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短編

名前の預かり所

廃駅の遺失物係になった男が、ある夜自分の名前に返事をしてしまい、少しずつこの世から呼ばれなくなっていく話。

Genre
ホラー
Series
単発
#怪談#駅#名前#雨#夜勤

その駅には、もう電車が来ない。

線路は残っているし、錆びた時刻表も風に鳴っているが、三年前の水害で路線が切られてから、白雨駅は「資料保管施設」という名目で生き延びているだけだった。私はその別館の夜間管理を任された。人のいない建物にいるのは嫌いではなかったし、なにより仕事が静かだった。

駅舎の一角には、昔のままの遺失物窓口が残っていた。ガラスの引き戸、真鍮の受け皿、壁一面の小さな棚。そこだけ、廃駅ではなく、まだ何かを待っている部屋に見えた。

初日に前任者から引き継いだのは鍵束と台帳、それから薄い大学ノートだった。表紙に油性ペンで、ただこう書いてあった。

「夜間窓口の注意」

中には三つだけ、箇条書きが並んでいた。

一、午前零時以降、窓口を叩かれても自分から開けないこと。
二、受け取りに来た相手の顔を見ないこと。
三、名前を呼ばれても返事をしないこと。

冗談にしては字が整いすぎていた。私は少し笑って、ノートを引き出しにしまった。

最初の一週間は何も起きなかった。古い蛍光灯がときどき唸り、風で放送室の扉が鳴るだけだった。零時を回るころには駅全体が水槽の底みたいな静けさになって、私は台帳をめくったり、本を読んだりして朝を待った。

八日目の夜、雨が降った。

ぱち、という軽い音が窓口のガラスを叩いた。枝かと思ったが、二度、三度と同じ間隔で鳴った。真鍮の受け皿の上に、いつのまにか紙片が置かれていた。濡れていない、小さな引換札だった。

品名 ハーモニカ
氏名 さとう みのる

背中がひやりとした。窓口の向こうには、誰かが立っている気配があった。見えないように目を伏せると、ガラスの下の隙間から水がじわりと染みてくる。私は棚を探した。あるはずのないハーモニカが、いちばん下の箱に入っていた。銀色が黒ずみ、吹き口に泥が詰まっていた。

受け皿に置くと、向こうの気配がふっと近づいた。細い指先だけが見えた。子どもの手だった。受け取られると、また雨音だけになった。

朝、床は乾いていて、ハーモニカだけがなくなっていた。

それから雨の夜ごとに、引換札が現れた。片方だけの革靴、鼈甲のかんざし、ひしゃげた腕時計、使い古された名札。どれも昼間には見たことのない品で、零時を過ぎると必ず棚のどこかに見つかった。受け取りに来るものは、咳払いひとつせず、ただ窓の向こうに立っていた。私はノートの指示どおり、顔を見ずに、ただ「お預かりしていました」とだけ言って差し出した。

慣れた、と思ったのがよくなかったのだろう。

ある夜、引換札に書かれていたのは品名ではなく、ひとことだけだった。

品名 なまえ
氏名 高槻 恒一

それは私の名前だった。

悪ふざけだと思いたかった。だが棚を探すと、私の机の引き出しに入れていた名札がなくなっていた。代わりに、透明な小袋がひとつ入っていた。中にはラベルライターで打たれた白いテープがあり、そこに「たかつき こういち」と印字されていた。会社の備品で作ったみたいな、安っぽい文字列だった。

窓口が、こん、と鳴った。

「高槻さん」

若い男の声だった。妙に聞き取りやすい、通る声。ぞっとしたのは、その声が、受話器越しに聞く自分の声に似ていたからだ。

「高槻さん、いますか」

返事をしてはいけない。ノートの三行目が頭をよぎった。それなのに私は、ほんの癖で、「はい」と言ってしまった。

その瞬間、窓口の向こうの気配がかすかに笑った。

翌朝、出勤してきた清掃員の女性が、私を見て首をかしげた。

「あれ、夜勤の……ええと」

いつもならすぐ呼ばれる名字が出てこない。名札を見れば済むはずなのに、その名札には何も書かれていなかった。白いプラスチック板だけが胸元で揺れていた。

昼休みに役所へ書類を取りに行くと、職員が住民票の控えを見て眉を寄せた。

「すみません、この欄、名字が少しかすれていて……」

冗談ではなく、本当に私の名前だけ印刷が薄れていた。自宅の郵便受けには宛名のにじんだ請求書が溜まり、昔のアルバムでは、私の顔の下にあった手書きの名前だけが指でこすったみたいに消えかけていた。

私は引き出しのノートをもう一度開いた。最後のページに、前任者のものらしい追記が増えていた。急いだ字で、何度も書き直した跡がある。

「呼ばれたら答えるな。来るのは持ち主ではない。落とし物のほうが、自分を返してもらいに来る」

その夜は雨だった。ひどく静かな雨で、ホームの端が見えないほど細かかった。

零時を過ぎると、窓口に札が置かれた。

品名 なまえ
氏名 空欄

向こうに立つ気配がある。私は目を上げないまま、小袋の中の白いテープを受け皿に載せた。指先が震えた。

「お預かりしていました」

すぐには受け取られなかった。代わりに、窓の向こうから私自身の声がした。

「あなたは、だれですか」

胸の奥で、何かが空洞になったように冷えた。答えようとして、言葉が出ない。自分の名前を思い出せないのではない。ただ、その形が口の内側にうまく乗らない。大切な針を飲み込んでしまったみたいに、喉が細く痛んだ。

沈黙のあと、向こうの気配がそっと近づいた。ガラスのすぐ向こうに、誰かの額が寄る気配がした。見てはいけないと思いながら、私は足元だけを見た。窓の下、濡れた床に映っていたのは、私の革靴とよく似たつま先だった。

やがて白いテープが受け皿から消えた。

そのかわり、向こうから小さな紙切れが一枚、差し出された。新しい引換札だった。

品名 声
氏名 空欄

顔を上げる前に、気配は遠ざかっていた。雨音だけが残った。

翌日から、私はますます呼ばれなくなった。職場では「夜の人」、コンビニでは「お客さん」、病院では「次の方」。誰も困ってはいなかった。名前などなくても、用事はたいてい済むのだと知った。

ただ、雨の夜だけは違った。

白雨駅の古いスピーカーが、電源も入れていないのにときどき鳴る。

「お忘れ物をお預かりしています」

その放送が流れるたび、私は息を止める。いつか受け皿に、また新しい札が置かれる気がするからだ。品名はきっと、次には「声」ではなく、もっと奥のものになる。

だから私はノートの最終ページに、たった一行だけ書き足した。

「自分を呼ぶ声には、返事をしないこと」

書き終えて署名しようとして、しばらく考えた。

結局、名前の欄は空けたままにした。