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短編

終点のボタン

閉店前の仕立て屋で、姉はひとつの失くしものから言えなかった言葉を縫い直していく。

Genre
現代幻想
Series
単発
#家族#記憶#再会#仕立て屋#海辺

母の店は、路面電車の終点から歩いて三分のところにあった。海へ向かう坂の途中で、古びたガラス戸に白い字で「お直し みさき洋装店」とある。
母が亡くなって四十九日が過ぎ、私は店を畳むために、生まれ育った町へ戻ってきた。

六月の湿った風が、開け放した戸口から細く吹き込んでくる。裁ち鋏は錆びていなかった。アイロン台の布には、母の手の跡みたいな浅いくぼみが残っていた。店を閉めるだけなら、品物を分けて、ミシンを引き取りに出し、帳簿を整理すれば済む。そう思っていたのに、私は二日目の午後になっても、レジ横の小さな引き出しを開けられずにいた。

そこには、丸いブリキ缶が入っているのを知っていたからだ。

缶の蓋には、母の字で「落としもの」と書いてある。
ボタン、袖口の飾り、折れたバックル、名前のない安全ピン。客の服から外れて見つかった細かなものを、母はずっとそこへしまっていた。子どものころ、私はその缶を宝箱のように思っていたし、妹の結衣は「こういうの、持ち主よりお母さんのほうが大事にしてるよね」と笑っていた。

結衣とは、母の葬儀以来、ほとんど話していない。

東京で働いている結衣は、葬儀の日も黒いワンピースの裾をきちんと自分で直して来た。祭壇の花を片づけながら、彼女は不意に言ったのだ。
「店、残せないかな」
私は反射みたいに答えた。
「無理だよ。誰がやるの」
「私、毎週は来られないけど、やり方によっては――」
「片手間でできるほど簡単じゃない」

結衣はそのとき何か言いかけて、言わなかった。代わりに小さく頷いて、それからずっと、他人行儀なくらい静かになった。

引き出しを開けると、ブリキ缶のほかに大学ノートが一冊入っていた。表紙に「受け渡し控え」とある。伝票ではなく、母の私的なメモ帳らしかった。私は缶を膝に乗せ、しばらく迷ってから蓋を開けた。

中でいちばん上にあったのは、濃紺のコートについていたらしい大きなボタンだった。黒に近い青、縁だけがすこし擦れて、夜の海みたいに鈍く光る。裏に細い糸が残っている。私はなんとなく指先でそれを撫で、すぐに手を止めた。

あたたかかった。

店のなかは風が抜けているのに、そのボタンだけ、長く握られていた石のように、体温を持っていた。
変だ、と思いながら受け渡し控えをめくると、几帳面な母の字が並んでいた。

「学生服 袖丈詰め 祖父の形見なので布は切らない」
「ワンピース ファスナー交換 式に間に合うよう急ぎ」
「紺コート 前ボタン一つ紛失 本人、すこし泣いたあと笑う」

私はそのページで手を止めた。日付は三年前の一月。母が風邪をこじらせる前、結衣が正月に帰省していたころだ。
ページの端に、伝票には書かないような走り書きがあった。

「結衣ちゃんのコート。右前、上から二番目。ボタンより先に、言いそびれたことがありそう」

その字を見た瞬間、店の奥の空気がわずかに動いた気がした。ミシンの針が、誰も触れていないのに、ちいさく震えたように見えた。

私は紺のボタンを握ったまま、あの日のことを思い出していた。
結衣は東京へ戻る前夜、店の戸締まりを手伝っていた。母は奥で裾上げをしていて、私たち姉妹はレジ前で並んで立っていた。結衣のコートの前が少し開いていて、胸元のボタンがひとつ足りなかった。
「また取れてる」
私が言うと、結衣は肩をすくめた。
「急いでるとこういうの、後回しになる」
その言い方が、なぜか私には腹立たしかった。店を出てこの町を離れたくせに、店のことをわかったように言うな、と、そのころの私はいつも思っていた。結衣が何を言っても、自分の仕事や生活が否定される気がしていたのだ。

だから葬儀の日も、あんなふうに言い返してしまった。

私はノートをさらにめくった。
母の字は、修繕内容のあいだに、ときどき妙なことを書き込んでいた。

「落ちるボタンは、たいてい留め方より、急いだ日のほうに理由がある」
「ほつれを直すあいだ、人はよく本当のことを話す」
「縫い目は戻せても、その日に言わなかった言葉は、べつの形でしか戻らない」

