短編
名乗らない部屋
母の遺品整理で訪れた部屋には、名前を覚えて住人を離さない気配が残っていた。
母の葬儀が終わって三日目、私は母がひとりで暮らしていた古いマンションへ行った。
駅から十分も歩かない場所なのに、その建物の廊下にはいつも夕方のような薄暗さがあった。共用灯の白い光は弱く、コンクリートの壁に長く住みついた湿気だけが、時間に関係なくそこにいた。四〇三号室の前に立つと、ドア脇の表札はもう外されていた。葬儀のあと、親類の誰かが気を利かせたのだろうと思った。
鍵を開けると、部屋の中はきれいすぎるほど整っていた。母は几帳面な人だったが、病院へ運ばれる前日まで普通に暮らしていたはずなのに、生活の輪郭だけが薄く拭われたような静けさがあった。
台所のカウンターに、古い留守番電話機が置いてあった。
黒いプラスチックの本体。黄ばんだボタン。液晶の右上で、小さな赤いランプだけが点滅していた。
電話線は抜けていた。コンセントも刺さっていない。
私はしばらくそれを見つめ、それから笑ってしまった。電池でも入っているのだろうと思って裏返したが、電池蓋の中は空だった。
それでもランプは、規則正しく点滅していた。
遺品整理の段取りを考える前に気味が悪くなって、私は再生ボタンを押した。
短い電子音のあと、母の声が流れた。
「由依。明日、水道の点検が来る。表札は裏返しておきなさい」
それだけだった。
録音の日付も時刻も表示されなかった。声は少しこもっていたが、聞き慣れた母の調子だった。言い含めるような、急がせない口ぶり。病室で最後に聞いた弱った声ではなく、もっと以前の、鍋の火を気にしながら私に注意していたころの声だった。
私は留守番電話を置き直し、部屋の中を見まわした。表札はもう外してある。今さら裏返しようもない。けれど、母がそんな妙な言い方をするだろうかという違和感だけが、胸の底に薄く沈んだ。
翌日の昼前、本当に水道業者が来た。
作業員の男は工具箱を持ち、部屋番号を確かめるように一度ドアの横を見た。それから私に会釈して、「すみません、こちら……」と言いかけ、言葉を切った。外された表札の跡を見て、少しだけ眉をひそめる。
「点検です。五分ほどで終わります」
部屋に入った男は、シンク下を見て、蛇口をひねって、メモを取った。そのあいだに二度、私の肩越しの空間へ視線を向けた。
「どなたか、いらっしゃいますか」
「いいえ」
そう答えると、男は首を振った。「失礼」とだけ言って作業を終えた。帰り際、玄関でまた振り返り、口の中で誰かの名前を思い出しかけるような表情をしたが、結局何も言わずに帰っていった。
その夜、私は気になって再び留守番電話を見た。赤いランプはまた点滅していた。
再生すると、母の声が言った。
「明日、二〇二の河合さんが来る。段ボールの宛名を見せないで」
私は寒くなった。
二〇二に河合という人が住んでいるかどうかも知らない。だが翌日の午後、本当に小柄な老婦人が訪ねてきた。共用ポストに入らなかった回覧板を持ってきたのだと言う。私が廊下に積んでいた引っ越し用の段ボールには、病院や役所から届いた郵便をまとめて放り込んであり、表には母の旧姓と今の姓が混じった宛名がいくつも見えていた。
慌てて箱を足で奥へ寄せると、老婦人は玄関から中をのぞきこんだ。
「あら」
その一言には、懐かしさとも落胆ともつかない湿り気があった。
「まだ、いると思ったのに」
「え?」
聞き返すと、老婦人は笑った。
「ごめんなさいね。前にも、ここに誰か住んでいた気がして。年を取ると、部屋と人の区別が曖昧になるの」
回覧板を受け取る手が、少し冷えていた。
その晩、私は押し入れの天袋から大学ノートを見つけた。母の字で、表紙にただ「留守電」と書いてあった。
開くと、日付と短い走り書きが並んでいた。
「三一一 保険屋。家族写真を伏せる」
「六二七 管理会社。名札のついた傘を玄関に出さない」
「九一九 宅配。フルネームで返事をしない」
何年分もあった。どのページにも、用件より先に「見せないもの」と「言ってはいけないこと」が書かれている。
