短編
雨継ぎの手紙
雨の日だけ開く古い傘修理店で、配達員の青年は誰にも渡せなかった手紙の行き先を見つける。
六月に入ってから、朝比奈透の配達鞄はいつも少しだけ重かった。実際に荷物が増えたわけではない。雨が続くと、アスファルトも信号機も、軒先に積まれた段ボールも、どれも水を吸って黙りこむ。その沈黙が、肩紐のあたりにじわりと乗ってくるのだ。
透は商店街の外れにある配送所で働いていた。配るのは書類や小包、急ぎの贈り物、だれかの暮らしの切れ端みたいなものばかりで、本人はよく「町の毛細血管だ」と言っていた。詩人ぶっているつもりはなく、そう言うと先輩が笑うので、結果として気に入っている表現だった。
その日も、昼前から本降りになった。スマホの地図は水滴で曇り、レインコートの袖口から冷たい筋が手首へ流れ込む。商店街のアーケードを抜けたところで、透のビニール傘はとうとう骨を一本、ぐにゃりと曲げた。
「うわ」
風にあおられて、傘は情けないひしゃげ方をした。コンビニで新しいのを買うか、と透が諦めかけたとき、見慣れない看板が目に入った。
雨継ぎ堂。
古びた木の札に、白い字でそう書いてあった。昨日まで無かった気がする。商店街には長いこと配達しているが、少なくとも透の記憶にはない店名だ。入口には紺の暖簾がかかり、その端からぽたぽたと雫が落ちている。
荷物の配達途中だったが、傘がなければ話にならない。透は軒先で靴の水を軽く払ってから、店に入った。
中は薄暗く、けれど陰気ではなかった。雨音が遠くなり、代わりに糸を引くような静けさがあった。壁には柄の違う傘がいくつも吊られ、番傘、蛇の目、透明傘、子ども用の黄色い傘まで、色とりどりの丸い影を床に落としている。奥の作業台では、白髪の女が一本の傘をひっくり返していた。
「いらっしゃい。骨か、生地か、持ち主の心か」
「え」
「壊れた場所を聞いてるの」
女は顔を上げた。七十代くらいに見えるのに、目だけは妙に若かった。透は手の中のひしゃげた傘を見せる。
「骨です。たぶん。あと、持ち主の心は急いでます」
「じゃあ先に骨ね。心は待ってもらう」
女はくすりともせずに言い、透の傘を受け取った。手つきは鮮やかで、曲がった骨を一本ずつ確かめる。ペンチも針も見当たらないのに、彼女の指が布をなぞるたび、傘は少しずつ元の形へ戻っていった。
透は息を呑んだ。
「……すごいですね」
「修理屋だもの。それよりあんた、鞄の中に濡らしちゃいけないものがある」
「全部そうですけど」
「そういう意味じゃないよ」
女の視線が、透の配送鞄の側面に向いた。防水の布地、その外ポケットに、知らないうちに白い封筒が一通差さっていた。
透は眉を寄せた。今日扱う荷物の中に手紙はない。宛名も切手もなく、封はされていないのに、紙だけが雨に濡れた様子もなく乾いている。
「こんなの、入れた覚え……」
「雨の客が預けていったんだろうね」
「雨の客?」
「行き先があるのに渡せなかった言葉は、雨の日にたまに紛れこむ。うちで傘を直した人間は、たまに拾うよ」
冗談めかした口調ではなかった。透は思わず笑いそこねた。
「それ、どこに届ければ」
「書いてあるよ。開けてごらん」
勝手に読んでいいものか迷ったが、封筒の表にも裏にも何もない。中の便箋を引き出すと、そこには万年筆の青い文字が並んでいた。
――春野写真館の人へ。シャッターを切る前、いつも「そのままでいいですよ」と言ってくれて、ありがとうございました。
文は短かった。差出人の名前はない。続きに、たった二行。
――あの日、遺影なのに笑ってしまってすみません。
――でも、あのとき本当に少し救われました。
透は便箋から顔を上げた。
「春野写真館って、まだありますよ。二丁目の角に」
「なら配達しな」
「いや、でも、これ誰からの」
「さあね。心当たりがある人にしか、届いても意味のない手紙だよ」
直した傘を返される。骨はきれいに戻り、さっきまでの歪みが嘘のようだった。
「代金は?」
「帰りに、話をひとつ置いていきな」
「話」
「今日はまだ雨がやみそうにない。話のほうが乾くのに時間がかかるから」
よく分からないまま、透は店を出た。看板の字は雨に滲まず、くっきりと白かった。
