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短編

記憶返却窓口

忘れたい記憶を本として預かる図書館で、青年司書はある老人に返却されたはずの悲しみの行方をたどる。

Genre
近未来文学
Series
単発
#記憶#図書館#喪失#再会#静かなSF

市立記憶図書館の地下書庫には、雨の匂いがしない。

地上が土砂降りでも、ここでは除湿機の低い唸りと紙の乾いた匂いだけが季節の代わりだった。わたしの仕事は、返却窓口に戻ってきた記憶の点検をすることだ。貸し出されるのは本ではなく、忘れたい出来事を製本した「記憶冊子」で、返却されるたび、頁の抜けや改変がないか確かめる。

人は時々、自分の過去を少しだけ棚に上げたくなる。

初恋の失敗、葬式の帰り道、病室の沈黙、言わなくてよかった一言、言うべきだった一言。そういうものを一冊にまとめ、閲覧禁止の封印をして、期限付きで預ける。法律では最長三年。延長は一度だけ。三年が過ぎれば、持ち主は記憶を受け取るか、完全廃棄を申請するか選ばなければならない。

完全廃棄を選ぶ人は少ない。人は苦しみを憎みながら、それで形作られた自分を失うことには臆病だ。

その日、返却窓口にひとりの老人が来た。背筋だけが妙にまっすぐで、濡れた傘を杖のように持っていた。差し出された利用者証には、真壁宗一郎、七十四歳とある。

「返しに来ました」

声は穏やかだったが、冊子を載せる指先だけがわずかに震えていた。深緑の表紙には、金の箔で題名が打たれている。

『一九八九年六月十七日 台所の夜』

わたしは返却印を押し、規定通り尋ねた。

「再統合のご予定は」

「まだ決めていません」

老人はそう言って、窓口のガラス越しに少し笑った。

「でもね、預けてからずっと、何かひとつだけ忘れものをしている感じが続いているんです」

その言い方が気になった。たいていの利用者は、軽くなったとか、眠れるようになったとか言う。忘れものという表現は、荷物ではなく、自分の輪郭について話しているように聞こえた。

規定では、司書は内容に立ち入らない。ただし冊子に損傷の疑いがある場合は例外だ。わたしが点検室で封を改めると、綴じ糸にごく細い裂け目が見つかった。誰かが途中で無理に開いた痕だった。

閲覧記録を調べると、貸し出し中の開封はない。つまり持ち主が自宅でこっそり見たのだ。よくあることではある。違反だが、罰するほどの悪意ではない。わたしは上司に報告しようとして、最初の頁に挟まった小さなメモに気づいた。

――返却時に、もし可能なら、最後の一頁だけ確認したい。

震える字だった。

迷った末、わたしは閉館後、閲覧室の一番奥に老人を通した。規定違反の上塗りだという自覚はあったが、そうまでして確かめたい最後の一頁というものが、どうしても気になってしまった。

老人は冊子を前にしても、すぐには手を伸ばさなかった。

「妻の記憶です」と彼は言った。
「亡くなる前の夜のことを預けました。あれを持っていると、私は何もできなくなると思った」

白い閲覧灯の下で、彼の手の甲の薄い皮膚だけが、古い便箋みたいに見えた。

「奥さまの最期の記憶、ですか」

「ええ。最期の会話です。正確には、会話にならなかった夜のこと」

冊子が開かれた。記憶冊子は、文字を読むというより、頁を追うことで体験をなぞるようにできている。老人の瞳がゆっくりと昔の光を帯びるのを、わたしは向かいから見ていた。

そこには小さな台所があった。換気扇の音。煮こぼれの跡。病院から一時帰宅した妻が、椅子に座って麦茶を飲んでいる。痩せた喉が一度だけ動く。窓の外では、六月の雨が網戸を細かく叩いている。

妻が何かを言おうとする。宗一郎はそれに気づきながら、薬の袋を整えることに意地のように集中している。怖かったのだ。聞いてしまえば、返さなければならない言葉があると分かっていたから。