最後のほうのページになると、文字は震えていた。
「この部屋は名前を覚える」
「呼ばれた名前が残る」
「返事をすると、住みつかれる」
「いるのではなく、呼ばれつづける」
「由依には知らせる」
私はノートを閉じた。
意味はわからない。でも、母が認知症で支離滅裂なことを書いた、と片づけるには、予告の当たり方があまりに正確だった。
三日目の留守電は、こうだった。
「明日、管理会社が来る。郵便受けの中を空にして、声がしても名乗らないで」
翌朝、私は一階の集合ポストから母宛ての郵便をすべて抜いた。ダイレクトメール、病院の明細、古い会報。どれも母の名前を大きく印字している。部屋へ戻る途中、薄暗い階段で、誰かがすぐ後ろを上ってくる気配がした。踊り場で振り向いたが、誰もいなかった。
管理会社の若い男は、壁紙の状態を見に来た。名刺を差し出し、「立花様で――」と確認しかけて、廊下の先へ目をやった。
開け放した窓から風が入って、何もないはずの部屋の奥で、紙が擦れる音がした。
男は急に声を低くした。
「今、どなたかお呼びになりました?」
私は咄嗟に首を振った。
男は作り笑いをして室内を一巡し、必要事項だけを話して帰っていった。ドアが閉まる寸前、彼は廊下を見まわし、小さく会釈した。まるで、見えない誰かに退室の挨拶をするように。
私はその場にしゃがみこんだ。
母はこの部屋で、ずっと何をしていたのだろう。暮らしていたというより、見張っていたのではないか。名前を隠し、呼びかけをやりすごし、返事をしないことで、部屋を静かに保っていたのではないか。
夕方になると、留守番電話の赤いランプがまた点いた。
指先がためらったが、私は再生した。
今度の声は、少しだけ近かった。
「明日、不動産屋が内見を連れてくる。由依、返事をしてはだめ。名乗ってもだめ。ドアは開けなくていい」
母の声の最後に、微かな雑音が混じっていた。ざらついた息のような、電話線の向こうで誰かが耳を寄せているような音だった。
私は眠れなかった。
朝になっても部屋の中はうす暗く、カーテンを開ける気になれなかった。昼すぎ、インターホンが鳴った。モニターは古く、映像は滲んでいたが、スーツ姿の男と若い夫婦らしい影が見えた。
「内見のお約束で参りました」
無視しようと思った。母の言葉どおりにしようと決めていた。
けれど、呼び鈴は二度、三度と鳴った。そのたびに、留守番電話のランプが机の上でちか、ちか、と同じ間隔で明滅した。
「もしもし? 四〇三号室、立花由依さんでよろしいでしょうか」
その瞬間、私は反射的に答えていた。
「はい、立花です」
言った途端、部屋の空気が変わった。
冷えた、というより、何かが音を立てずに整列した気配がした。押し入れの襖、食器棚のガラス、窓、鏡、黒いテレビの画面。部屋じゅうの平らなものが、いっせいにこちらを向いたようだった。
モニターを見ると、そこにはもう誰も映っていなかった。
廊下も、エレベーター前も、無人だった。
私は玄関を開けた。長い廊下の向こうまで見渡しても、足音ひとつない。けれどドアの足元には、白い名刺が一枚だけ落ちていた。拾い上げると、社名も電話番号もなく、中央に手書きでただこう書かれていた。
「おかえりなさい」
背後で、電子音が鳴った。
振り向くと、留守番電話の再生ランプが点いている。私は玄関も閉めずに部屋へ戻り、立ちすくんだままそれを見た。
ピー、という開始音のあと、聞こえてきたのは母の声ではなかった。
私の声だった。
少し掠れて、ひどく落ち着いた声で、明日のことを話していた。
「明日、片付けの人が来る。玄関では返事をしないで。名前を呼ばれても、名乗らないで。まだ、この部屋は覚えきっていないから」
そこで録音は切れた。
私は受話器のない電話機を見つめた。液晶には、ありえない時刻が表示されていた。今日ではなく、明日の夜の時刻だった。
開け放したままの玄関の外で、誰かが遠慮がちに、けれど親しげに私の名前を呼んだ。
母とまったく同じ声だった。