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短編

干潮のポスト

返せなかった手紙を抱えた郵便配達員の女が、潮の引く町で一通だけ遅れた返事を届けに行く話。

Genre
現代文学
Series
単発
#海辺#手紙#喪失#再生#短編

港町の郵便局には、潮の匂いが染みついている。

朝いちばんに鉄のシャッターを上げると、紙とインクの乾いた匂いの底から、いつも海藻のような湿り気が立ちのぼった。美緒はその匂いが嫌いではなかった。嫌いではない、という程度の好意を、もう長いあいだ大切にしている。好きと呼ぶには何かを失いすぎている気がして、嫌いではない、で止めておくものが、年を重ねるごとに増えていった。

四月の終わり、町は一年でいちばん静かな干潮を迎える。海が遠くまで退き、ふだんは水に隠れている黒い石や、錆びた係留杭や、割れた瓶の底が日にさらされる。美緒は赤い軽バンに郵袋を積み込みながら、窓口の脇に置かれた古い木箱を見た。宛先不明、転居先不明、受取拒否。配達できなかった手紙が分類される箱だ。

その朝、その箱に一通、見慣れない封筒があった。

青みのある薄い便箋を包んだ、角の少し潰れた洋封筒。切手は十年前の記念切手で、消印はこの町のものだった。宛名は、丸みのある丁寧な字でこう書かれている。

志田凪 様
汐見町三丁目 旧灯台下の家

今どき「旧灯台下の家」で届く郵便などない。番地も郵便番号もない。けれど美緒は、その文字を見たとたん、胸の奥で何かが小さく軋む音を聞いた。

差出人の欄には、「神谷透」とあった。

その名前を、彼女は十年ぶりに読んだ。

透は美緒の高校時代の同級生で、凪の恋人だった。凪は美緒のいちばん近い友人で、いちばん遠いところへ行ってしまった人でもある。高校を出た翌年、凪は病気で死んだ。あまりに早く、本人も周りも、死ぬ準備などできないうちに。透は葬儀のあと町を出て、それきり戻らなかった。

封筒の端を指でなぞる。宛先の「凪」の字だけが少し濃い。書くときに、そこだけ力が入ったのだろう。差し出されたのは十年前なのに、なぜ今になって木箱から出てきたのかはわからない。局舎の改修で古い棚の隙間から見つかったのかもしれないし、誰かがずっとしまい忘れていたのかもしれない。理由はどうでもよかった。大事なのは、美緒がその手紙を見つけてしまった、という事実だった。

本来なら処理に回すべきだ。保存期間をとうに過ぎている。規則はそう言う。

だが、その日、美緒は手紙を自分の配達鞄に入れた。

その動作に、ほとんどためらいはなかった。ためらいがなかったことに、あとから少し驚いた。規則を破るほど強い感情など、自分には残っていないと思っていたからだ。

午前の配達を終えたころ、潮はさらに引いていた。旧灯台へ向かう坂道は、観光地にもなりそこねたまま、白く乾いたガードレールだけが新しく、ほかは昔のままだった。凪の家は、もう「家」とは呼べない。取り壊されて更地になり、基礎の跡だけが低く残っている。けれど町の年寄りは今でも「あそこは旧灯台下の家」と言う。家がなくなっても、呼び名だけはしぶとく残る。

美緒はバンを停め、海を見下ろした。沖まで退いた海面が、薄い鏡のように日を返している。波は遠い。世界が少しだけ後退して、隠していたものを見せている。

凪は手紙を書くのが好きだった。メールの時代になっても、便箋を選び、インクの色を変え、封筒に細い花のシールを貼った。美緒にもよく書いてきた。学校で毎日会うのに、放課後になると「さっき言い忘れたから」と手紙を渡した。中身は大したことがない。昨日見た雲の形とか、商店街の犬が片耳だけ立てていたとか、図書室の窓辺の光が古い映画みたいだったとか。そういう、急がなくていいことばかりだった。

