短編
名札のない部屋
古いマンションに越した青年が、存在しないはずの隣室から毎晩自分の名を呼ぶ音に追い詰められていく短編ホラー。
そのマンションを選んだ理由は、安かったからだけではない。
駅から十分、商店街の裏手にある五階建ての古い建物で、外壁は雨に濡れた紙みたいな色をしていた。内見に来た日、管理会社の男は「古いですが静かです」と言った。実際、昼間でも廊下は図書館の閉架みたいにしんとしていて、靴底の音だけがやけに遠くまで転がった。
四〇三号室。角部屋。その隣の四〇二号室の扉には、名札が差し込まれるはずの透明なプレートだけがあり、中は空だった。
「ここ、空室なんですか」
何気なく訊くと、管理会社の男は鍵束をいじりながら「ええ、しばらく」と答えた。答えたあとで、ほんの少しだけ間を置き、「でも気にしなくて大丈夫です」と付け足した。こちらは別に何も気にしていなかったので、逆にその一言が耳に残った。
引っ越して三日目の夜だった。
仕事から戻り、段ボールを崩していると、玄関のチャイムが鳴った。時刻は十一時過ぎ。友人に住所はまだ教えていない。宅配の時間でもない。
覗き穴をのぞくと、誰もいなかった。
古い建物だから接触不良かと思った。だが扉を開けた瞬間、廊下の冷えた空気の中に、かすかな声が混じった。
「……佐伯さん」
小さな、女とも男ともつかない声だった。
僕の名字だ。
廊下には誰もいない。非常灯の緑だけがぼんやりと壁を照らしている。視線をずらすと、隣の四〇二号室の扉が見えた。名札のないプレートが、こちらを黙って見ていた。
気味が悪くてすぐ部屋に戻ったが、その晩はそれきり何もなかった。
翌日、会社でその話をすると、先輩は笑って「古いマンションあるあるだろ」と言った。配線のいたずら、上の階の物音、酔っ払い。そういう説明をされると、なるほどと思えた。人は説明に収まると安心する。
だから二晩目、同じ時刻にチャイムが鳴ったときも、僕はすぐには怖がらなかった。
だが、覗き穴の向こうで待っていたのは、誰もいない廊下ではなかった。
四〇二号室の前に、背の低い人影が立っていた。こちらに背を向け、扉のプレートを覗き込んでいる。髪が長いのか、首元が暗く塗りつぶされたように見えた。女だろうかと思っていると、その影は首を動かさないまま、声だけで言った。
「ちがう」
僕は息を止めた。
「ここじゃない」
「まだ、ここじゃない」
声は乾いていて、ひどく近かった。耳元で囁かれたみたいに。
次の瞬間、影はすっと横に滑った。歩くのではなく、床から数センチ浮いた紙片が風に押されるみたいに。そして僕の部屋の前で止まった。
覗き穴いっぱいに、暗い顔があった。
目だけが妙にはっきり見えた。覗き返してくるような、底のない湿り気を持った目だった。チャイムが鳴る。短く二度、三度。僕は後ずさって、玄関から離れた。
それからしばらく、チャイムは毎晩鳴った。十一時過ぎ。必ず三回。出なければ、扉の向こうで僕の名が呼ばれる。
「佐伯さん」
「いますよね」
「名札、出してください」
最後の言葉を聞いたのは、一週間目の夜だった。
翌朝、僕は初めて気づいた。自分の部屋の表札入れが空であることに。
越してきたとき、管理会社から「最近は出さない人も多いですから」と言われ、そのままにしていたのだ。なのに、その朝に限って、空の透明プレートがひどくみっともなく思えた。何か、記入されるべきものを忘れているような、そんな落ち着かなさがあった。
会社帰り、文房具店で細い油性ペンと白いカードを買った。佐伯、と書くつもりだった。ところが部屋に戻り、玄関でプレートを外した瞬間、中に紙が一枚入っているのを見つけた。
古びた、黄ばんだ紙片だった。
そこには薄い鉛筆で、かすれた文字が書いてあった。
——ミズノ
四〇二号室の住人の名前だと思った。けれど、どうして四〇三号室の名札入れにそんなものが入っているのか分からない。ぞっとして紙を捨てようとしたが、指先に奇妙なためらいが生まれた。捨ててはいけない気がした。名札は、捨てるものじゃない。引き継ぐものだ。そんな考えが、まるで前から自分の中にあったみたいに浮かんだ。
もちろん、おかしいと思っていた。
それでも僕はその紙を机の引き出しにしまい、新しいカードには何も書けずにいた。
