短編
四一二号室の雨音
雨の夜、使われていないはずの客室から内線がかかり続け、夜勤の男は自分だけが知らない宿泊記録に触れてしまう。
その雨は、屋上を叩くというより、建物全体を静かに腐らせていくような降り方だった。
駅前から少し離れた場所にある古いビジネスホテルで、私は夜勤をしている。深夜一時を回ると、ロビーの自動ドアもほとんど開かない。濡れた傘立ての匂い、ワックスの薄くなった床、壁の時計の秒針。そういうものだけが起きていて、人はみな眠っている。
その夜の宿泊は十一組。四階は三部屋しか埋まっておらず、四一二号室は空室だった。
私は確かにそう引き継ぎを受けたし、台帳にもそう書かれていた。カードキーの発行履歴もない。清掃は済み、ベッドメイク完了。次の予約も入っていない。空いている部屋というのは、ホテルでは一種の静寂そのものだ。何も起きないことが、最初から決められている。
だから、フロントの内線が鳴ったとき、私は少しだけ身を起こした。
「はい、フロントでございます」
受話器の向こうでは、しばらく雨の音だけがしていた。
ざあ、という屋外の雨ではない。もっと近く、窓ガラスを薄く擦るような、部屋の内側で聞く雨の音だった。
「……もしもし?」
やがて女の声がした。
『すみません。そちら、まだ傘はありますか』
声は若かったが、ひどく疲れていた。咳を我慢したあとのような、喉の奥が少し荒れている声だった。
「傘、でございますか。貸し出し用でしたらフロントに」
『白い傘です』
女は言った。
『骨が一本、少し曲がっていて、持ち手に透明なひびが入っているの。預けたはずなんですけど』
私は傘立てを見た。コンビニの黒いビニール傘が四本、紺が一本、あとは骨の折れたものが一本だけだった。白い傘はない。
「恐れ入ります、お部屋番号を」
沈黙のあと、女はゆっくりと答えた。
『四一二』
私は台帳に目を落としたまま、何も言えなかった。空室の番号を、部屋にいる声が告げたからではない。もっと嫌だったのは、その言い方だった。まるで、自分がいまどこにいるのか、少し考えなければ思い出せない人のような、ぼんやりした口ぶりだった。
「……確認いたします。少々お待ちください」
保留にしてから、私は監視カメラの画面を切り替えた。四階の廊下は薄暗く、非常灯の緑だけが床に沈んでいる。四一二の前に人影はない。ドアは閉まっていた。部屋の中までは見えない。
私は受話器を戻さず、そのままマスターキーを持ってエレベーターに乗った。
四階に着くと、廊下は下の階より少し冷えていた。空調の設定のせいだろうと思ったが、歩くうちにそれは違う気がしてきた。雨の日の廊下の湿り気ではなく、洗ったばかりのコップに指を入れたときのような、内側から冷える感じだった。
四一二の前に立つ。室内は無音だった。
ノックをする。
「フロントです」
返事はない。
耳を澄ますと、確かに中で雨が降っていた。
天井からでも、配管からでもない。窓のそばで、夜のどこか遠い場所とつながっているような、細く絶えない雨音だった。
鍵を差し込み、ゆっくり回す。開く。
部屋は暗い。非常灯の残りだけで、ベッドの輪郭と机が見えた。整えられたシーツ、折り畳まれた館内案内、湯のみは伏せてある。誰もいない。
けれど窓際に、濡れた跡があった。
カーペットの上に、傘の先から落ちたような細いしずくが点々と残っている。入口から窓まで続き、窓の前で途切れていた。窓は閉まっている。鍵もかかっている。
私はカーテンを少しだけ開けた。街路灯に濡れたガラスが光る。自分の顔がぼんやり映って、その肩のうしろに、ベッドの端へ腰かけている誰かの白い輪郭が見えた。
振り向く。
誰もいない。
呼吸だけがひどく大きくなっていた。
そのとき、部屋の電話が鳴った。
びくりとして見ると、枕元の黒い受話器のランプが点滅している。フロントから客室へかけたときの点滅ではない。内線同士を転送するときに似ていた。
私は近づき、受話器を取った。
『ありましたか』
さっきの女の声だった。
「あなたはどちらにいらっしゃるんですか」
『部屋です』
