短編
屋上では標準語禁止
標準語で完璧を装う転校生と、秘密を知ってしまった男子が、屋上の昼休みに少しずつ本音を覚えていく話。
昼休みの屋上は、だいたい風が強い。
だから人気がない。だから僕は好きだった。
教室のざわざわが苦手な僕――二年三組の折原湊は、だいたい毎日、弁当を持って屋上に逃げる。四月の終わり、その日もいつもの給水塔の影に座ろうとして、先客を見つけた。
転校生だった。
朝のホームルームで紹介されたばかりの、白石つぐみ。黒板の前では妙に背筋が伸びていて、受け答えもやたら丁寧で、クラスの男子が「都会のドラマみたい」と小声で騒いでいた、あの白石さんだ。
彼女はベンチに座って、弁当箱を開けたまま、ぶつぶつ何かを唱えていた。
「本日は晴天なり。……ううん。いただきます、でいい。『そのおかず、おいしそうですね』……よし。自然。自然……」
標準語の練習だ、と気づいた瞬間、僕は後ろに下がろうとした。
そのとき風が吹いた。
白石さんの前髪が揺れ、次の瞬間、彼女は小さく顔をしかめた。
「っ、は……はくしょん!」
盛大なくしゃみだった。
そして彼女は、誰もいないと思ったのだろう、素で言った。
「うわ、さっむ! なんでこん風の日に屋上来たん、うち!」
僕は、ぴたりと止まった。
白石さんも止まった。
ゆっくり、ものすごくゆっくり振り向いた彼女と、目が合った。
沈黙は三秒だったと思う。体感では三年だった。
「……聞きました?」
「少しだけ」
「どのへんから」
「『さっむ!』くらいから」
「最悪や……」
その落ち込み方があまりに本気で、僕はつい笑ってしまった。
白石さんはかっと頬を赤くした。
「笑わんでください!」
「あ、ごめん。いや、なんか安心して」
「なんに安心するんですか」
「ちゃんと人間っぽいなって」
「朝の私は人間じゃなかったみたいに言わんでもらえます?」
言い返しが早い。しかも、さっきまでの澄ました雰囲気よりずっと生き生きしていた。
僕が「ここ、使う?」と弁当を少し持ち上げると、彼女は数秒迷ってから、小さくうなずいた。
「……聞いたこと、内緒にしてくれるなら」
「屋上限定で」
「限定?」
「ここでは、僕しか聞かないだろうし」
彼女はじっと僕を見て、それから息を吐いた。
「じゃあ、交渉成立です」
「何の交渉」
「秘密保持の報酬として、卵焼き一個あげます」
「安いな」
「うちの卵焼き、めっちゃおいしいですよ」
それは事実だった。
甘さが控えめで、出汁がきいていて、驚くほどきれいに巻かれていた。思わず「うま」と声が出たら、白石さんはちょっとだけ得意そうに笑った。
「ほら」
「その顔、朝のホームルームでもしたらいいのに」
「無理です」
「どうして」
彼女は箸でブロッコリーをつつきながら、少しだけ目を伏せた。
「転校、三回目なんです。最初に方言でしゃべったら、『怒ってるの?』とか『漫才して』とか、いろいろ言われて。せやから、最初くらいは、おとなしく標準語で行こうかなって」
最後の一言だけ、ほんの少し地元の響きが混じった。
僕は自分の弁当のふたを閉じたり開けたりしながら言った。
「でも、無理してるの、わりとバレてる」
「えっ」
「完璧すぎて」
「褒めてます?」
「半分くらい」
「半分は?」
「こわい」
白石さんは一瞬むっとして、それから吹き出した。
「折原くん、見た目より失礼ですね」
「よく言われる」
「私は言ってないです」
「今言った」
「今のは感想です」
そんなやり取りをしてから、僕らは毎日、屋上で昼を食べるようになった。
白石さん――つぐみは、教室では相変わらず完璧な転校生をやっていた。ノートはきれい、受け答えは丁寧、先生受けもいい。けれど屋上に来ると、まず深呼吸してから言うのだ。
「今日も標準語、つかれた……」
最初の一週間で分かったことがある。