その夜、チャイムは鳴らなかった。
代わりに、壁が鳴った。
隣室との境目の薄い壁から、こつ、こつ、と爪先で叩くような音がする。三回、間を置いて、また三回。僕は耳を澄ませた。次に聞こえたのは、壁の向こうからの声だった。
「そこに、ありますか」
僕は答えなかった。
「わたしの、なまえ」
喉がからからに渇いた。逃げるようにテレビを点けても、浴室の換気扇を回しても、声は隙間から染み込んできた。
「ないと、帰れないんです」
「名札がないと、部屋が決まらないから」
部屋が、決まらない。
その言い方がひどく嫌だった。住む場所を探しているのではなく、名札に合わせて部屋のほうが定まる、そんな響きがあったからだ。
翌日、僕は管理会社に電話をした。四〇二号室のこと、夜のこと、名札の紙のこと。担当は黙って話を聞いていたが、最後に「前の入居者の私物が残っていたんでしょう」と言った。その声音には、説明しようとする固さがあった。
「前の入居者って、水野さんですか」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。
「……佐伯さん、そのお部屋の前の入居者のお名前ですよ」
冗談かと思った。心臓が一拍遅れて動いた。
「え、でも僕は初めてここに」
「記録上はそうなっています」
電話はそこで妙に途切れ、雑音が混じった。遠くで、あのチャイムの音に似た短い電子音が三回鳴った気がした。僕は受話器を置いたまま、しばらく動けなかった。
その晩、十一時ぴったりに、玄関で紙の擦れる音がした。
覗き穴の向こうには誰もいない。だが足元を見ると、扉の郵便受けから白いカードが差し込まれていた。そっと引き抜く。表には何も書かれていない。裏返すと、鉛筆のような薄い字で、
——サエキ
とあった。
それは僕の名前ではなかった。僕は佐伯啓介で、そこに書かれた字は、僕自身が普段書く「佐伯」とも、役所の書類にある活字とも微妙に違っていた。似ているのに、自分の名前ではない。名前の皮だけがこちらに寄せて作られたような、不吉な違い方だった。
そのとき、隣から声がした。今度ははっきりと、若い女の声だった。
「それで、いいです」
かたん、と四〇二号室の扉が開く音がした。
廊下を見る勇気はなかった。だが、何かが出てきて、僕の扉の前に立っている気配がした。覗き穴の向こう側ではなく、もっと近く、たとえば名札の透明プレートの裏側に、顔を押しつけるみたいに。
「つぎのひとが、来ますから」
翌朝、玄関のプレートには、僕の知らない字で「サエキ」と入っていた。昨日の白いカードだ。僕は外したはずなのに、きれいに差し込まれている。
そして四〇二号室のプレートには、空白のまま、内側から水滴がついていた。まるで、誰かが曇らせるほど近くで息をしていたみたいに。
管理会社に駆け込もうとして、僕は扉の下に新聞が差し込まれているのに気づいた。とっていないはずの地方紙だった。日付は八年前。地域欄の小さな記事に、見覚えのあるマンション名があった。
「単身者向け賃貸で不明住戸の噂 名札のない一室、存在の記録確認できず」
記事は短かった。入居者が夜中に隣室から呼ばれる、名を残して転居する、あるいは消息を絶つ。管理記録と住民票の記述に齟齬が出る。だが部屋番号を確定できないため、調査は中断された、と。
最後の一文だけが妙に印象に残った。
「表札を持つ者が、その部屋を見つける」
喉の奥で、小さくチャイムが鳴った気がした。
その夜、僕は玄関の前に椅子を置き、名札のプレートを外して待った。十一時。チャイムは鳴らない。代わりに、廊下の向こうから足音がした。ゆっくり、迷うように近づいてくる。止まる。僕の扉の前ではない。隣の、四〇二号室の前だ。
女の声がした。ひどく疲れた、けれど安心したような声だった。
「ここだ」
次に聞こえたのは、名札が差し込まれる、かすかな紙の音だった。
そして、もう一つの声。
若い男の声。聞いたことがある。毎朝、洗面台の鏡の前で、自分の口から出している声に、よく似ていた。
「すみません」
「四〇三号室は、こちらで合っていますか」
僕は凍りついた。
外から、三回、チャイムが鳴った。
今度は、僕の部屋ではなく、僕の中で。