「ここには誰もいません」
『そうでしょうね』
女は少しだけ笑ったようだった。しかし安心した笑いではなく、もう何度も同じことを説明してきた人の、あきらめに近い響きだった。
『私も、いまはそう思います』
受話器の向こうで、何か紙をめくる音がした。
『でも、そちらには記録があるでしょう』
「記録?」
『去年の六月二十七日。大雨。四一二。チェックイン二十時十四分。一泊』
私は思わず台帳を思い出した。去年の紙の宿泊台帳は、地下の倉庫にまとめて保管してある。こんな夜中に確認できるはずもない。けれど、なぜかそのページの湿った紙の感触が、急に指先によみがえった気がした。
『私、傘をフロントに預けて、外に出たんです』
女の声は淡々としていた。
『駅まで人を迎えに行くつもりで。でも途中で、ああ、このまま戻らなければよかったのに、と思った』
「何があったんです」
『戻ったんです』
そこで声が途切れ、受話器の向こうにひどく近い雨音だけが満ちた。
『戻ったら、部屋にもうひとりいたから』
私は何も言えなかった。
『私と同じ服を着て、濡れた白い傘を持って、ベッドに座っていました。顔は見えなかった。でも、あれが立ち上がる前にドアを閉めたことだけは覚えてる』
喉の奥が乾く。暗い室内を見回したくなかった。
『フロントに電話したんです。部屋を変えてほしいって。でも誰も出なかった』
時計を見る。夜勤の私は、去年の六月にはまだここで働いていない。
『だから私は廊下に出て、ずっと待っていた。朝までいたはずなのに、誰も私を見なかった』
女の声はそこで少しやわらかくなった。
『ねえ、白い傘、そちらにありませんか。あれを置いてきたままだと、私はたぶん、いつまでも戻ってしまう』
そのとき、開けたままのカーテンがふわりと膨らんだ。窓は閉まっているのに、湿った風が部屋を横切った。
ベッドの上に、細長い影がひとつ増えていた。
誰かが腰かけている形だった。街路灯を背にして、顔は見えない。膝のあたりに、たしかに白い傘が置かれている。骨が一本だけ、歪んでいた。
私は動けなかった。影の手が、傘の持ち手をゆっくり撫でた。
受話器の向こうで、女が小さく息をのむ。
『そこにいるんですね』
影は立ち上がらなかった。ただ、こちらを見ているのがわかった。目鼻はないのに、見ていることだけがはっきりとわかる視線だった。部屋じゅうの湿り気が、その視線に変わったみたいに。
「……あります」
私はやっとそれだけ言った。
『よかった』
女は泣きもしなかった。ただ、長い間閉めきっていた窓が少しだけ開いたときのような息をついた。
『では、フロントで預かっておいてください。次に戻ったとき、もう手ぶらで済むように』
電話が切れた。
同時に、ベッドの上の影も消えた。白い傘だけが残っていた。濡れているのに、シーツには水滴ひとつ落ちていない。
私はそれを持って一階へ下り、傘立てのいちばん奥に差した。透明な持ち手に、爪で引っかいたような細い線が何本もついていた。よく見ると、それは傷ではなく、日付だった。
六月二十七日。
同じ日付が、見えるぶんだけで七つ刻まれていた。
翌朝、引き継ぎに来た支配人へ昨夜のことを話すと、彼はしばらく黙ってから、地下倉庫へ降りていった。戻ってきたとき、古い宿泊台帳を一冊持っていた。
去年の六月二十七日、四一二号室。宿泊者名の欄は雨ににじんで読めなかったが、備考欄にだけ短く書き込みがあった。
「傘預かり、未返却」
支配人はそれを見せたあと、何事もなかったように台帳を閉じた。
「夜はね」と彼は言った。「預かったものを、返しそびれると長引くことがある」
その言い方が妙に慣れていて、私はそれ以上聞けなかった。
それから四一二は改装まで使われなくなった。けれど雨の強い夜だけ、フロントの内線が一度だけ鳴ることがある。取ると、たいてい雨の音しかしない。
私はもう四階へは上がらない。
ただ、傘立ての白い一本だけは処分しない。朝になるといつも乾いていて、夜になるとまた、持ち手の傷がひとつ増えているからだ。
次の六月二十七日まで、あと三日しかない。