短編
雨を返すポスト
返せなかった言葉を書いた手紙を、雨の日だけ受け取る古いポストをめぐる短編。
商店街のはずれに、口の細い古いポストが立っていた。赤ではなく、何度も塗り直された暗い臙脂色で、雨の日だけ艶を取り戻す。晴れた日には、ただの置き忘れられた鉄の箱に見えた。
そのポストには、宛先を書いてはいけないことになっていた。
そんな妙な決まりが、いつからか町にあった。差出人も書かない。ただ、返せなかったものを紙にして入れる。礼でも、詫びでも、言いそびれた一言でもいい。すると、その手紙は雨にまぎれて、然るべきところへ返されるのだという。
もちろん、私はそんな話を信じていなかった。
信じていなかったのに、その日、私は傘も差さずにそこへ向かっていた。
三月の終わりの、冷たい雨だった。小さな文房具店の軒先で買った便箋は水を吸って角が少しやわらかくなっていた。私はポストの前で立ち止まり、手紙をもう一度、掌のなかで確かめた。白い封筒は薄く、軽い。十七グラムにも満たないだろうに、濡れた指には妙に重かった。
書いたのは、父へのことばだった。
父は五年前に死んだ。病室で、最期の二日間だけ意識が戻り、母や親戚にはきちんと何かを残したのに、私にはほとんど何も言わなかった。正確には、言おうとしてやめた。口をひらいて、少しだけ笑い、それから窓の外の曇り空を見た。私はそれを、最後まで根に持っていた。
薄情だったのだと思う。あの人は仕事ばかりで、家では沈黙のかたまりみたいな人だった。娘の進学祝いも、二十歳の誕生日も、いつも何かひとつ遅れていた。花でも言葉でもなく、たいてい実用品だった。使い古した万年筆、少し高い電気スタンド、修理された腕時計。気が利かないにもほどがあると、若い私は何度も思った。
けれど父の死後、遺品を整理していた母が、小さな箱を見つけた。中には、私に渡しそびれたらしいものがいくつも入っていた。壊れたままのオルゴール、封もされていない絵葉書、私が子どものころ欲しがっていたが、結局手に入らなかった外国の切手。どれも安いものだったが、選ぶのに時間がかかったことだけは伝わってきた。
その箱を見たとき、私は初めて、父が不器用だったのではなく、間に合わない人だったのだと知った。言葉も、贈り物も、タイミングも、いつも少しだけ遅れてしまう人だったのだ。
そして私は、そのことを知ったあとでさえ、「ありがとう」を言えなかった。
五年も経って、いまさら何を返すのか。そう思いながら、私は封筒を投函口に近づけた。
すると背後で、からん、と鈴のような音がした。
振り返ると、向かいの時計店の引き戸が半分だけ開いていた。店はずっと閉まっていると思っていた。ガラス越しに見える店内は薄暗く、壁一面に掛け時計が並んでいる。どれも針を止めていたが、雨音に合わせるように、ひとつだけ秒針が進んでいた。
店の奥から、白髪の女が出てきた。歳はよくわからない。祖母ほどにも見えたし、雨の加減では私より若く見えなくもなかった。
「濡れるよ」と女は言った。
「もう濡れてます」
「そうだね」
女は笑い、私の持つ封筒を見た。「入れないの」
「こういうの、信じてないので」
「信じる必要なんてないよ。ポストはただ受け取るだけ」
「届くかどうかは別ってことですか」
「届くかどうかは、受け取る側の都合だもの」
その言い方が妙にもっともらしくて、私は少しだけ腹が立った。「死んだ人にもですか」
女は店の庇の下に下がりながら、「死んだ人のほうが、案外、受け取り上手かもしれない」と言った。
雨脚が強くなった。商店街には人影がなく、魚屋の青い庇から雫が筋になって落ちている。遠くで自転車のブレーキが鳴り、すぐ静かになった。
私は封筒を見た。糊付けしたところが少し波打っている。
父さんへ。
それだけ書いて、本文は三枚になった。恨んでいたこと。誤解していたこと。遺品の箱を開けたとき、泣けなかったこと。いまでも、病室の最後の沈黙を思い出すと腹が立つこと。そして、それでも結局、私が受け取っていたもののほうがずっと多かったこと。