急がなくていいことを、凪は誰よりも大事にしていた。

だから病気が見つかったあとも、「治ったら」という言葉を何度も使った。治ったら海に行こう。治ったら働こう。治ったら長い手紙を書こう。そのどれも間に合わなかった。

美緒は凪の死後しばらく、透を少し憎んでいた。見舞いにも、葬儀にも、ちゃんと来ていたのに、その後あっさり町を出たからだ。あっさり、というのは残された側の勝手な言い分だと、今ならわかる。だが当時は、残ることのしんどさばかりを自分に課して、去る人をずるいと思った。

それでも本当に憎んでいたのは、透ではなく自分だったのかもしれない。

凪が亡くなる三日前、美緒は病室で「また来る」と言って帰った。凪は笑って、「無理しなくていいよ」と言った。あれは気遣いだったのに、美緒は許しのように受け取ってしまった。翌日は仕事の面接があり、その翌日は熱を出した。結局、次に病院へ行ったとき、凪はもう話せなかった。

返事を一通、出しそびれたまま今まで来たのだ。

封筒を開けるべきではない、と頭のどこかで思いながら、美緒は指を差し入れてしまった。糊は長い年月で乾き、あっけなく口を開いた。中の便箋は二枚。透の字は宛名より少し乱れていた。

凪へ。

書き出しはそれだけで、季節の挨拶もなかった。本文は短かった。長く書くと届く前に気持ちが変わってしまいそうで、急いで書いたのだとわかる字だった。

病院の帰り、何を言えばよかったかわからなくなった。
大丈夫だと言うのも違うし、ずっと一緒にいると言うのも、言葉にした途端に軽くなる気がした。
だから今日は帰る。帰って、手紙を書く。
君は手紙なら、何度でも読み返せるから。
もし先に元気になったら笑ってくれ。弱虫だと。
もしそうならなくても、僕は君の時間の中にいたことを一生忘れない。
返事はいらない。けれど、受け取ってほしい。

二枚目の下には、追伸がひとことだけあった。

灯台の下のポスト、まだ赤いままだろうか。

美緒は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。

灯台の下のポストは、今はもう使われていない。観光用に残されている丸い古いポストで、集荷もされず、投函口は板で塞がれている。けれど高校生のころ、凪はあのポストが好きだった。海風に塗装が褪せても「ちゃんと赤だ」と言っていた。夕方になると、錆びた赤が、空の色によって柿色にも、血の気の薄い朱にも見える。その曖昧さが好きだと。

美緒は便箋を封筒に戻し、灯台へ向かった。

石段を上がると、古いポストは本当にまだそこにあった。赤というにはあまりに褪せ、ところどころ金属の地肌が見えている。投函口の板も斜めに浮き、海風に小さく鳴っていた。

美緒は封筒をポストの前に立てかけた。もちろん、それで届くわけではない。誰が受け取るでもない。だが、返事のいらない手紙なら、届く場所は一つでなくてもいい気がした。

そのとき、背後で足音がした。

振り向くと、男がひとり、石段の途中に立っていた。痩せて、肩だけ少し丸く、陽に焼けている。けれど目元に、十年前の面影が残っていた。

「……美緒?」

透の声は、思っていたよりずっと普通だった。劇的でもなく、取り乱しもせず、ただ確認するような響きだった。

「そう」
「びっくりした」
「こっちの台詞」

透は苦く笑った。その笑い方まで変わっていなくて、美緒は一瞬だけ腹が立ち、同時に安心した。

「局に寄ったら、古い手紙が見つかったって聞いて」
「もう処理されてるはずだったけど」
「見つかったんだ」
「見つかった」

透はポストの前の封筒を見た。目を細めて、息を少しだけ止めたようだった。

「開けた?」
「……ごめん」
「いや」
彼は首を振った。「たぶん、開けてもらうために、今さら出てきたんだと思う」

そんな都合のいいことを、と思いかけたが、美緒は言わなかった。都合のいいことに救われる日もあると、この十年で知ったからだ。

透はポストに近づき、封筒に触れなかった。ただ、そこにあることを確かめるように見下ろした。

「当時、出したつもりだったんだ。けど、たぶん局の窓口で料金不足って言われて、あとで切手を足して出そうとして、そのままになったのかもしれない。情けない」
「そういうところ、変わってないね」
「変わらないまま年だけ取った」

