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短編

雨の日の預かり証

母の声を思い出せなくなった女性が、雨の日にだけ開く店で一枚の預かり証を受け取り、自分が忘れていたものの正体に触れる話。

Genre
現代幻想
Series
単発
#雨#記憶#母娘#小さな店#再生

母の声が思い出せなくなった、と気づいたのは、六月の終わりだった。

仕事帰り、駅前の横断歩道で信号待ちをしていると、向こう側の軒先で、子どもを呼ぶ女の人の声がした。短く、少しだけ息を含んだ声だった。叱っているようでいて、実は濡れないところへおいでと言っているだけの、あの調子。私ははっとして振り向いた。けれど、そこにいたのは見知らぬ親子で、母ではなかった。もちろん、母であるはずもない。母はもう七年も前に死んでいる。

そのとき私は、自分が母の顔は思い出せるのに、声だけがどうしても浮かばないことに気づいた。

写真はある。癖のある字で書かれた買い物メモもある。冬物のコートをしまうときの、樟脳の匂いまで覚えている。なのに、声だけが空白だった。口の形は思い出せるのに、そこから何も鳴らない。まるで昔の映画を字幕だけで見ているみたいに、母は静かだった。

不意に怖くなった。

人が死ぬというのは、こういうふうに二度目があるのかもしれないと思った。最初は身体がなくなる。次に声がなくなる。最後には、その人に呼ばれていた自分まで、少しずつ薄くなっていく。

その晩、私は部屋の引き出しをいくつも開けた。母の遺したものは多くない。私は整理が苦手なくせに、遺品だけはきちんと箱に分けてしまっていた。通帳、封筒、指輪の箱、古いハンカチ、使いかけの口紅。雨の音が窓に細かく当たっていた。

いちばん下の箱の隅から、見覚えのない紙片が出てきた。

古びた薄青色の紙で、角がやわらかく丸まっている。中央に、万年筆のような濃いインクで、こう書いてあった。

「預かり証
一件
雨の日に限る」

日付は、母が死ぬ三日前だった。宛名も店名もない。裏返すと、小さく「駅南三丁目 水笛横丁 つきあたり」とある。そんな横丁は知らなかった。

次の日も雨だった。梅雨の雨は親切そうな顔をして執拗だ。私は会社を早く出て、駅の南口へ向かった。傘を差している人たちはみな同じ速さで歩き、みな少しだけ不機嫌そうに見えた。けれど、私だけはその奥に何か別のものがある気がしていた。自分でもばかみたいだと思いながら、紙片をコートのポケットで何度も確かめた。

駅南三丁目に、水笛横丁という名前の表示はなかった。居酒屋の看板、駐輪場、歯科医院、コインパーキング。そのあいだを行ったり来たりしたあと、私は古いクリーニング店の脇に、人ひとり通れるほどの細い路地を見つけた。雨樋からこぼれた水が、そこだけ糸のように落ちている。路地の奥に、小さな木の看板が下がっていた。

「預かり所」

それだけだった。

店は、狭かった。古い薬局のようなガラス戸、曇った電球、壁ぎわの棚。棚には箱が並んでいた。靴箱くらいのものもあれば、指輪が入りそうな小箱もある。どれにも白い札が結ばれ、数字が書かれている。店内はなぜか少しだけ潮の匂いがした。

番台の向こうにいたのは、年齢のわからない女の人だった。髪は白く、頬は若い。紺色の割烹着を着て、私を見ると、驚いたようでもなくうなずいた。

「預かり証をお持ちですか」

私は紙片を出した。女の人はそれを受け取り、光に透かしたあと、棚の奥へ入っていった。しばらくして、細長い箱を持って戻ってくる。桐の箱のようだったが、もっと軽そうに見えた。

「確認のため、お名前を」

私は名乗った。女の人は箱を膝に置いたまま、少し考えるふうに目を細めた。

「お母さまからのお預かりです」

喉の奥がきゅっと狭くなった。

「何を、ですか」

「それはこちらでは申し上げられません。預かったものは、返すときまで名前をつけない決まりです」

「そんなこと、あるんですか」

「ありますよ。名前を先につけると、違うものに育ってしまうことがあるので」

私は箱を見た。箱は何も言わない。雨粒がガラス戸を伝って落ちる音だけが、店の中に細く続いている。

「開けてもいいですか」

「お帰りになってからでも、ここでも。どちらでも同じです。ただし」

女の人は私をまっすぐ見た。

「中身が、ご希望どおりとは限りません」

少し腹が立った。希望どおりでないなら、ここまで来た私は何のために濡れているのだろう。けれど怒る相手も、怒る理由も、ふわふわしていた。私は箱を受け取った。拍子抜けするほど軽かった。

「母は、何を預けたんでしょう」

女の人は箒を立てかけるみたいな静かな動作で首を振った。

「預けた方が決めた条件があります。受け取る人が、自分でわかるように、と」

「わからなかったら」

「そのときは、持って帰ってしばらく雨に当ててください。乾いた部屋では、思い出せないものもあります」

そんな曖昧なことを、と言いかけて、やめた。ここへ来た時点で、私はもう曖昧なことの内側にいる。会計もなく、受領印もなく、女の人はただ「お気をつけて」と言った。

箱を抱えて部屋へ帰り、机の上に置いた。開ける前に手を洗い、なぜか湯を沸かした。そうしているうちに、緊張は少しずつ別のものに変わった。期待というより、怖さに近い。もし中に何もなかったら。もし母と関係のないものだったら。もし、母の声が録音されたテープのように、あまりに直接すぎるものだったら。

