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短編

三番ホームの忘れもの

終電後の小さな駅で忘れものを預かる男が、返却先のないマフラーを通して、しまいこんでいた別れの言葉に触れる話。

Genre
現代幻想
Series
単発
#駅#忘れもの#記憶#別れ#再生

その駅の忘れもの係になって七年になる。

朝は通学定期をなくした高校生、昼は網棚に置き去りにされた紙袋、夜は酔客の傘。忘れものには、だいたい持ち主の生活の癖がついている。角のすり減った文庫本、飴のにおいのする手袋、コンビニのレシートが丁寧に挟まったパスケース。私はそれらを拾得日ごとに棚へ並べ、台帳に書き込み、三か月経ったら規定どおり処分する。

忘れものは、駅にとっては事務で、人にとっては一瞬の不注意だ。けれど、ときどき、それだけでは片づかないものが混じる。

十二月の初め、終電が出たあとだった。改札を閉め、三番ホームのベンチを見回っていると、端の木製ベンチに赤いマフラーが置かれていた。派手ではない、暗い臙脂色の毛糸で編まれた、まっすぐなマフラーだった。雪が降る前の空気を吸って、少しだけ冷えていた。

私は拾い上げ、軽くはたいた。端に、小さくほつれを繕った跡があった。几帳面な針目だった。

忘れもの係の癖で、私は持ち主を想像した。自分で繕う人か、繕ってもらう人か。駅ではそういう想像が許される。どうせ当たらないし、当たらないからこそ、少しだけやさしい。

事務室へ戻って台帳を開くと、日付と場所を書き込み、品名に「毛糸マフラー・臙脂」と記した。備考欄に、つい「端に補修あり」と書き添えてしまった。必要のない情報だった。

その夜、戸締まりを終えて消灯すると、棚のあいだから毛糸のこすれるような音がした。

振り返ると、当然、何も動いていない。古い駅舎だから、冬はどこかしら鳴る。そう思って帰ろうとしたとき、聞こえた。

「まだ、ここにいるのね」

女の声だった。近くで囁かれたようでもあり、ホームの向こうから風に乗ってきたようでもあった。

私は立ち止まった。酔っている客はいない。改札も閉めた。事務室には私ひとりだ。

声はもう一度した。

「よかった」

棚を見ると、いちばん下の段に置いたばかりのマフラーが、ほんの少しだけ、落ち着きをなくした生きものみたいに端を垂らしていた。

私はそれを見下ろし、それから、見なかったことにする年齢はもう過ぎたな、と思った。七年前なら、怖がって駆け出していたかもしれない。今は、台帳の書き漏らしを心配するほうが先に立つ。

「……あなたが喋っているんですか」

答えはない。代わりに、駅の時計が二十三時を打った。

翌朝、私は少し寝不足のまま出勤し、開口一番、駅長に「昨日、変な音がして」とだけ話した。駅長はホーム屋根の鉄骨だろうと言い、来月に点検を頼んであると言った。私は、それ以上言わなかった。忘れものが喋る駅員など、長く勤めるには向いていない。

だが、その夜も声はした。

「今日も寒いわね」

「誰ですか」

「忘れたのは、わたしじゃないのよ」

声はマフラーから聞こえていた。正確には、マフラーの周囲の空気が、その言葉を覚えていて、ほどけるたびに漏らしているようだった。私は意を決して、椅子に座って聞いた。

「持ち主に返してほしいんですか」

しばらくの沈黙のあと、声は言った。

「返す相手が、もう来ないの」

その言い方は、不思議と恨みがましくなかった。ただ、駅のアナウンスのように静かで、くり返しに慣れた響きがあった。

それから何日か、私は終電後にマフラーと話した。向こうは毎回少しずつしか喋らなかった。三番ホームで待っていたこと。待ち合わせの相手は遅れることが多く、それでも必ず来たこと。ある冬の夜だけ、来なかったこと。終電の発車ベルが鳴っても来ず、次の日も、その次の日も来なかったこと。

「事故?」と私は聞いた。

「知らない」と声は言った。「知らないままなの」

それがいちばん、つらい言葉だった。

私は三番ホームを毎晩見回るようになった。もちろん、仕事として元々見回ってはいる。けれど以前のように安全確認だけでは済まなくなった。ベンチの板の節目、白線の欠けたところ、時刻表のガラスに映る無人のホーム。誰かが長く待った場所には、待った時間が染み込む。人が去ったあとも、それだけが残る。