彼女は緊張すると標準語になる。油断すると地元の言葉に戻る。くしゃみをすると、だいたい全部混ざる。
それと、ピーマンが苦手だ。
「それ、あげる」
「いやです」
「なんで」
「交換条件が雑すぎるからです」
「じゃあ唐揚げ一個つける」
「成立」
つぐみは毎回、ピーマンを僕の弁当に移し、その代わりに唐揚げやらミートボールやらを奪っていった。僕の弁当は母が作る。つぐみの弁当は本人が作る。ある日、彼女は僕の卵焼きをひとくち食べて、すぐに言った。
「……負けた」
「何に」
「卵焼き選手権」
「開催されてたの」
「今、心の中で」
それから悔しそうに言った。
「明日、リベンジします」
翌日、本当に卵焼きが二種類入っていた。甘いのとしょっぱいの。食べ比べをさせられた結果、僕はしょっぱいほうに一票を入れた。
つぐみは腕を組んでうなずき、満足そうに言った。
「よし。折原くんの胃袋の傾向、把握」
「何その言い方」
「攻略の基本です」
「何を攻略するの」
「昼休みを」
言ったあとで、彼女は自分で何を言ったか気づいたらしく、耳まで赤くなった。
「ち、違います。弁当交換の効率化という意味で」
「ふうん」
「その顔やめてください」
「どの顔」
「分かってて言う顔」
僕は、笑うのをやめられなかった。
六月に入ると、クラスの空気が少し変わった。文化祭の実行委員を決める時期で、放送係に誰を出すかでもめたのだ。
「白石さん、声きれいだし向いてそう!」
誰かがそう言った瞬間、つぐみの箸が止まったのを、僕は屋上で見ていた。
「無理です」と教室で断った彼女は、その日の昼、弁当のふたを開けるなり机――じゃない、ベンチに突っ伏した。
「終わった……」
「まだ何も始まってない」
「人前でしゃべるのは大丈夫なんです。でも、緊張したら絶対、出る」
「方言」
「はい……」
風が吹いた。つぐみは髪を押さえながら、恨めしそうに空を見た。
「なんで言葉って、隠そうとしたら余計出るんやろ」
「好きなほうを使えばいいのに」
僕がそう言うと、彼女は顔を上げた。
「簡単に言いますね」
「簡単だよ」
「簡単じゃないです。折原くんは、そういうの、ないから」
それは少しだけ刺さった。
僕にだってある。教室では喋らないほうが楽だから、静かなやつで通している。言いたいことを飲み込むのに慣れすぎて、自分でも何を言いたかったのか分からなくなることがある。
でも、それを説明するのは面倒だった。
だから僕は弁当箱の端を指でつついて言った。
「じゃあさ、練習しよう」
「何を」
「放送」
「ここで?」
「屋上はちょうどいい。失敗しても僕しか聞かない」
つぐみはしばらく黙って、それから小さく笑った。
「それ、最初の日と同じ言い方ですね」
文化祭までの二週間、僕らは昼休みに放送練習をした。
原稿を読むつぐみは、最初こそ硬かったけれど、何度も繰り返すうちに、だんだん自分の声でしゃべれるようになった。標準語が崩れそうになるたびに彼女は僕を見る。僕が親指を立てると、彼女は少しだけ肩の力を抜いた。
ある日、僕が「今の、すごくよかった」と言うと、つぐみはくしゃみをしたあとで、反射みたいに言った。
「そんなん言われたら、好きになってまうやろ」
沈黙。
つぐみは両手で口を押さえた。
僕は箸を落とした。
風だけが元気だった。
「……今のは」
「事故です!」
「へえ」
「事故ですって!」
「二回言った」
「言わんといてください!」
真っ赤になったつぐみは、その日、僕の唐揚げを二個持っていった。慰謝料らしい。何に対する慰謝料かは、最後まで説明されなかった。
文化祭当日、放送室の前でつぐみは珍しく無口だった。
「大丈夫」と僕が言うと、彼女はうなずいた。でも手が少し震えている。
「折原くん」
「うん」
