短編
雨の三〇七号室
亡くなった伯母の部屋を片付けに来た女が、誰もいないはずの留守番電話に、自分の声で残された警告を聞く。
伯母の部屋を引き払う手伝いを頼まれたのは、六月の終わりだった。
古い団地の三〇七号室は、駅から遠く、坂の上にあり、雨の日には建物全体が湿った布みたいな匂いを吸い込んでいた。伯母は生前、電話に出ない人だった。何度かかけても留守番電話に切り替わり、用件を入れても折り返しは来ない。用があるなら来なさい、という人だったのだと思う。
鍵を開けると、部屋は驚くほど整っていた。押し入れの中まできれいで、食器は伏せられ、時計はどれも止まっていたのに、生活だけが今朝まであったみたいに静かだった。
電話機は居間の隅の小さな台に置かれていた。乳白色の受話器に、後付けの留守番電話機がつないである。ランプが赤く点滅していた。
私は思わず笑った。停電でもして、変な誤作動を起こしているのだろうと思った。伯母が亡くなってから、もう十日以上たっている。固定電話に今さら何か入るはずがない。
けれど再生ボタンを押すと、短い機械音のあと、雨音が流れた。
ざあ、という音の向こうで、女の息遣いがした。
『……まだ、いる?』
低く、押し殺した声だった。伯母ではない。年齢のわからない女の声だ。少しだけ濁っていて、それでも耳に残る。
『出ないで。玄関のほう、見ないで』
そこで切れた。
私は留守番電話機を見た。表示は「1」。再生が終わると、また赤いランプが点滅しはじめた。もう一度押す。今度は同じ雨音のあと、別の声が入っていた。
『加奈ちゃん?』
息が止まった。私の名前だった。
『三〇七、開けちゃだめ。あの人、まだ廊下に——』
ぶつりと切れる。
私は受話器を取り上げ、発信履歴も着信履歴もないことを確認した。そもそもそんな機能も大してない古い機械だ。電話線を見た。ちゃんとつながっている。停電復旧でメモリが乱れたのかもしれない。伯母の知り合いが私を知っている可能性だってある。
そう考えてから、私は急に喉が渇いた。
部屋の中は静かだった。台所の窓に細かい雨粒がぶつかっている。冷蔵庫は空で、床はきしまず、隣室の生活音もしない。団地なのに、音が少なすぎた。
管理人室に寄ったとき、管理人の老婦人は「三〇七は伯母さんが一人で長かったからねえ」と言った。「夜、間違えて鳴ることがあるけど、古い建物だから」とも。
何が鳴るんですか、と聞くと、老婦人は少し考えてから、「インターホンとか、電話とか」と答えた。その曖昧さが嫌だった。
夕方までに衣類をまとめ、本を段ボールに詰めた。天気は崩れる一方で、帰る頃には土砂降りになるとニュースが言っていた。私はきりのいいところまで終えてしまいたくて、予定より長く残った。
六時を過ぎたころ、玄関のチャイムが鳴った。
ぴんぽん、という平凡な音だったのに、私は肩を跳ねさせた。誰か来る予定はない。管理人かもしれないと思い、玄関へ向かった。その途中で、居間の留守番電話が再生もしていないのに勝手に回りはじめた。
ガチャ、とテープの音がして、あの雨音が流れる。
『見ないで』
さっきよりはっきり、女の声が言った。
玄関の前で、私は止まった。ドアスコープをのぞこうとしていた目を、ゆっくりそらす。
チャイムはもう鳴らない。ただ、ドアの向こうに誰か立っている気配だけがあった。人が黙って立つときの、あの妙な濃さ。いる、とわかるのに、何も聞こえない。
私は息を殺して後ずさった。五歩、六歩。居間に戻ると、留守番電話のランプが点滅している。表示は「3」になっていた。
再生すると、今度は雨音ではなく、受話器に近すぎる呼吸音がした。そのあと、震えた声がした。
『加奈、私。……私だから、ちゃんと聞いて』
私自身の声だった。
録音された声は、ひどく息を切らしていた。
『いま玄関にいるの、外の人じゃない。のぞくと、向こうからこっちを覚える。伯母さんはそれで駄目になった』
そこまで聞いて、私は停止ボタンを押した。指先が冷たかった。ありえない。こんな声、吹き込んだ覚えはない。それでも、自分の声というものは、嫌になるほどわかる。
伯母の死因は心不全だと聞いている。病院で亡くなった。玄関をのぞいてどうこう、そんな話は一度も出なかった。