「宗ちゃん」

妻が呼ぶ。昔の愛称で。

そのあとに続くはずだったものが、冊子の最後で白く欠けていた。

破れているわけではない。記録が、そこだけ薄くなっている。強い感情が、自衛のために像を曇らせることがある。記憶保存の工程でも、まれに完全には定着しない。

「私はずっと」と老人が言った。「あの夜、妻が何を言おうとしたのか思い出せなかった。だから、あの記憶を預ければ少しは楽になると思ったんです。けれど預けてから、もっと駄目になった。悲しみが消えたのではない。悲しむ先だけが消えた」

彼は最後の白い一頁を撫でた。

「妻を失ったことより、妻が最後に渡そうとしたものを受け取らなかった自分だけが、宙づりで残ったんです」

閲覧室の時計が、閉館後の無意味な時刻を刻んでいた。

わたしはそこで、規定集のどこにも書いていないことをした。冊子ではなく、返却伝票を見せたのだ。預入時、利用者は要約を一行だけ自筆する。法的な照合のためだが、ときどき本文より正直な言葉が残る。

伝票の摘要欄に、真壁宗一郎の字でこうあった。

――妻が私を許した夜。私はそれを受け取れなかった。

老人はしばらく動かなかった。まるで自分の筆跡を、他人の遺書みたいに見つめていた。

「許した、か」

かすれた声でそう言って、彼は初めてほんとうに泣いた。大きく崩れるのではない。乾いた土地に遅れて染みこむ雨みたいに、静かに、長く泣いた。

「そうでした。あの人はきっと、許すと言ったんだ。私があれだけ意地を張って、見舞いのたびに仕事の話ばかりして、怖いから先のことを話さずにいたのに」

しばらくして、彼は冊子を閉じた。

「全部は戻さなくていい」と言った。
「この一行で十分です。あの人が最後に渡そうとしたのは、言葉の全文じゃなかった。私がそれを受け取っていいという許可だったんでしょう」

規定では、要約一行だけを先に返還する運用はない。けれど私は端末を開き、暫定再統合の申請画面を呼び出した。正式には叱責で済まないかもしれなかったが、その夜の地下書庫で、それ以上に正しい手順をわたしは知らなかった。

処理が終わると、老人は利用者証をしまい、傘を持って立ち上がった。来たときより少しだけ、肩の位置が下がっていた。重くなったのではなく、ようやく自分の重さに戻ったように見えた。

「あなたは」と老人が言った。
「何か預けたことがありますか」

わたしは首を振った。ほんとうはある。二年前、妹の見舞いに間に合わなかった日の高速道路の記憶を、わたしはまだ持ったままだ。預ければ眠れる気がして、けれど預けたら、もう二度と急いで誰かのもとへ向かえない人間になる気がして、そのままにしている。

「預けないほうがいい、と言うつもりはありません」と老人は言った。
「ただ、痛みを抜くと、同じ形の優しさまで薄くなることがある」

雨はまだ降っていた。彼は地上へ続く階段を、傘を差さずに上っていった。

翌朝、返却棚の点検をしていると、昨日の冊子の貸出票に小さな追記がされていた。本人以外には書けない認証筆跡で、短く一行。

――返却ではなく、保管に変更。もう少し一緒に年をとりたい。

わたしはその伝票を新しい封筒に入れ、分類番号の札を付けた。地下書庫の一番端、個人保管の棚へ収める。棚には、誰かがまだ手放しきれないものたちが、静かに背を並べている。

雨の匂いのしない書庫で、ふいに、遠い夏の台所の気配がした。許しというのは、傷が消えることではなく、傷のある場所にようやく手を当てられることなのかもしれない。

昼休み、わたしは利用端末を開き、自分の未申請リストを呼び出した。
預けるためではない。保存形式を確認するためでもない。

ただ、あの日の記憶に、まだ名前をつけずに持っていていいのだと、自分に許可を出すために。