短編
雨宿りのための手紙
言えなかった別れの言葉を抱えた女が、雨の日だけ手紙を預かる喫茶店で、自分の時間を少しだけ動かし直す話。
商店街のはずれに、その喫茶店はあった。晴れた日にはただの古びた店に見えるのに、雨が降ると、ガラス戸の内側だけが少し明るくなる。駅へ急ぐ人たちが早足で通り過ぎるなかで、その店だけが、濡れた午後をじっと引き受けているように見えた。
店の名は「しずく」。
真白は三十二歳になっていた。年齢を意識するのは、誕生日よりも、母の命日が近づくころだった。三年前の六月、病室で、母は眠っているように見えた。その横で真白は、起きたら話そうと思っていた。仕事を辞めたいことも、恋人と別れたことも、今さら料理を教わりたかったことも、起きたらまとめて言えばいいと思っていた。母は起きなかった。最後の会話は、コンビニで買ってきたヨーグルトの味についての、あまりにどうでもいいものだった。
それ以来、真白は、言葉は早めに使わないと間に合わなくなる、と知った。けれど知ったからといって、うまく使えるようになるわけではなかった。職場では「大丈夫です」と言い、友人には「平気」と返し、父からの電話には忙しいふりをした。喉の近くまで上がってきたものは、たいてい飲み込まれ、胃の底で形を失った。
その日も雨だった。得意先への提出書類を濡らし、駅前で安いビニール傘の骨を一本折り、ひどく疲れていた。見慣れない路地へ逃げ込んだのは、ただ雨脚を避けたかったからだ。そこで「しずく」の看板を見つけた。
扉を開けると、鈴が鳴った。店内には古い木の匂いと、湯気のやわらかい匂いが混じっていた。客はひとりもいない。窓際の棚に、小さな抽斗がいくつも並んでいるのが見えた。どれにも白い札が差してあるが、名前は書かれていない。
「いらっしゃい。雨宿りですか」
カウンターの向こうにいた店主は、六十代くらいの、髪のきれいな白い女性だった。エプロンの紐を結び直しながら、真白の濡れた袖を見て、タオルを差し出した。
「ブレンドでよければ、すぐ出せますよ」
真白は頷いた。熱いカップを両手で包むと、指先に少しずつ生気が戻ってくる。
カウンターには、小さなカードが立ててあった。
――雨の日に限り、お手紙をお預かりします。宛先は、会えない人でもかまいません。
真白は二度読みした。悪趣味だ、と思う前に、馬鹿らしい、と片づけられないものが胸に触れた。
「何ですか、これ」
店主は、ミルクピッチャーを拭きながら答えた。
「書きたい人が書くんです。出したい相手がいる人もいれば、出せない相手に書く人もいます。郵便にはしません。ただ、預かるだけ」
「預かって、どうするんですか」
「置いておきます」
あまりにもそのままの答えで、真白は少し笑ってしまった。店主もつられて笑う。
「でも、不思議とね。置いていくと、少し身軽になる人が多いんです」
真白は抽斗を見た。誰のものとも知れない手紙が、雨の日のたびに、静かに増えていくのだろうか。
「読むんですか」
「いいえ。封をしたものは読みません。封をしない人のは、読みます。返事が必要そうなら、店主としてではなく、ひとりの他人として返事を書くこともある」
「商売なんですか、善意なんですか」
「たぶん、道楽です」
その軽さが、真白には少し救いだった。重大なものとして扱われると、かえって差し出せない気がした。
真白はカップの底に残ったコーヒーを見た。丸い黒のなかに、自分の顔が歪んで映っている。母のことを、職場の誰にもまともに話したことがない。話すには時間が経ちすぎて、黙るにはまだ近すぎた。
「紙、借りられますか」
「もちろん」
店主が出した便箋は、少しざらりとした手触りだった。万年筆も一緒に置かれる。真白はしばらく白い面を見つめた。最初の一行が書けずにいると、店主は奥の棚を整えに行った。見張られていないことに、ほっとした。
母さんへ、と書いて、そこでまた止まる。
拝啓、ではない。季節の挨拶でもない。母さんへ、としか書けないのが、今の自分らしかった。
真白はゆっくり書き始めた。あの日、起きたら話そうと思っていたこと。実際には話せなかったこと。仕事が向いていない気がしていること。誰かにやさしくされると、申し訳なくなること。台所で母のやり方を思い出せず、味噌汁を無駄に濃くしてしまうこと。父と二人で会うと、話題が薄くて、いつもテレビの音に助けられていること。
書いているうちに、言いたかったことと、本当に言うべきだったことが少し違っていたと気づいた。仕事を辞めたいことより先に、寂しい、と言えばよかった。料理を教わりたいことより先に、まだ娘でいたい、と言えばよかった。けれど、そういう言葉ほど、親しい相手にはうまく出てこない。
雨音が濃くなった。ガラスを伝う雫が、外の景色を縦にのばしている。