そのとき、玄関のノブが、ゆっくり下がった。
鍵は閉めている。だから開かない。けれど、向こうの誰かは、部屋に人がいると確かめるみたいに、一度下げ、戻し、また下げた。金属の擦れる音が、妙に湿って聞こえた。
私は台所へ行き、包丁を探した。けれど伯母は刃物をほとんど処分してしまっていたらしく、小さな果物ナイフしかない。そんなものを握っても安心できないとわかっていた。
また、チャイムが鳴った。
今度は一回ではなく、一定の間隔で三回。
ぴんぽん。
ぴんぽん。
ぴんぽん。
そのあと、はじめて声がした。
「加奈ちゃん」
男とも女ともつかない声だった。くぐもっていて、ドア一枚隔てた向こうではなく、もっと近い場所から聞こえる気がした。たとえば押し入れの中とか、洗面台の排水口とか、そういう湿った暗がりから。
「電話、聞いた?」
返事はできなかった。喉が閉じていた。
「開けなくていいよ。見てくれれば」
私は反射的に居間の窓を見た。三階だから、窓の外に人がいるはずはない。カーテンの隙間から、濡れたベランダの手すりが見えるだけだった。
そのとき、ベランダのガラス戸に、こん、と何かが当たった。
外側から。
私は声もなく後ずさった。カーテンの向こうに、薄い人影がある。雨の筋に溶けて輪郭が定まらず、顔だけが少し明るい。顔というより、そこだけ部屋の灯りを返して白く浮いている。
留守番電話がまた勝手に回りだした。
『今から切るね』
私の声だった。泣いているような、怒っているような、しゃがれた声。
『線を抜いても鳴るけど、切ったほうがまし。声を覚えられる前に切って。あと、絶対に——』
録音が乱れ、ざり、と激しい雑音が入る。
その瞬間、玄関のチャイムとベランダのノックが同時に鳴った。
前と後ろ、外と外。部屋が薄い紙みたいに感じられた。どちらもこちらを見ている。どちらかを見返したら、そのまま穴が開く気がした。
私は電話機のコードを引き抜いた。壁から、留守番電話機から、全部。なのにランプは点滅をやめない。赤い光だけが、部屋の隅で小さく脈を打っている。
『——絶対に、部屋の中で返事しないで』
最後の一言だけ、はっきり聞こえた。
そのとき、私はもう返事をしてしまっていたのだと気づいた。
最初のチャイムのあと、誰かと思って玄関へ向かいながら、小さく「はい」と言った。無意識に。誰にでもする、あの曖昧な返答を。
ベランダのガラス戸が、わずかに開いた。
鍵は閉まっていたはずなのに、指一本入る程度の隙間ができ、そこから湿った空気が細く入りこんだ。カーテンがふくらみ、伯母の部屋の匂いが変わる。雨の匂いではない。古い受話器に耳を当てたときの、誰かの皮膚のぬくもりが冷えたあとの匂い。
玄関のほうでも、同じように、ラッチの噛み合う小さな音がした。
私は居間の真ん中で動けなくなった。どちらも開いているのに、どちらも見てはいけない。目を落とすと、床に水の跡があった。玄関からでもベランダからでもない。電話台の下から、一本の濡れた足跡が伸びている。裸足の、小さな足跡だった。
それは廊下ではなく、私のいるほうへ向かっていた。
留守番電話が、最後のメッセージを再生した。
雨音はなく、静かな室内の音だけが入っていた。たぶん、この部屋だ。遠くでチャイムが鳴り、誰かが息を殺している。
そのあと、私の声が、すぐ耳もとで囁いた。
『もう遅い。次に来た人に、同じことを言って』
赤いランプが消えた。
同時に、玄関とベランダの気配も消えた。雨だけが、建物の外壁を洗っていた。私はその場にへたりこんだまま、朝まで動けなかった。
翌朝、管理人に事情を話そうとして、やめた。三〇七号室の電話はとうに解約済みで、留守番電話機も壊れていた。コードを差しても電源は入らない、と管理人は言った。
引っ越し業者を手配し、伯母の荷物はその週のうちに出した。最後に電話機だけ捨てようとしたが、なぜか見当たらなかった。電話台の上に、丸く乾いた水の跡だけが残っていた。
それから半年後の雨の日、知らない番号から私の携帯に留守番電話が入った。
再生すると、ざあ、という遠い雨音のあとで、息をひそめた女の声がした。
『……まだ、いる?』