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短編

冷蔵庫の止まった朝

古い冷蔵庫が止まった朝、実家で仮住まいを続けていた真緒は、回覧板を届けるために久しぶりに自転車へまたがり、自分の生活をこの町に置き直しはじめる。

Genre
現代ドラマ
Series
単発
#回覧板#朝食#冷蔵庫#坂道#自転車

真緒が目を覚ましたのは、何かが鳴ったからではなく、鳴っているはずのものが止まったからだった。

台所のほうから、いつもなら古い冷蔵庫の低いうなりが聞こえてくる。実家に戻ってきてから十日、眠りの浅い朝ごとにそれを耳の端で確かめていた。けれどその朝、家の中は妙に澄んでいて、窓の外の雀の声だけが少し遠くから浮いてきた。

布団を出て台所へ行くと、冷蔵庫の灯りはつかなかった。

「ああ」

声にしてみると、驚きより先に、とうとう来たか、という気持ちがあった。母は三年前から買い替えようと言っていた。父が亡くなったあとも、修理しては使い、まただましだまし使い、結局そのままになっていた。今はその母も膝を悪くして妹の家に身を寄せている。真緒だけが、売るか残すか決めかねたこの家に、一時的に住んでいた。

扉を開けると、生ぬるい空気が頬に当たった。卵が四つ、豆腐、きゅうり、昨夜の味噌汁、半端なハム、ヨーグルト。真緒はとりあえず全部を食卓に並べ、保冷剤を探した。冷凍室の中のものは、保冷剤までやわらかくなりかけている。

そのとき、玄関の引き戸が細く鳴った。

「桑原さんち、次でしたよね」

顔を出したのは、斜め向かいの家の結衣だった。中学生くらいの細い肩に通学かばんをかけ、青い回覧板を片手で持っている。真緒はこの町に育ったはずなのに、いまの子どもたちの名前をほとんど知らない。向こうは向こうで、真緒を「戻ってきた人」くらいにしか思っていないのだろう。

「あ、うん。ありがとう」

「うち、もう出るんで。柴田さんのとこ、今日中なら大丈夫って母が」

結衣はそう言って回覧板を差し出し、真緒の返事を待たずに坂の下へ走っていった。玄関先に一人残され、真緒は青い表紙を見下ろした。角が少しへたっていて、ビニールの縁に透明のテープが重ねて貼られている。新しいものではない。順番表のところに、母の名前がまだ印字されたまま残っていた。

真緒は回覧板を食卓へ置き、もう一度台所を見回した。

このままでは朝のうちに食べるしかない。

卵を溶き、きゅうりを刻み、豆腐と味噌汁を鍋にあける。ハムを細く切ってフライパンに落とすと、油のはねる音が静かな台所に広がった。料理は得意でも好きでもなかったが、捨てるよりはずっと気が楽だった。母の台所には、そういう種類の手つきが染みついている。真緒は自分の手が、それを案外よく覚えていることに少しだけ驚いた。

冷蔵庫の扉に、小さなメモが磁石で留められているのを見つけたのは、卵焼きを返そうとしたときだった。

「回覧板→柴田さん
朝なら在宅」

母の字だった。丸みのある、急いでも読みやすい字。

真緒は卵焼きを少し焦がした。

食卓に並べると、一人の朝食には多すぎた。味噌汁を椀によそい、卵焼きを切り分けても、皿の上にまだ十分残っている。真緒はしばらく箸を持ったまま考え、戸棚の奥からふた付きの保存容器を出した。卵焼きを半分詰める。きゅうりも少し添える。自分でも理由はよく分からなかった。ただ、母の字を見たあとで一人分だけ残す気になれなかった。

裏の物置には、父が通勤に使っていた自転車がある。タイヤは少しへこんでいたが、空気入れを使えばなんとかなる程度だった。ハンドルのゴムは日に焼け、銀色のかごには細かな錆が浮いている。真緒はしゃがみこんで空気を入れながら、父がこの自転車を押して帰ってきた夕方を思い出した。思い出したくて思い出したわけではないのに、古い物に触れると、記憶は勝手に形を取る。

坂道の町だった。家から柴田の家までは、歩くと少し息が上がる。自転車なら早いが、長く乗っていなかった真緒の脚にはそれでも軽い運動になった。道の途中で、開け放した窓から味噌を焼く匂いがし、別の家の庭ではホースの水が葉を叩いていた。見知ったはずの町が、朝食の気配ばかりでできているように見えた。

柴田の家は坂のいちばん途中にある、門の低い平屋だった。呼びかける前に、庭先で植木鉢を動かしていた柴田が真緒に気づいた。

「おお、桑原さんとこの」

名字で呼ばれて、真緒は少しだけ安心した。名前まで期待されていない距離がちょうどよかった。

「回覧板、次でした」
「ありがとう。お母さん、まだ妹さんのところ?」
「はい。たぶん、しばらく」

柴田は受け取った回覧板を小脇に抱え、それから真緒の自転車を見た。

「その自転車、久しぶりに見たなあ。お父さんのだろう」
「まだ使えました」
「使うもんだよ。置いとくとすぐ駄目になる」

その言い方が、自転車のことだけを言っていない気がして、真緒は曖昧に笑った。保存容器の入った布袋がかごの中で揺れている。言わないまま持ち帰ることもできたが、もう門の前まで来てしまっている。

「あの、今朝、冷蔵庫が止まっちゃって」
「それは困る」

「中のもの、急いで食べてて。作りすぎたので、もしよかったら」

布袋から容器を出すと、柴田は一瞬きょとんとしたあと、素直に両手を伸ばした。

「助かるよ。ちょうど今、米を炊いただけだった」

受け取る手つきにためらいがなくて、真緒のほうが戸惑った。もっと遠慮されると思っていたし、もっと断られるとも思っていた。

「お母さんもね」と柴田が言った。「最初のころ、よくこういうの持ってきたよ。漬物だの煮物だの。多く作っちゃったからって」

「最初のころ?」

「この町に越してきたころ。あの人も、しばらくは自分がここにいる感じがしなかったんだろうな」

真緒は何も返せなかった。母にそんな時期があったことを、考えたこともなかった。

柴田は門柱の脇に置かれた回覧板の順番表を広げ、指先で小さな訂正欄を叩いた。

「名前、まだお母さんのままだ。直しとくかい」
「……いえ、持って帰って書きます」

自分でも、思ったより早く答えていた。

柴田はうなずき、「卵焼き、昼までに返せる容器なら洗って持ってくよ」と言った。真緒は首を振った。

「急がなくて大丈夫です」
「じゃあ、次の回覧板のときにでも」

帰り道は行きよりゆるやかに感じた。坂を下りながら、真緒は自分の脚が思ったよりきちんと踏めていることに気づいた。家に戻ると、台所はまだ冷蔵庫の止まったままの静けさの中にあった。けれど朝のあの空白とは、少し違っていた。

真緒は回覧板を開き、順番表の訂正欄に黒いボールペンを当てた。母の名の横の空いた欄に、ゆっくり自分の名前を書く。

桑原真緒

字が乾くのを待ってから、彼女はスマートフォンを取り出し、近くの電器店の営業時間を調べた。すぐに買えるものを探す必要がある。冷蔵庫は今日じゅうにどうにかしなければいけない。でもその前に、まだ少し残っている味噌汁を温め直して、もう一度朝食の続きを食べようと思った。

鍋を火にかけると、台所に小さな音が戻った。止まった冷蔵庫は相変わらず沈黙したままだったが、その前に立つ真緒の背中は、朝起きたときよりもほんの少しだけ、この家の人のものになっていた。