えてない」

ほとんど同じ言葉を、私はついこの前、別の声で聞いた。

「あの」と私は言った。「忘れものが一点あります。お心当たりがなければ、こちらで処分しますが」

男性は封筒を受け取り、中の紙を見た。表情はほとんど変わらなかった。ただ、雨に濡れた窓の向こうで雲がわずかに動くみたいに、目元だけがゆるんだ。

「ありがとうございます」と彼は言った。「返事は、残していってもいいですか」

「余白でなければ」

「もちろん」

彼が書いたのは、もっと短かった。

「覚えていてくれて、ありがとう」

その紙も一週間だけ保管した。四日目に女性が来て、受け取っていった。彼女は何も多くを言わず、ただ「助かりました」とだけ言った。私は「こちらこそ」と返したが、何に対するこちらこそなのか、自分でもよくわからなかった。

夏の終わりに、私は司書補の任期を終えた。最終日、地下書庫の棚を見回ると、『月の裏側の植物図鑑』は通常配架に戻されていた。除籍印は押されていない。久世さんが処理を回してくれたのだろう。

「残したんですね」と私が言うと、久世さんは肩をすくめた。

「たまに急に借りられる本って、あるのよ」

それだけだった。図書館では、説明の足りない言葉のほうが、よく本当だった。

帰り際、私はその本を開いた。百十二ページの余白はそのままで、新しい書き込みはなかった。もう増えないのかもしれないし、またいつか増えるのかもしれない。図書館は、続きを約束しない場所だ。それでも、本は棚に戻り、雨は季節をめぐってまた降る。

玄関を出ると、九月の雨が降り始めていた。六月より少しだけ気まぐれで、でも似た匂いがした。

私は思わず笑った。雨の匂いがする日は、ここから読む。そんなふうに一冊の本の中に、二人ぶんの時間が折りたたまれていたのだと知ったからだ。そしてたぶん、人の生活にもそういう頁がある。誰にも見せるつもりのない余白に書かれたひと言が、何年も経ってから、どこかの誰かの手つきでそっと開かれる。

図書館の窓に灯りがともった。私は傘を開かず、駅までの道を少しだけ濡れて歩いた。消されなかった文字は、残されたというより、たまたまそこに生き延びただけなのだろう。けれど生き延びたものには、生き延びたなりの役目がある。

雨の日には、思いがけず、続きが返却される。