母らしい、と私は思った。客に説教はしないくせに、服について話しながら、いつの間にかその人の暮らしまで受け止めてしまう人だった。結衣はそういう母をよく見ていた。私は見ていたつもりで、たぶん、技術のほうしか見ていなかった。

夕方、海鳴りが少し強くなった。終点へ入る電車のベルが鳴り、ガラス戸がかすかに震えた。私は缶のなかを全部机にあけた。真珠色のボタン、木製のトグル、小さなカフス、片方だけのイヤリングまで混じっている。どれも役目を外れたものばかりなのに、捨てられずにここまで来たのだ。

私は母の棚から似た色の糸を探し、結衣のボタンを針に通した。縫い付ける相手のコートは手元にないから、古い端布に仮留めするしかない。それでも針を上下させていると、気持ちがすこしずつ整っていくのがわかった。母がよく「まっすぐ縫うと、頭のなかも静かになるよ」と言っていたのを思い出す。

夜になって、私は便箋を一枚出した。何度も書き直して、結局、短くした。

「このボタン、預かってた。
あの日、言いすぎた。
店のことを残したいって言ったの、ちゃんと聞いてなかった。
もしまだ少しでもそう思うなら、閉める前に一度来て」

それだけを書いて、仮留めしたボタンを小さな封筒に入れた。説明はいくらでもつけられたけれど、母のノートを思い出してやめた。言いそびれたことは、べつの形でしか戻らない。なら、べつの形で十分だった。

翌々日の昼、結衣は本当に来た。
電話もなく、雨上がりの匂いを連れて、ガラス戸を開けた。薄いグレーのシャツに、紺のコートは着ていない。手には私が送った封筒が握られていた。

「速達にするほどのことかなと思った」
そう言って、結衣は少しだけ笑った。葬儀の日のかたさが、その笑いでほんのすこしほどけた。

「ごめん」
私が先に言うと、結衣は封筒をカウンターに置いた。
「私も。あのとき、残したいって言ったの、店そのものだけじゃなかった」
「うん」
「お母さんがここでやってたこと。服を直すだけじゃなくて、人がちょっと立ち止まれる感じ。あれ、なくなるの嫌だなって思った」

私は返事の代わりに、受け渡し控えを差し出した。結衣は立ったまま何ページか読み、やがて椅子に座り直した。長い沈黙のあとで、鼻にかかった声で言った。
「ずるいなあ。お母さん」
「ね」
「こんなの読んだら、来るしかないじゃん」

私たちはその日、閉店作業をほとんどしなかった。代わりに棚を拭き、糸を色ごとに並べ直し、窓辺の植物に水をやった。夕方近く、結衣がふと思い出したように言った。
「コート、持ってくればよかった」
「今度ね」
「今度ってあるの」
私は店の奥を見た。母のミシンは黙って置かれていたが、もう空っぽの道具には見えなかった。
「毎日は無理でも、週に一日くらいなら」
「片手間でできるほど簡単じゃないよ」
結衣がわざと私の口調を真似たので、私は笑ってしまった。
「うん。だから、片手間じゃなく考えよう」

そのとき、終点に着いた電車のベルが鳴った。戸口の風鈴が澄んで鳴り、カウンターの上の封筒がわずかに揺れた。結衣は封筒から紺のボタンを取り出し、光にかざした。
「これ、ちゃんと返してもらうね」
「預かりっぱなしだったから」

結衣はそれを掌にのせたまま、しばらく見つめていた。
「失くしたと思ってた」
「失くしてたんだと思う」
「見つかったね」
「うん」

外では、雨上がりの坂を海の匂いがのぼってきていた。終点まで来た電車は、少し休んで、また町へ戻っていく。店の前で足を止める人影がひとつ見えて、ガラス戸の向こうでこちらをうかがっていた。裾のほつれたスカートをつまんだ、近所の高校生だった。

まだ看板は裏返していない。私は結衣と顔を見合わせ、どちらからともなく戸口へ向かった。
失くしたものが戻るとき、それは前と同じ場所ではなく、これから使う手のなかへ戻ってくる。母ならきっと、そんなふうに言っただろうと思った。