海のほうから風が上がってきた。潮が少しずつ戻り始めている。遠かった波音が、石段の下で現実の輪郭を取り戻していく。

「凪に、何か返事をもらったことある?」と、美緒は聞いた。

透はしばらく考え、「あるような、ないような」と言った。
「手紙の返事じゃなくて、笑い方とか、黙り方とか。そういうので十分だった気もする」

美緒はうなずいた。凪はそういう返事をする人だった。言葉にならないところで、ちゃんと受け取って、ちゃんと返す。

「私、最後にちゃんと会えなかった」
言ってしまうと、十年抱えていた石が、少しだけ形を失った。
「また来るって言って、行けなかった」

透は驚いた顔をしなかった。ただ海を見たまま、「うん」とだけ言った。

「それ、たぶん凪は知ってたと思う」
「何を」
「行けなかったことじゃなくて、行こうとしてたこと」

美緒は笑いそうになって、笑えなかった。泣きそうになって、泣くほどでもなかった。その中途半端さが、むしろ本物だった。

沈黙のあと、透が言った。
「この手紙、ここに置いていっていいかな」
「いいと思う」
「郵便法的には」
「だめ」
「だよね」

ふたりで少し笑った。

灯台の下の町が見える。屋根瓦、狭い路地、港のクレーン、郵便局の古い看板。その全部が、誰かの不在を抱えたまま、しかし何事もなかったように午後へ進んでいく。

美緒はふと、凪が好きだった言葉を思い出した。手紙は、届くために書くんじゃなくて、届こうとするために書くのだと、どこかの本から覚えてきて得意げに話していた。高校生のくせにずいぶん気取ったことを言う、と美緒は笑ったが、その意味はずっとわからなかった。

今なら少しだけわかる。

届くかどうかではなく、差し出すこと。相手のいる方角へ、自分の言葉を向けること。その姿勢だけが、人を人のままにしてくれることがある。

「ねえ」と美緒は言った。
「うん」
「今からでも、返事って遅くないかな」
透は海から目を離し、彼女を見た。
「遅いよ」
「ひどい」
「でも、遅いのと、もう無理なのは違う」

その言葉は、慰めにしては乾いていた。だからこそ、美緒の胸に素直に入った。

潮が満ちはじめ、干潟の黒い石が一つずつ水に隠れていく。見えていたものがまた見えなくなる。けれど、一度見たものはなかったことにはならない。

美緒はポストの赤を見た。褪せて、錆びて、それでもまだ赤に見える。凪が言っていた通りだった。

「明日、休みなんだ」と透が言った。
「だから?」
「町を少し歩こうと思ってる。もし時間があれば」
誘い方まで不器用で、美緒はおかしくなった。
「局が終わったらなら」
「じゃあ、終わったら」
「返事、早いね」
「十年待ったから」

今度はちゃんと笑えた。

帰り際、美緒はポストの前の封筒を見た。風で飛ばないよう、近くの小石をひとつ乗せる。配達員としてはひどく曖昧な処置だ。差出、保管、転送、返送、そのどれでもない。けれど人生には、ときどき分類不能のまま置いておくしかないものがある。

石段を下りる途中で、美緒は振り返った。古いポストのそばに立つ透の向こうで、海がゆっくり戻ってきていた。満ちてくる水は何も言わない。ただ、遅れてきたものにも居場所を与えるように、静かに岸を塗り替えていく。

明日になれば、あの封筒は湿るかもしれない。風で落ちるかもしれない。誰かが持ち去るかもしれない。けれどそれでもかまわない気がした。ようやく差し出された手紙には、届かなかった十年ぶんの時間が、すでに切手の代わりに貼られている。

美緒は胸の中で、まだ書けていない返事の最初の一行を探した。

急がなくていいことを、今度は急がずに書こうと思った。