蓋は、するりと開いた。

中に入っていたのは、カセットテープでも手紙でもなかった。白い封筒が一枚きり。表に私の名前が書いてある。母の字だった。見た瞬間にわかった。少し右上がりで、払いが長く、急ぐと「子」の最後が流れる。私はそれだけで泣きそうになった。

封筒の中には、小さな紙が一枚だけ入っていた。

「もし声を忘れたら、これを読んで。
あなたはよく、私の声を忘れるのを怖がるだろうと思います。
でも、声は忘れていいです。
声はその日の喉や咳や天気で変わるから。
忘れないでほしいのは、あなたがどう呼ばれていたかです。
私はあなたを、名前で呼ぶ前に、いつも先に見つけていました。
遠くにいても、混んだ駅でも、あなたがどこにいるかわかった。
そのことだけ残ればいい。
見つけるほうは、先にいなくなるから、預けておきます」

紙はそこで終わっていた。肝心のことが書かれていないようにも思えた。母の声の代わりが欲しかった私には、あまりにあっけない。私は紙を両手で持ったまま、しばらく机に向かっていた。窓の外で車が水をはね、どこかで救急車が鳴った。

腹立たしさと寂しさが一緒に来た。忘れていいなんて、勝手だ。忘れたくないから来たのに。私は封筒を箱へ戻そうとして、ふと紙の裏に薄いにじみがあるのに気づいた。水で濡れたような跡だった。いや、にじみではなく、文字だった。光にかざすと、後から書き足した小さな一行が見えた。

「あなたが帰ってきたとき、傘を振ってはいけません。水を切る前の、少し困った顔が好きでした」

その瞬間、母の声ではなく、母に見られていた自分が立ち上がった。

玄関で、濡れた傘を持て余していた私。子どものころ、背丈に合わない大きな傘で帰ってきて、靴下まで濡らし、怒られる前の数秒だけ、世界にどうしていいかわからない顔をしていた私。そこへ台所から母が出てきて、笑いをこらえながら「まず閉じなさい」と言う。私は口を尖らせて、傘の先を床にあてる。母はタオルを投げて寄越す。あのときの蛍光灯の白さ、茹でたほうれん草の匂い、床の冷たさ。その全部が、突然、一つの場面として戻ってきた。

そして、その場面のなかで母はたしかに喋っていた。はっきりした声ではない。録音みたいに再生できるものでもない。けれど、私に向かって話しかけてくる気配の輪郭だけは、あざやかに戻った。

声そのものではなく、私を見つける方向。

私はそこで、ようやく母が預けたものの意味を少しだけ理解した。母は声を残したのではない。私が母に見つけられていた時間を、置いていったのだ。だから私は、読んだ途端に、思い出の中で呼び止められた。

泣くつもりはなかったのに、涙が勝手に落ちた。机にしみがひろがる。私は笑ってしまった。こんな回りくどいことをする人だった。言いたいことをまっすぐ言うくせに、いちばん大事なことだけ、妙に照れて隠す人だった。

次の雨の日、私はもう一度、あの店へ行った。

細い路地はあったが、奥に看板はなかった。クリーニング店の脇には、古い自動販売機が置かれているだけで、人の通った跡もない。何度見ても、そこに店が入る隙間はなかった。

私はしばらく立って、濡れたアスファルトを見ていた。それから、傘を閉じた。母の書いたとおり、水を振り払わずに持ったので、スカートの裾が少し濡れた。

駅へ戻る途中、向こうから小学生くらいの女の子が走ってきた。大きな傘を斜めにし、肩を濡らしながら、必死に急いでいる。後ろから母親らしい人が「こら、前見て」と呼ぶ。女の子は一瞬だけ振り向き、困ったような、でもどこか安心した顔をした。

私はその顔を見て、ふと足を止めた。

見つけてもらっている顔だ、と思った。

誰かに覚えられていることは、こんなにも具体的なのだ。名前を呼ばれるより前に、そこにいると知ってもらえていること。自分が少し不格好でも、濡れていても、ちゃんと見つかること。

その夜、私は部屋の引き出しを整理した。母のメモや口紅を別の箱に移し、預かり証と封筒は机のいちばん上の段に入れた。しまいながら、これはたぶん保存ではないのだと思った。標本みたいに閉じ込めるためではなく、必要なときに取り出して、自分の輪郭を確かめるためのものだ。

窓の外では、また雨が降り出していた。

私は小さく、自分の名前を口にした。思っていたより自然に言えた。そのあとで、母ならどういう調子で呼ぶだろうと想像した。まだ完全にはわからない。けれど、前ほどの空白ではなかった。声にならない声のまわりに、確かな温度が残っている。

たぶん人は、死んだあとも少しずついなくなるのではなく、別のかたちで預け直されていくのだ。ふとした仕草や、叱る前の息遣いや、傘を持て余したときの困り顔のなかに。

私は立ち上がり、玄関へ行って、濡れた傘を壁に立てかけた。昔みたいに床にしずくが落ちる。

そのしずくを見ながら、私はようやく、母に見つけられていた自分を、今度は自分で見つけ直した。