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短編

雨の公衆電話

閉店間際のクリーニング店で働く女が、撤去されるはずの公衆電話から、もう会えない人の声を聞く短編。

Genre
現代文学
Series
単発
#喪失#再会#雨#記憶#日常

商店街の端に、その公衆電話はあった。

緑色の、少しだけ色の抜けた電話ボックスで、ガラスには古い曇りがこびりついていた。春になるたび町内会が「景観を損ねるのでそろそろ撤去を」と言い、梅雨になるたび誰かが「でも雨宿りにはちょうどいい」と言って話は流れた。そうやって何年も残ってきたものには、役目というより、言い訳のようなものが染みついている。

真帆はその向かいのクリーニング店で働いていた。朝九時にシャッターを開け、ワイシャツの札を整理し、昼には常連の老人と天気の話をし、夕方には学生服の裾のほつれを頼まれる。四月の終わりに店長が腰を悪くしてからは、閉店まで一人で店番をすることが増えた。

雨の日は、預かった服が少し重たくなる気がした。湿気を吸うわけでもないのに、ハンガーの金属まで沈んで見える。そんな日の七時過ぎ、店の固定電話が鳴った。

「はい、白鳥クリーニングです」

返事はなかった。雨音だけが、受話器の向こうで細かくしていた。

「もしもし」

一拍置いて、男の声がした。

『すみません、やっぱり、間違えました』

聞き覚えのある声だった。そう気づいた瞬間に、真帆は受話器を持つ手を固くした。低い声ではない。むしろ、少し上ずりがちで、言葉の終わりがわずかに早い。そのせいでいつも急いでいる人に聞こえた。三年前の秋に死んだ弟の、悠斗の声に似ていた。

「どちらにおかけですか」

『ええと……白鳥クリーニング、じゃないんですか』

「そうです」

『よかった』

そこで男は少し笑った。受話器越しでも、笑うときだけ息が混じる癖まで同じだった。真帆は喉が狭くなるのを感じた。悠斗は、こういうふうに、確かめるように笑った。何かをなくしてばかりいる人の、所在を確認する笑い方だった。

『店の前にいるんですけど、傘がなくて』

真帆は顔を上げた。ガラス戸の向こう、商店街はすでに人影が薄く、街灯の光が雨ににじんでいた。向かいの電話ボックスに、誰かが立っている。背の高い、黒い影。曇ったガラス越しで顔は見えない。

「その電話から?」

『そう』

真帆は受話器を置くこともできず、しばらく立ち尽くした。店内の蛍光灯がじっと鳴っていた。影は動かなかった。

『怒ってる?』

その言い方だけは、はっきりと悠斗だった。子どものころ、真帆の筆箱を勝手に持っていったときも、大学を辞めると母に言えずに真帆に先に電話してきたときも、必ず同じ声音でそう言った。怒っているか、と訊いているようで、ほんとうはまだ見捨てられていないかを確かめている。

「誰ですか」

真帆は言った。自分でも驚くほど、平らな声だった。

向こうで雨音が強くなった。ボックスの屋根を叩く音だとわかった。

『ごめん』

それきり電話は切れた。

真帆が外へ出たときには、電話ボックスは空だった。道路には水が走り、排水口のところで小さく渦を巻いているだけだった。受話器は元の位置に戻っていて、ガラス戸を開けると、むっとする湿気と、金属のにおいがした。床に十円玉が一枚落ちていた。

それから一週間、雨の夜だけ電話はかかってきた。

内容はとりとめがない。今日はそちらは寒いか、店長の腰はまだ悪いか、あの商店街のたこ焼き屋はまだあるか。悠斗が知っていることと知らないことが、奇妙に混じっていた。たこ焼き屋はもう去年閉店した。けれど店長が腰を悪くしたのは最近のことだ。

真帆は最初、誰かのいたずらだと思おうとした。弟のことを知っている誰か。声のよく似た誰か。でも、悠斗のことを知る人間が、彼の癖までこんなに真似できるはずがなかった。真帆自身が忘れかけていた小さな記憶を、その声は不意に撫でていった。小学生のころ、台風の日に二人でベランダのサンダルを取り込み忘れたこと。母の作る卵焼きは日によって甘い日としょっぱい日があったこと。父が出ていった日の晩、悠斗がカレーに七味をかけて、辛くて泣きながら全部食べたこと。

