短編
雨の日の投函口
駅前の古いポストに亡き妻への手紙を入れ続けた男が、届かないはずの返事によって、ようやく自分の時間へ戻っていく話。
駅前の広場には、もう使われていない赤いポストがひとつだけ残っていた。
再開発で舗装は新しくなり、バス停の屋根はガラス張りになり、パン屋は小さなカフェになった。それでもそのポストだけは撤去されず、植え込みの脇に少し肩をすぼめるように立っていた。投函口は錆び、回収時刻を書いたプレートも剥がれている。誰も手紙など入れない。子どもが待ち合わせの目印にするか、酔った会社員がもたれて煙草を吸うくらいだった。
私はそこへ、毎週木曜の夕方に手紙を入れた。
宛名はいつも同じだった。
――春子へ。
春子は三年前に死んだ。病院の白い天井を見上げて、あっけないほど静かに息をやめた。私たちは四十年近く一緒に暮らしたが、最後の三か月は驚くほど短かった。余命という言葉を聞いてからの時間は、濡れた紙のように頼りなく、持ち上げようとするとすぐ破れた。
生きている相手には、案外、言葉を先延ばしにできる。
帰ったら言おう。
落ち着いたら言おう。
今は疲れているからまた今度にしよう。
そうしているうちに、言葉は言葉の形を失い、ただ胸の内側に重みだけを残す。
私は春子が死んでから、その重みを手紙にした。
今日食べたものの話、近所の桜が切られたこと、テレビのクイズ番組がつまらなくなったこと、薬缶の笛が壊れたこと。ときどき、あのとき病室で笑ってやれなくてすまなかった、と書いた。もっと早く病院を替えていたらと書いた。生きているうちに、好きだともっと雑に言っておけばよかった、とも書いた。
出しもしない手紙なら家に置けばいいのに、と思う人もいるだろう。
だが家に置くと、それはただの独り言になる。
ポストに入れると、少なくとも私の手からは離れる。
はじめのうちは、通りすがりの高校生に笑われた気がした。
そのうち誰も気にしなくなった。
私も、気にしないふりが上手くなった。
梅雨入りした木曜、広場には細かい雨が斜めに降っていた。私は傘を差し、封筒を胸ポケットに入れてポストの前に立った。封筒は少し湿っていた。今日は春子の誕生日だった。
「まだ使うんですか、それ」
声をかけられて振り向くと、カフェになった元パン屋の軒先に、若い女が立っていた。店員らしい黒いエプロンをつけ、手には濡れた看板を抱えている。
「使えませんよ、そのポスト。飾りです」
「知っています」
私が答えると、彼女は少し困ったように笑った。
「ですよね。なんか、すみません」
「謝らなくていいですよ」
私は投函口を押し上げ、手紙を入れた。中で軽い音がした。底に古い紙が溜まっているのかもしれない。
女は看板を店内へ戻し、ふたたび出てきた。
「ずっと見てました。毎週ですよね」
「見られていましたか」
「駅前って、思ったより人のこと覚えるんです」
それは責める口調ではなかった。雨足が少し強くなった。女はポストと私の間に落ちる雨を見てから、静かに言った。
「届くといいですね」
私は返事をしなかった。
届くわけがない、という言葉も。
届いてほしい、という言葉も。
どちらも口にすれば、たちまち安っぽくなりそうだった。
その夜、帰宅すると、郵便受けに見知らぬ封筒が入っていた。
差出人はない。切手も消印もない。白い封筒の表には、古い癖のある字で、私の名前だけが書いてあった。
胸が騒いだ。春子の字に似ていたからだ。いや、似ていたというより、私がそう思いたかったのかもしれない。茶の間でしばらく封を切れずにいた。時計の音だけが妙に大きく、窓の外ではまだ雨が降っていた。
やがて私は封を開いた。
中の便箋には、たった三行だけ書かれていた。
――ちゃんと食べてください。
――傘を持って出てください。
――もう、あなたの帰る時間です。
春子の字ではなかった。
似せようとした誰かの字でもなかった。
ただ、丁寧な字だった。
私は何度も読み返した。
怒るべきなのか、気味悪がるべきなのか、自分でもわからなかった。けれど三行目を読んだとき、胸の奥で何かが小さくほどけた。
あなたの帰る時間です。
その言い回しは、春子がよく使ったものだった。
遅くまで仕事をしていたころ、飲み会で終電を逃しかけたころ、父の葬式のあと実家に長く留まりすぎたころ、春子は私を責めるでも急かすでもなく、そう言った。
帰りなさい、ではなく。
帰ってきて、でもなく。
あなたの帰る時間です。
誰かが悪戯で書ける言葉ではないように思えた。
だが、悪戯でなかったとして、では誰が知っているのかと考えると、答えはなかった。
次の木曜、私は手紙を書かなかった。
封筒だけ持って駅前へ行き、雨上がりのポストの前に立った。広場の石畳には薄い水たまりが残り、雲の切れ目から夕方の光が差していた。カフェの女が店先で鉢植えを並べている。
私を見ると、彼女は軽く会釈した。
私は少しためらってから、近づいて言った。
「あなたですか」
「何がですか」
「手紙を、入れたのは」
女は首を傾げた。嘘をついている顔には見えなかった。
「私、そんなことしませんよ。というか、ちょっと怖いです」
そう言って笑い、でもすぐに真顔になった。
「返事、来たんですか」
私は答えなかった。答えないことを、彼女は無理に責めなかった。
「このポスト、夜になるとたまに開いてるんです」と彼女は言った。
「風かなと思ってたけど、昨日閉めました。手、切りそうなくらい固かった」
私は投函口を見た。錆びた口は、昨日までと同じように見えた。
「なんにせよ」と彼女は鉢植えの葉についた水滴を払いながら言った。「届かない場所って、たぶんあるんでしょうけど。出したことでしか着けない場所も、あるのかもしれませんね」
若いのに、妙に年寄りくさいことを言う人だった。
私は少しだけ笑った。
その日、私は封筒をポストに入れなかった。
代わりに胸ポケットへ戻した。
家に帰って、その封筒を開けると、白紙の便箋が入っていた。私はしばらく眺め、それから台所へ行って米を研いだ。ひとり分の夕飯をきちんと作るのは、ずいぶん久しぶりだった。味噌汁に豆腐を入れ、鯵を焼き、小鉢にほうれん草を盛った。春子なら塩が強いと言うだろうと思いながら、少し薄めにした。
食べ終えてから、私は白紙の便箋に一行だけ書いた。
――今日はちゃんと食べました。
そしてその手紙は、どこにも出さず、茶箪笥の引き出しにしまった。
次の木曜も、その次の木曜も、私は駅前を通った。
ポストの前で立ち止まることはあっても、もう投函はしなかった。カフェの女とは、ときどき会釈を交わした。夏が来て、赤いポストの塗装はさらに褪せた。広場の植え込みには小さな白い花がつき、夕方の風には、もう雨の匂いよりアスファルトの熱が混じるようになった。
ある日、通り過ぎざまにそのポストへ触れてみた。
金属はぬるく、驚くほどただの箱だった。
それでよかったのだと思う。
届いたのが誰の言葉だったのか、今もわからない。
春子ではなかったのだろうし、奇跡と呼ぶには控えめすぎる。
けれど私は、届かない相手に向けて差し出した手が、ようやく自分のほうへ戻ってきたのだと考えることにしている。
帰る時間は、たしかに来ていたのだ。