春野写真館は、昔ながらの店構えだった。ショーウィンドウには七五三や成人式の写真が並び、少し色褪せた笑顔がこちらを見ている。店主の春野は六十前後の男で、丸眼鏡をかけ、レンズ拭きで何かを磨いていた。
「配達じゃないんです。あの、これ」
透が事情をできるだけ削って封筒を差し出すと、春野は訝しみながら便箋を開いた。そして、二行目を読んだところで、ぴたりと動きを止めた。
「……ああ」
それだけ言って、椅子に腰を下ろす。透は急に、自分が踏み込んではいけないところへ来た気がして、帰ろうとした。
「君」
春野が呼び止めた。
「その手紙、どこで?」
「雨継ぎ堂っていう傘修理店です」
「そうか。まだ、あるんだな」
「知ってるんですか」
春野はしばらく返事をしなかった。店の奥で壁掛け時計が一度鳴る。
「妻が亡くなった年、私は遺影を撮ったんだ。写真館なのに、自分の家族の顔になると、どう撮っていいか分からなくなってね。結局、師匠だった人に頼んだ。その人が、シャッターの前で泣き崩れそうな私に『そのままでいいですよ』と言った」
便箋を持つ手がわずかに震える。
「ひどい顔で笑ってしまったんだ。場違いなくらい。けど、あの一枚があったから、私は店を閉めずに済んだ。礼を言う前に、その師匠は亡くなった」
透は息をのみ、もう一度、紙の青い文字を見た。差出人は書かれていない。それでも、この手紙がどこから来たのか、なんとなく分かる気がした。
「受け取って、よかったですか」
「よかったとも」
春野は笑った。窓の外の雨よりも静かな笑いだった。
「言葉は遅れて届くことがある。写真より、ずっと遅くね」
店を出るころには、透の鞄は少し軽くなっていた。
配達の残りを終えて夕方、透は雨継ぎ堂へ戻った。看板はまだそこにあり、暖簾の端から相変わらず雫が落ちている。
白髪の女は、子ども用の黄色い傘に新しい留め具をつけていた。
「届けてきたかい」
「はい。あの手紙、たぶん亡くなった人からのものでした」
「たぶんね」
「驚かないんですね」
「雨は境目を曖昧にするから」
彼女は糸を噛み切るみたいに言った。
「で、代金の話は?」
透は少し考えた。今日あったことをそのまま話せばいいのかもしれないが、それだけでは足りない気がした。
「配達って、届けば終わりだと思ってました。でも今日、届いたあとにやっと始まるものもあるんだって分かりました」
「いい話だ」
「あと、たぶん俺、この商店街が好きです。濡れるし古いし、道は狭いし、すぐ傘も壊れるけど」
「それはもっといい話だ」
女は満足そうにうなずいた。
「じゃあ代金はそれで」
「安くないですか」
「高いよ。好きだと言った町からは、簡単に離れられなくなる」
透は苦笑した。たしかに、その通りかもしれない。
店を出ると、雨は小降りになっていた。空はまだ厚い雲に覆われているのに、どこか明るい。透は直った傘を開いた。骨はしなやかで、布を打つ雨粒の音まで少しやさしく聞こえる。
翌日、商店街の地図を見直しても、雨継ぎ堂の場所には空き店舗としか書かれていなかった。先輩に聞いても、そんな店名は知らないと言う。透は昼休みに現地まで行ってみたが、そこには閉じたシャッターと剥がれかけたテナント募集の貼り紙があるだけだった。
拍子抜けするほど、何もなかった。
それでも、その日の午後、春野写真館へ書類を届けに行くと、店主はレジ横に小さな額を置いていた。若いころの自分と、隣で笑う妻の写真。その下に、万年筆で書いた短い札が添えられている。
――そのままでいい。
「新しい飾りですか」と透が聞くと、春野は「届いたもののお返しだよ」と言った。
帰り道、透はアーケードの切れ目で立ち止まり、空を見上げた。次に雨継ぎ堂が現れるのがいつかは分からない。でも、もしまた知らない手紙が鞄に紛れこんでいたら、そのときは少しだけ胸を張って運べる気がした。
町には、急ぎの荷物と、急がなくていい言葉の両方が流れている。透はそのあいだを、自転車で走る。水たまりをよけ、信号を守り、ときどき遠回りをしながら。
雨の匂いのする風が吹いた。透は傘をたたまず、そのまま商店街の奥へ進んでいった。