「もし途中で変な言葉になっても、笑わんでくださいね」
「笑わないよ」
「ほんまですか」
「たぶん」
「たぶんってなんですか!」
そこまで言えているなら大丈夫だ、と僕は思った。
本番の放送は、きれいだった。
クラス展示の案内、落とし物のお知らせ、体育館ステージの開始時刻。つぐみの声はやわらかくて、聞いているだけで背筋が伸びるようだった。途中、一度だけ言い淀んだ。でも、そこで彼女は止まらなかった。
「次の催しは、三年二組の演劇です。……めっちゃ、おもしろいらしいので、ぜひ来てください」
最後の一言だけ、少しだけ、地元の響きが混じった。
放送室の外で聞いていた何人かが、くすっと笑った。でもそれは馬鹿にする笑いじゃなかった。
「今の、かわいかった」
「白石さんっぽい」
そんな声が聞こえた。
放送が終わって出てきたつぐみは、へなへなと壁にもたれた。
「終わった……」
「よかったじゃん」
「足、まだ地面についてない感じです」
「浮いてる?」
「三センチくらい」
僕は笑って、「お疲れ」と缶ジュースを渡した。つぐみは受け取って、一口飲んで、それからじっと僕を見た。
「折原くん」
「うん」
「私、標準語、もうちょっと適当でいいかもしれん」
「うん」
「屋上以外でも、たまにはそのままでおっていいかなって思えた」
「うん」
「それで」
彼女は一回、息を吸った。
「事故じゃないほうで言います」
僕の心臓が、やけに分かりやすく鳴った。
つぐみは目をそらさずに言った。
「折原くんとおる昼休み、好きです。弁当の好みが分かりやすいとこも、変にやさしいとこも、ちょっと失礼なとこも、たぶん全部」
「たぶん全部って」
「全部です」
即訂正された。
僕は少しだけ考えるふりをした。本当は、考える必要なんてなかった。
「じゃあ、僕も事故じゃないほうで言う」
「はい」
「白石さんがくしゃみしたあとのほうが、ずっと好き」
「そこですか!?」
「あと、屋上で笑ってるとき」
つぐみは一瞬きょとんとして、それから、困ったみたいに笑った。
「それ、褒めてるんです?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「もう好きって意味」
今度は、彼女が箸を落とす番だった。いや、今日は箸を持っていないけれど、そういう顔をした。
文化祭の帰り、僕らは昇降口で別れた。つぐみは靴を履き替えながら振り向いて言った。
「明日、土曜ですけど」
「うん」
「屋上、ないですね」
「ないね」
「……駅前とか言ったら、ありきたりですか」
「かなり」
「じゃあ」
彼女は少し考えて、にやっとした。
「公園で卵焼き選手権、続きやります?」
「受けて立つ」
「負けませんよ」
「審査員は僕だけでいい?」
「よくないです。公平性がない」
そんなことを言いながら、彼女はたぶんうれしそうだった。
翌週の月曜、昼休みに屋上へ行くと、ベンチの上に小さな付箋が貼ってあった。
『本日より、ここでは標準語禁止』
その下に、見慣れた丸い字で、こう続いていた。
『ただし、好きは何語でも可』
風が吹いた。
僕は付箋をはがしてポケットに入れ、ひとりで笑った。すぐあとにドアが開いて、つぐみが弁当を抱えてやって来る。
「なに笑ってるんですか」
「別に」
「その顔、絶対なんかありますやん」
「屋上では標準語禁止なんでしょ」
「それはそうですけど」
「じゃあ言う。今日の卵焼き、楽しみ」
つぐみは足を止めて、それから少しだけ目を細めた。
「……そういうの、ずるい」
「何が」
「先にうれしいこと言うの」
「攻略の基本だよ」
彼女は一瞬あっけにとられて、次の瞬間、声を立てて笑った。
たぶんその日から、僕らの昼休みは、前より少しだけ騒がしくなった。けれどそれは、教室のざわざわとは違う種類の、ちゃんと好きな騒がしさだった。