年が明け、忘れものの保管期限が近づいた。規定では処分だ。私は台帳の「処理予定日」を見るたび、目をそらした。

ある晩、常連の清掃員の佐伯さんが、私の机の上のマフラーを見て言った。

「それ、まだいたの」

私は反射的に「え」と声を漏らした。

「三番の赤いの。去年の冬も見た気がするのよねえ。気のせいかしら」

「去年?」

「ほら、あそこのベンチ、端っこ。待ち合わせの人、よく座るから」

佐伯さんはモップの柄にもたれて首をかしげた。「女の人だったかな。長いこと座ってて、終電のベルで立って、そのままマフラー置いていったの。声かけようと思ったら、もういなくて」

去年ではない、と私は思った。マフラーを拾ったのは先月だ。だが口には出さなかった。駅には、ときどき時刻表に載らないことが起きる。

その夜、私はマフラーを膝に置いて聞いた。

「あなたは、何を待っているんです」

声はしばらく黙っていた。

「謝る言葉かもしれないし、約束を取り消す言葉かもしれない。もしかしたら、何も言わないで来る足音だったのかもしれない」

「会えないままでも、終わることはある」

自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。マフラーに向けたのか、自分に向けたのかわからなかった。

七年前、私にも約束を破った夜があった。病院に向かう途中で電車が止まり、携帯電話の電池が切れ、私は父の最期に間に合わなかった。言い訳はいくらでもできた。雪だったこと、信号機故障だったこと、病室に着いたときにはもう白い布が顔までかかっていたこと。けれど、間に合わなかった、という事実は、どんな事情より簡潔だった。

その日から私は、別れには立ち会うべきだと頑なに信じた。間に合わないことは不誠実で、残された側を凍らせる、と。だから駅で忘れものを預かる仕事は、どこか自分への罰に似ていた。取りに来るものを待ち、来ないものを数える。その反復が、私には都合よかった。

マフラーは小さく笑うような気配を見せた。

「あなたも、待っているのね」

「待っているつもりはありません」

「じゃあ、置いたままなの」

その一言で、事務室の空気が少し変わった。古い蛍光灯の白さまで、どこか図星を指すように見えた。

私は翌日、非番の時間に墓地へ行った。父の墓石は冬の日に冷えきっていた。花立てには先月の菊が茶色く縮れていた。私は手を合わせ、長いあいだ黙っていた。気の利いたことは何も言えなかった。ただ、間に合わなかったことを、初めてそのまま口にした。

「ごめん」

それだけ言うと、不思議なことに、それ以上の言葉は要らなかった。許された気はしなかったし、劇的に何かが軽くなったわけでもない。けれど、凍っていた場所に、体温くらいのものが戻ってきた。

その夜、駅へ戻ると、マフラーはいつもより静かだった。

「言えたのね」と声がした。

「ええ」

「なら、わたしも大丈夫」

「持ち主は、来なくても?」

「来なかった、で終わっていいこともあるわ」

ホームに風が抜け、改札口のポスターがかすかに鳴った。私はマフラーを手に取り、三番ホームへ向かった。終電後の線路は、黒い川のように光を吸っていた。あのベンチの端に、私はマフラーをそっと置いた。

返却ではない。処分でもない。たぶん、見送りに近かった。

数分すると、下り線の通過列車がひとつ、減速もせずにホームをかすめた。風が巻き上がり、車窓の灯りが臙脂色を一瞬だけ深く照らした。次の瞬間、マフラーはそこになかった。

飛ばされたのでは、と思って周囲を見たが、ホームのどこにも落ちていない。線路にもない。ただ、ベンチの板の上に、細い毛糸が一本だけ残っていた。繕いの跡に使われていたのと同じ、丁寧な糸だった。

私はそれを拾い、台帳に挟んだ。

翌朝、備考欄に赤線を引き、「返却不能・保管終了」と記した。規定どおりの言葉だ。けれど、その日付の横に並んだ活字は、いつもより少しだけやわらかく見えた。

駅には今日も忘れものが届く。片方だけの手袋、名もない鍵、読みかけの文庫本。持ち主の来るものも、来ないものもある。すべてを元どおりにはできないし、待っても届かない言葉はある。それでも、預かることには意味があるのだと思う。すぐ捨てないこと。すぐ決めつけないこと。しばらくのあいだ、そこにあったと認めること。

夕方、三番ホームを見回ると、端のベンチに若い男がひとり座っていた。手には花束。落ち着かない様子で、何度も時計を見ている。私は通りすぎかけて、少し迷い、声をかけた。

「今日は冷えますから」

男は顔を上げた。「ええ」

「待ち合わせですか」

「はい。……たぶん、来ると思います」

その答えがあまりに正直で、私は少し笑った。

「そうですか」

それ以上は何も言わず、私はホームの端まで歩いた。線路の向こうに、冬の陽が低く沈みかけていた。もうすぐ列車が来る。来るものと、来ないもの。その境目に立ちながら、私はただ、次のベルを待った。