短編一覧へ戻る

短編

未投函文庫の雨

届かない手紙を集める小さな文庫で働く青年が、ある老女の青い封筒を通して、失われた言葉にも居場所があると知る物語。

Genre
現代文学
Series
単発
#図書館#手紙#雨#別れ#再生

市立図書館の北分室には、蔵書案内にも載っていない棚がひとつあった。木製の細い棚で、窓際に寄せて置かれている。上段から下段まで、背表紙のない封筒が並んでいた。白、茶、薄桃、黄ばんだ洋封筒、ときどき青。どれも封がされ、宛名だけが書かれている。

それは「未投函文庫」と呼ばれていた。

出せなかった手紙を預かる場所です、と前任の司書は言った。投函しそびれたもの、宛先を失ったもの、書いたけれど渡せなかったもの。読むことはできません、返却もできません、ただ置いていくだけです。そう説明してから、彼女はすぐに補足した。

「変な制度でしょう。でも、なくす理由もないんです」

四月に会計年度任用職員として採用された私は、その変な制度の担当になった。と言っても、することは少ない。封筒を受け取り、日付だけを台帳に記し、空いている場所に置く。月に数通しか増えない。分室そのものが古びていて、利用者も多くないから、未投函文庫はたいてい静かだった。

静かなものを相手にする仕事は、気持ちを少しだけ整えてくれる。私はその春まで別の会社で営業をしていて、電話越しの謝罪や、数字の不足や、誰かの機嫌に一日じゅう引っぱられる生活に疲れていた。北分室の午後は、紙の匂いと、窓の外を通る自転車の音だけでできていた。

五月の終わりの雨の日、初めてその人は来た。

紺のレインコートを着た小柄な老女で、髪はきちんと結われ、手には深い青色の封筒が一通あった。入口で雫を払い、まっすぐ未投函文庫の棚へ向かいかけて、途中で私の机に戻ってきた。

「これは、預かってもらえるのよね」

「はい。お預かりします」

「宛先はあるの。でも、出せないの」

封筒には、万年筆でこう書かれていた。

――雨の日のあなたへ

名前でも住所でもない。だが私は規則を持ち出さなかった。ここへ来る手紙は、たいてい宛先が曖昧だったからだ。私は受領日を書いた小さな紙片を作り、青い封筒を受け取った。

老女は棚の三段目を見た。

「できれば、そのあたりに置いてください。青いのは、だいたいそこだったでしょう」

見ると、たしかに三段目には青い封筒が四通、等間隔に並んでいた。どれも同じ筆跡だった。私はうなずいて、その隣に新しい一通を差し込んだ。

「ありがとうございます」と老女は言った。「ここに置くと、なくならない気がするの」

それから彼女は月に一度、だいたい雨の日に来た。六月は細い雨、七月は夕立、九月は台風の名残り。八月だけは晴れていたが、日傘から落ちる影がどこか雨の代用品のようだった。彼女は毎回青い封筒を一通ずつ持ってきて、「そのへんに」と言う。私は三段目の青の列に、それを加える。

名前は冬子さんといった。利用者カードの更新用紙に書いてあった。住所は分室から歩いて十五分ほどの古い住宅地で、連絡先は固定電話だけだった。世間話をするほど親しいわけではないが、顔を見れば会釈を交わす程度にはなった。

十月のある午後、彼女は珍しくすぐに帰らず、閲覧席に座った。窓の外で銀杏の葉が裏返り、まだ雨は降っていなかった。

「あなたは、手紙を書く?」

唐突に問われ、私は少し考えた。

「最近は書いていません。連絡は大体、メッセージです」

「そうよね。でも、メッセージって、消えるでしょう」

「消そうと思えば、すぐに」

「手紙も燃やせば消えるけれど、燃やすまでは残るわ。残る、って大事ね」

彼女はそこで微笑んだが、笑みは誰かに見せるためというより、口元の形を忘れないために作っているように見えた。

その年の十一月、北分室の統廃合が決まった。建物の老朽化と利用率の低下が理由で、来年三月末で閉室する。職員は本館に振り分けられるか、任期満了で終わる。未投函文庫の扱いについては、何も決まっていなかった。台帳ごと廃棄、という言葉が会議で軽く出て、私はその軽さに驚いた。

未投函文庫は正式な事業ではない。誰かがずっと昔に始め、やめる理由がなかったから続いてきただけの、曖昧な棚だ。予算も分類番号もないものは、終わるときに真っ先に消える。

私は冬子さんにそれを言い出せずにいた。

二月の終わり、朝から冷たい雨が降った。こういう日に彼女は来るだろうと、私は開館前から三段目の棚を何度も見た。青い封筒は十一通になっていた。規則正しく並ぶその色だけが、曇った部屋の中で小さな水面のように見えた。