真白は便箋を三枚使った。最後の一行に迷った末、こう書いた。
先に大人になったふりをして、ごめん。もっとちゃんと甘えればよかった。
そこまで書いて、涙がこぼれた。大げさに泣くのではなく、何年か分の湿気が、やっと水滴になったような涙だった。袖で拭っていると、店主が黙って新しいおしぼりを置いた。何も言わないのがありがたかった。
「封、しますか」
真白は頷いた。封筒に入れて糊付けすると、手紙は急に他人行儀な顔つきになった。もう自分の内側から切り離されたもののようだった。
「宛名は」
「いりません。ここでは、書かない人が多いです」
店主は封筒を受け取ると、窓際の抽斗を一つ引き、そっとしまった。札は空白のままだった。
「これで終わりですか」
真白が尋ねると、店主は首をかしげた。
「終わりにしたいなら、終わりです。続きがあるなら、また雨の日に」
真白は会計を済ませた。思ったより安かった。扉の前で傘を開こうとすると、店主が言った。
「お母さま、料理が上手だったんでしょうね」
真白は振り向いた。
「どうして」
「味噌汁のことを書いた顔をしていました」
真白は吹き出した。泣いたあとの笑いは、少し情けなく、少し清々しい。店主はそれ以上何も言わず、ただ会釈した。
外へ出ると、商店街はまだ雨のなかにあった。けれど、来たときより世界が明るいわけではないのに、道の輪郭だけが妙にはっきりして見えた。真白は駅へ向かいかけて、足を止めた。スマートフォンを取り出し、父の名前を開く。通話ボタンの上で指がためらう。こんな時間に何を話すのか、用件もない。けれど用件がなければ話せないのも、ずいぶん変だと思った。
発信音が二回鳴って、父が出た。
「もしもし」
「あ、うん。ごめん、急に」
「どうした」
「別に、用事じゃないんだけど」
沈黙が少し落ちた。以前ならここで、じゃあまた、と切っていたかもしれない。真白は雨の音を聞きながら、息を吸った。
「今度、味噌汁教えて」
「味噌汁?」
「母さんのやつ。あれ、たぶん父さんも知ってるでしょ」
電話の向こうで、父が小さく笑った。咳払いに紛らせたような、頼りない笑い方だった。
「知ってるよ。味噌は最後だぞ。おまえ、すぐ煮立てるから」
「何で知ってるの」
「前に一回、濃いって言ってただろ」
真白は立ち止まったまま笑った。自分が思うより、見られているのかもしれない。黙っているつもりでも、漏れているものはあるのだ。
「今度、そっち行く」
「雨がやんだらな」
「うん」
電話を切って顔を上げると、雲の切れ間はまだない。それでも真白は、やまない雨にも、やまなくていい時間があるのだと思った。乾かすべきものと、濡れたまま置いておくべきものは、たぶん同じではない。
一週間後、また雨が降った。
真白は「しずく」の前まで行って、少し驚いた。ガラス戸の内側は暗く、木の札に「本日休み」と掛かっている。貼り紙も何もない。隣の乾物屋の店主に尋ねると、そんな喫茶店は前から空き店舗だったと言われた。
「雨の日だけ明るかったんですけど」
「街灯の映り込みじゃないの」
乾物屋の店主は気のない顔でそう言った。
真白は古びた扉の前に立ち尽くした。中を覗いても、空の棚と積まれた椅子しか見えない。抽斗も、白髪の店主も、コーヒーの匂いもなかった。狐につままれたような気分だったが、不思議と怖くはなかった。手紙を返してほしいとも思わなかった。
ただ、あの店があったことで、自分が父に電話したこと、次の休日に本当に実家へ行き、味噌汁を教わったこと、そのとき父がだしを取る手つきのぎこちなさに笑ってしまったこと、それらは何一つ消えないのだと分かっていた。
母の味には最後までならなかった。父の味にもならなかった。真白の作る味噌汁は、少し薄くて、少し頼りなく、けれど前よりはちゃんと食卓の真ん中に置ける味になった。
六月の終わり、真白は自分の部屋の机で短い手紙を書いた。
母さんへ。こないだ、ちゃんと甘え直してきました。そしたら少し、これからのことを話せるようになりました。
封はしなかった。その手紙は机の引き出しに入れた。どこへも届かないかもしれない。でも、書かれた言葉には、行き先とは別の役目があるのだろう。
窓の外で、また雨が降り始めた。真白は鍋に水を張り、火にかけた。湯が温まるまでの短い時間、静かな台所に立っていると、誰かを失ったあとの暮らしとは、失ったまま生きることではなく、失ったものの分だけ、言葉を丁寧に使い直していくことなのかもしれないと思えた。
雨音は、返事のようにも、ただの天気のようにも聞こえた。どちらでもよかった。真白は味噌を溶く匙をゆっくり回し、沸き立ちすぎないよう火を弱めた。そういう加減を、これから覚えていけばいいのだと思った。