ありがとう、と最後に書いた。ありきたりで、取り返しがつかないほど遅い言葉だった。
「返事が来ることもあるの」と、私は半ばからかうつもりで女に聞いた。
「あるよ」
「どうやって」
「返事って、字で来るとは限らないでしょう」
時計店の奥で、止まっていたはずの時計がひとつ、ぼん、と鈍い音を立てた。時報には中途半端な時刻だった。
私は、封筒を投函口に差し入れた。鉄は雨で冷えきっていた。指を離すと、封筒は思ったより長く内部を滑り、最後に、ごく柔らかい音を立てて消えた。底が紙でできているみたいな音だった。
「それで終わりですか」と私が言うと、女は肩をすくめた。
「たいていはね」
「たいていじゃない時は」
「雨がやむまで待つ」
私は呆れた顔をしたと思う。けれど、ほかにすることもなく、時計店の庇の下に入った。店の中には古い油と木の匂いがした。柱時計、腕時計、目覚まし時計。時を刻むための器具ばかりが、時を止めたまま並んでいる。
「ぜんぶ壊れてるんですか」
「壊れてないよ。休んでるだけ」
「違いがあるんですね」
「大ありだよ」
女はガラスケースを拭きながら言った。「壊れたものは、元に戻るかどうかを人が決める。休んでるものは、自分で戻る時を決める」
その言葉を聞いたとき、父の腕時計を思い出した。学生のころ、私が乱暴に扱ってベルトをちぎってしまった時計だ。父は何も言わずにそれを持っていき、一週間後、直して机の上に置いていた。私は礼を言わず、またすぐ別のものに気を取られた。
店の入り口に立てかけられた傘立てには、一本の黒い傘があった。持ち手に小さな傷がある。見覚えがある気がした。いや、そんなはずはない。父はいつも、コンビニの安い透明傘ばかり使っていた。
「それ、借りていきな」と女が言った。
「私のじゃないでしょう」
「返事だよ」
「都合がよすぎる」
「返事って、だいたい受け取る側には都合がよすぎるか、悪すぎるかのどっちかさ」
私は傘を手に取った。木の持ち手は手になじみ、細かな傷が親指の腹に触れた。その位置まで、覚えている気がした。昔、父が車の鍵と一緒に傘を振り回していて、玄関の靴箱にぶつけたことがあった。私はその音が嫌いで、「ちゃんと持って」と怒った。父は珍しく素直に謝った。たったそれだけの、何でもない夕方のことを、傘の傷が急に引き寄せてきた。
雨が少し弱くなった。
店の外へ出ると、ポストの表面に新しい水滴が丸く並んでいた。投函口の下、ふつうなら集配時刻の紙が貼られている場所に、細い筋ができている。水ではない。墨を薄く溶いたような灰色の線だった。私は顔を近づけた。
そこには、わずかに文字の形があった。
読めるというほど明瞭ではない。けれど、見間違えようもなく、たった一文字だけ、滲んだ線で浮いていた。
「お」
私はしばらく息を止めた。
ありがとう、の「お」なのかもしれない。おまえ、の「お」かもしれない。遅い、の「お」だってありえる。意味は決められなかった。でも、それでよかった。父は最後まで、そういう人だった。全部を言わず、肝心なところで少し足りない。それでも、こちらが勝手に受け取ってしまう余地だけは残していく。
私は笑ってしまった。ひどく中途半端で、らしい返事だった。
振り返ると、時計店の引き戸は閉まっていた。店内は暗く、ガラスに商店街の鈍い空だけが映っている。鈴の音もしない。庇の下にいたはずの女の姿もなかった。
私は黒い傘を開いた。骨が一本きしんだが、布はしっかり張った。雨粒がきれいな音を立てる。新品ではない、誰かが長く使ってきた傘の音だった。
商店街を抜けるまで、私は一度も後ろを振り返らなかった。振り返れば、あのポストも時計店も、ただ古いだけの町の備品に戻ってしまう気がしたからだ。
家に着いて玄関で傘を閉じると、内側の留め具に小さな紙片が挟まっているのに気づいた。切手ほどの大きさの、黄ばんだメモだった。
開くと、父の字によく似た不格好な筆圧で、こう書いてあった。
遅くなって、すまん。
それだけだった。
それだけなのに、五年ぶんの雨が、ようやく私のなかでやんだ気がした。