短編
一分遅れのやかん
母の残したやかんの遅れを直そうとした娘が、その一分の中にだけ残っていたものに気づく話。
商店街のはずれで、時計と小さな電気器具の修理をしていると、壊れているものには二種類あるのだとわかる。直せば元に戻るものと、直すことで別のものになってしまうものだ。
四月の終わりの、雨とも霧ともつかない湿り気のある午後、店の扉を押して入ってきたのは、紺色のカーディガンを着た若い女の人だった。両手で抱えていたのは、古びたアルミのやかんだった。底は少し黒ずみ、持ち手には白い布がきつく巻いてある。丁寧に使われてきたものの顔をしていた。
「これ、見てもらえますか」
私は作業机の上のルーペを外した。彼女はやかんを置き、少し言いにくそうに続けた。
「沸くのが、一分くらい遅いんです」
私は思わず聞き返しそうになったが、やめた。修理屋に来る人は、だいたい自分でもそんなことはわかっている。たかが一分のために店に来ているのではない、ということも。
「前からですか」
「いえ。半年前くらいから。火にかけて、沸騰して、笛が鳴るまでが、きっかり一分、遅いんです」
彼女はそう言ってから、小さく笑った。
「変な言い方ですよね。沸くのが遅いんじゃなくて、笛が鳴るのが遅いのかもしれない。でも、家で測ると、どの時計でもだいたい一分なんです」
私はやかんを持ち上げてみた。軽い。中を覗くと、内側は思ったよりきれいだった。手入れがいい。注ぎ口の笛の部分を外し、指で軽く弾く。金属の薄い音がした。
「使ってるうちにずれることはあります。笛の穴に湯垢がつまってるとか、蓋の合わせが甘くなってるとか」
「直りますか」
「たぶん」
そう言うと、彼女はなぜか少し困った顔をした。それから視線をやかんに落としたまま、ゆっくり話した。
「母のやかんなんです」
その一言で、店の湿った空気が少しだけ重くなった。
「母が亡くなって、私が引き取って使ってたんですけど。最初は普通だったんです。去年の秋くらいから、一分遅れるようになって」
彼女はそこで言葉を切り、入口の曇ったガラスを見た。雨はやんでいるのに、外の景色はまだぼやけていた。
「その一分が、どうしても長くて」
私はうなずいた。うなずくしかなかった。
伝票を書くために名前を訊くと、彼女は「瀬名」と答えた。三日ほど預かることにして、やかんを奥の作業棚に置いた。帰り際、瀬名さんは「急がなくて大丈夫です」と言った。直してほしいのに、急がなくていいという言い方には、どこか逃げ道のようなものがあった。
翌日、私は店の簡易コンロでやかんを試した。確かに少し妙だった。湯は沸いている。蓋もかたかた鳴っている。なのに笛だけが鳴かない。沸騰してから、じっと一分ほど待つと、ようやく細く長い音が出る。間の抜けた、けれどよく通る音だった。
原因はすぐわかった。笛の内側の弁が摩耗して、ごくわずかに引っかかっている。交換するほどでもないが、そのわずかな抵抗が蒸気の通りを遅らせていた。ほんの薄い金属片ひとつで、一分は生まれる。
私は工具を置いて、しばらくそのやかんを眺めていた。
店には、私のほうで直していないものが一つだけある。壁にかかった丸時計で、五分進んでいる。もう十年以上だ。妻がいた頃、店番をしながら「この町の人はみんなのんびりしすぎるから、五分くらい急かしてちょうどいい」と言って勝手に進めた。私は文句を言いながら、そのままにした。妻がいなくなってからも、直せずにいる。五分進んだままのその時計の下で、私は毎日、正しい時間に店を閉める。
だから私は、瀬名さんのやかんの前で少し手が止まった。修理屋がこんなことで迷うのは、腕が鈍った証拠だろう。だが、鈍ったのは腕ではなく、たぶん別のところだ。
結局、私は予定通りに直した。弁を磨き、歪みを整え、蒸気の抜けを確かめた。湯が沸くと、ほとんど間を置かずに笛が鳴った。甲高く、いかにも正しい音だった。どこにも問題はない。修理としては、それで終わりだった。
受け取りに来たのは、四日目の夕方だった。瀬名さんは店先でやかんを見るなり、「直りましたか」と訊いた。私は「ええ」と答え、念のため店で試してみせた。火にかけ、湯が沸き、すぐに笛が鳴る。見本のようにきれいな流れだった。
「よかった」