「なんで今さら」

六日目の夜、真帆は電話に向かって言った。

店の外では、シャッターを下ろした八百屋の軒先から水が筋になって落ちていた。電話ボックスの中の影は、今日は少しだけこちらを向いているように見えた。

『今さら、って』

「もう三年もたってる」

『うん』

「お葬式もした。骨も納めた。あんたの服も、本も、ぜんぶ片づけた」

『うん』

「それなのに、雨の日だけ電話してきて、何がしたいの」

沈黙のあと、向こうでコインの触れ合う硬い音がした。

『迎えに来てほしいんだと思う』

真帆は思わず笑った。ひどく乾いた笑いで、自分でも嫌だった。

「子どもじゃないんだから」

『そうだね』

「いつもそうだった。待ってれば誰かが気づくと思ってる。言わなきゃわからないことを、わかってもらえるまで黙ってる」

『真帆』

「最後もそうだった」

口にした瞬間、店の空気が少し冷えた気がした。

悠斗は川で死んだ。事故だった。酔って足を滑らせたのだと警察は言った。けれど真帆は、あの夜、弟からの着信を見ていた。閉店後で疲れていて、明日にしようと思って出なかった。その翌朝、知らない番号から連絡が来た。

受話器の向こうで、雨音がやわらいだ。

『あのとき、姉ちゃんが出ても、たぶん同じだったよ』

「そんなのわからない」

『わからない。でも、わからないままでもよかったのに』

その言葉は、慰めではなく、事実の形をしていた。真帆は返す言葉を持たなかった。人は、わからないまま抱えていくしかないことがある。そんな当たり前のことを、誰かに言われるまで認められずにいた。

『迎えに来て』

また同じことを、今度は少しだけ照れたように言った。

真帆は店を出た。雨は弱く、傘がなくても走れば濡れずに済みそうなくらいだった。道路を渡り、電話ボックスの戸を開ける。中には誰もいなかった。ただ、受話器だけが揺れていた。黒いコードが、さっきまで誰かの体温を覚えていたみたいに、小さく震えていた。

真帆は受話器を耳に当てた。

『いる?』

今度は耳元で聞こえた。遠くではなく、近くでもなく、骨にしみるような場所から。

「いる」

『そっか』

「迎えに来た」

しばらく沈黙があった。街灯に照らされた雨粒が、ガラスを一つずつ滑り落ちていく。向かいの店のシャッター、濡れたアスファルト、遠くを通るバスの灯り。そのどれもが、たしかにそこにあった。

『じゃあ、もう大丈夫』

「何が」

『待つのが』

真帆は目を閉じた。悠斗は昔から、待つのが下手だった。待っているくせに、待っていないふりをした。必要なときほど冗談を言い、肝心なことは言わないまま、こちらが気づくのをじっと待っていた。たぶん、最後の夜も。

「遅いよ」

『うん』

「ほんとに、遅い」

『ごめん』

謝られると、真帆はそれ以上責めることができなかった。責めたかったのかどうかも、もうわからなかった。怒っていた時間、悲しんでいた時間、平気なふりをしていた時間が、雨に濡れた紙みたいに重なって、一枚ずつ剥がれていく気がした。

受話器の向こうで、硬貨が落ちるような、小さな音がした。

『姉ちゃん』

「なに」

『明日、晴れるよ』

通話はそこで切れた。

翌朝、商店街の掲示板に「老朽化のため公衆電話撤去のお知らせ」が貼られていた。作業日は来週の火曜日。町内会長の丸い字で、長年の利用に感謝します、と書いてあった。

その夜は晴れた。次の夜も、その次も、電話は鳴らなかった。

真帆は店の前を掃くたび、向かいのボックスを見た。誰も入っていないのを確かめるためではなく、そこにまだ残っていることを確かめるために。火曜日の朝、業者のトラックが来て、電話ボックスは思ったより簡単に持ち上げられた。地面に残った四角い跡だけが、長くそこに何かが立っていたことを示していた。

作業が終わるころ、真帆は店のレジ横にあった小銭皿から十円玉を一枚取り、エプロンのポケットに入れた。使うあてはない。ただ、持っていてもいいと思った。

午後、預かっていたワンピースを取りに、若い母親が娘を連れてきた。娘は店先で立ち止まり、向かいを見て言った。

「電話、なくなっちゃったね」

「そうだね」

「でも、雨宿りするとこ、まだある?」

真帆は商店街を見回した。八百屋の軒先、薬局の庇、古本屋の引っ込んだ入口。雨をしのげる場所はいくつもあるのに、なぜか少し考えてしまった。

「あるよ」と真帆は言った。「探せば、たぶん」

娘は安心したようにうなずき、母親の手を引いて帰っていった。

夕方、乾いたシャツをハンガーにかけながら、真帆はポケットの十円玉に触れた。ひんやりして、軽かった。窓の外は明るく、雨の気配はどこにもない。それでも、空を見上げればいつかまた降るのだろうと思えた。降ったとしても、もう電話は鳴らない。それでよかった。

待つ場所がなくなったのではなく、待たなくてよくなっただけだと、ようやく真帆は思えた。