閉館一時間前になって、冬子さんはやって来た。今日は封筒だけでなく、便箋の束も持っていた。いつもより少し息が上がっている。

「ごめんなさいね、遅くなって」

彼女は机の前に立ち、束から一枚抜いた。封筒はあるが、宛名がまだ書かれていなかった。

「今日はね、あなたに頼みたいことがあるの」

万年筆を忘れてきたのだという。代わりに宛名を書いてほしい、と。私はためらいながらボールペンを出した。

「何と書けばいいですか」

冬子さんは少し考え、窓の雨筋を見た。

「『春の手前にいるあなたへ』でお願い」

私は言われた通りに書いた。自分の字が、青い封筒の上で少しだけよそよそしく見えた。

「ご主人ですか」と、聞いてから踏み込みすぎたかと思った。

だが冬子さんはうなずいた。

「ええ。死んでから、もう七年。最後にひどい言い方をしたの。たいしたことじゃないのよ。濡れた傘を廊下に広げるなとか、薬を飲み忘れるなとか、そんなことの続き。だけど、最後って後から決まるでしょう」

彼女は便箋をそろえ直した。

「最初は謝りたくて書いていたの。でも何通も書くうちに、謝りたいんじゃなくて、今日のことを話したいんだとわかった。庭の椿が咲いたとか、隣の犬がまた太ったとか、病院の待合室で子どもが歌っていたとか。あの人に話していた調子で書くと、一日がちゃんと一日になるの」

私は封筒を両手で持ったまま、何も言えなかった。

「ここがなくなるんでしょう」

心臓のあたりが、遅れて縮んだ。

「すみません。もっと早くお伝えすべきでした」

「いいの。張り紙を見たから知ってたの」

冬子さんは笑った。前よりも静かな笑い方だった。

「なくなる場所に預けていたのに、不思議ね。少しも腹が立たないの。たぶん私、手紙の置き場所じゃなくて、置いていいと言ってくれる場所がほしかったのね」

その言葉を聞いて、私は会議室で「廃棄で」と言った誰かの声を思い出した。封をした手紙を読むことはできない。けれど、読めないからこそ残せるものもあるのではないか、と急に強く思った。

「廃棄にはしません」

思わずそう言っていた。まだ決裁も何もない。ただの任用職員が言い切れることではなかった。

それでも冬子さんは、私の無謀さを責めずにうなずいた。

「じゃあ、信じる」

彼女は最後の一通を差し出した。私は三段目のいちばん端にそれを置いた。十二通目の青は、雨の日の窓に近い色をしていた。

三月の閉室までのあいだ、私は本館の資料整理担当者や地域史コーナーの司書に掛け合った。未投函文庫を「個人寄贈資料」として保存できないか、封印したまま地域アーカイブに組み込めないか。利用価値を問われれば説明は難しい。でも、価値は測れないが損失だけははっきりしているものがある、と私は繰り返した。

驚いたことに、反対は強くなかった。誰も積極的に守ろうとはしなかったが、誰も強く壊そうともしなかった。世界には、そういう曖昧さで助かるものがある。

北分室が閉まる日の夕方、未投函文庫の封筒は中性紙の保存箱に移された。台帳には新しい管理番号がふられ、閲覧不可、開封禁止、寄贈資料と記された。私は最後に三段目の青い列を順番どおり箱へ収めた。箱の蓋を閉じる瞬間、雨は降っていなかったが、どこかで静かな水音を聞いた気がした。

それから半年後、本館の地域資料室で働くことが決まり、私は保存箱を収めた書庫の鍵を持つようになった。

秋の雨の日、仕事を終えたあと、私は一通の封筒を持って書庫に入った。宛名は、自分で書いた。

――返事を待たない父へ

父は生きている。けれど、もう七年会っていない。どちらが悪かったのか、今となってはよくわからない。ただ、言わなかったことだけが、言ったことより長く残っている。

保存箱の隣に、新しい箱を一つ置く余地があった。私は封筒をその中へ入れた。まだ一通だけの箱は、空気まで新しかった。

届かない言葉は、消えた言葉ではないのだと思う。

誰にも読まれず、返事も来ず、役に立つとは言えなくても、そこに置かれていることで、ようやく形になるものがある。雨の日のこと、庭の椿のこと、謝れなかった一言のこと。失われた相手に向けた言葉は、宙に消えるのではなく、どこかの静かな棚へたどり着くのかもしれない。

書庫を出ると、廊下の窓に細い雨が当たり始めていた。私は少し立ち止まり、その音を聞いた。誰かに話すためではなく、その日をその日として終えるために。