彼女はそう言った。そう言ったのに、声にはよかったの形があまりなかった。
代金を受け取って伝票を渡すと、彼女はやかんを抱えて帰っていった。扉の鈴が鳴り、店はまた静かになった。
三日後、瀬名さんはもう一度来た。前よりも早い時間で、陽のまだ高い午後だった。彼女は店に入るなり、少し息を切らして言った。
「すみません。変なお願いなんですけど」
抱えているやかんを見なくても、何を言いに来たのかわかった。
「遅くできますか」
私は笑わなかった。瀬名さんも笑っていなかった。
「やっぱり、だめでした。ちゃんと鳴るのに、だめだったんです」
彼女は椅子に座る前から話し始めた。母親は毎朝、紅茶を入れる前に必ずやかんを火にかけ、その一分のあいだに台所で今日の天気のことや、近所の猫のことや、どうでもいい愚痴を言ったらしい。本当にどうでもいいことばかりで、あとに残るような話ではなかったという。だからこそ、自分はちゃんと覚えていないのだと。
「笛が遅れるようになってから、私、その一分で母のことを思い出してたんです。別に声が聞こえるとか、そういうんじゃなくて。ただ、待ってるあいだだけ、母がまだ台所のどこかにいる気がして」
彼女は手元のやかんの蓋を指でなぞった。
「でも、直ったら、その一分がなくなってしまって。お湯はちゃんと沸くし、音もちゃんと鳴るのに、なんだか急かされてるみたいで。母のいた場所だけ、先に片づけられたみたいでした」
私は棚の奥の丸時計を見上げた。五分進んだ針が、誰よりも忙しそうな顔をして時を刻んでいた。
「直す前に、聞けばよかったですね」と私は言った。
「私も、頼む前に考えればよかったんです」
「いいえ。頼んでみないとわからないこともあります」
そう言ってから、私はやかんを受け取った。修理屋として正しい答えではないかもしれないが、その日ばかりは、正しさよりも手順を信じることにした。分解して、弁の金属をほんの少し戻す。磨きすぎたところに、別の抵抗を作る。壊すのではなく、癖を残すための作業だった。ひどく不器用なことをしている気がした。
「ぴったり一分には、ならないかもしれません」
「いいです」
「毎回同じでもないかもしれない」
「そのほうがいいです」
私はうなずいた。そうかもしれない、と思った。思い出はいつも、几帳面すぎない。
調整を終えて、また火にかけた。ふたりでコンロの前に立ち、黙って湯気を見た。蓋がかたかた鳴り始める。まだだ。蒸気は白く細い。まだ。店の壁時計は相変わらず五分先を行っている。ようやく笛が鳴った。前より少し低く、どこかためらうような音だった。
瀬名さんはその音を聞いて、すぐには何も言わなかった。泣くのかと思ったが、泣かなかった。代わりに、とても小さく息を吐いた。それは安心に近い音だった。
「このくらいです」と彼女は言った。
私は伝票を書き直さず、机の隅に置いたままにした。再修理の欄に丸をつけるのもやめた。店の帳面に残らない仕事が、ときどきある。
帰る前に、瀬名さんは入口で振り返った。
「たぶん、ずっとこのままでいてほしいわけじゃないんです」
「ええ」
「いつかは普通に鳴っても、いいんだと思います。でも、まだ少しだけ、間に合わなくて」
私はその言葉を、いい言葉だと思った。喪失というのは、何かに間に合わなくなることではなく、間に合わなかった自分をしばらく抱えて生きることなのかもしれなかった。
「それで十分です」と私は言った。
扉が閉まり、鈴が鳴った。夕方の光が店の床を細く照らしていた。私は作業机に戻り、ルーペをかけた。棚の上では、五分進んだ時計が、相変わらず正しい顔で時を刻んでいる。
その夜、店を閉める前に、私は自分用の小さなやかんを火にかけた。湯が沸き、すぐに笛が鳴った。あまりに機嫌よく鳴るので、少しだけ愛想がないと思った。私は火を止め、湯飲みに茶を注いだ。それから、壁の時計を見上げたあと、脚立を持ってきて、針に手を伸ばした。
しばらく迷って、結局、触れずに降りた。
直せるものと、まだ直さないものがある。どちらも壊れているわけではない。ただ、人がそこに置いている時間の量が違うだけだ。
湯気の向こうで、店のガラスが夜の色に変わっていく。誰にも聞こえないくらい小さな音で、私の胸のどこかでも、少し遅れて何かが鳴った。