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短編

雨札七番

駅の遺失物係として働く青年は、持ち主のない傘に付いた札を通して、誰かが手放せなかった記憶の重さに触れていく。

Genre
現代幻想
Series
単発
#雨#遺失物#記憶#駅#手放すこと

雨の日の駅には、忘れものが増える。

とくに傘は、ひとつの天気が終わるたびに、誰かの手から簡単に離れてしまう。朝の改札では確かに握っていたはずなのに、夕方にはもう、自分のものだったことさえ曖昧になる。遺失物係の部屋には、そんな曖昧さが骨のように積み上がっていた。

ビニール傘、黒い折りたたみ、紺地に細いストライプ、持ち手に犬の顔がついた子ども用の傘。一本ずつに札を結び、拾得場所と日時を書いて、三か月保管し、それを過ぎたら処分する。仕事は単純で、雨の日ほど忙しい。

私はその部屋に、四年いた。

改札の騒音から少しだけ遠い場所にあるせいか、ここにはいつも、濡れた布と紙が乾いていく匂いがあった。人が急いで通り過ぎる駅の中で、ここだけ時間がよどんでいる。忘れられた物たちは、持ち主のいないまま、妙に静かだった。

彼女が最初に来たのは、六月の終わりだった。

「傘を、探していて」

年齢の見当がつきにくい人だった。若くも見えるし、疲れている日はずっと年上にも見える、そういう顔つきの人。薄い灰色のシャツの袖口が雨で少し濃くなっていた。

「どんな傘ですか」

「透明で、持ち手が木なんです。よくある形ですけど、柄のところに小さな傷があって」

よくある形の傘ほど、探すのは難しい。彼女自身もそれをわかっているらしく、説明のたびに少し申し訳なさそうな顔をした。

「いつ頃なくされましたか」

「三日前です。たぶん、二番線のホームか、階段か……はっきりしなくて」

私は帳面をめくり、その日付の札を確認した。同じような透明傘は七本あったが、どれも違った。彼女は一本ずつ目を落とし、最後に、小さく息を吐いた。

「そうですか」

それで終わると思ったが、彼女は帰り際に、木の持ち手を握るような形で自分の手を丸めた。

「父の傘だったんです」と彼女は言った。「なくしたのは私なんですけど」

私は返す言葉を持たず、「届いたらご連絡できます」とだけ伝えた。彼女は頷いて、連絡先を書き、濡れたホームの方へ戻っていった。

それから、彼女は二週間に一度くらい来た。

毎回、同じ傘を探した。透明で、木の持ち手、小さな傷。何番線のどこで失くしたかは曖昧なままなのに、持ち手の傷についてだけは詳しかった。爪で何度もなぞったように浅く白くなっていて、光が当たると魚の骨みたいに見えるのだと。

「そんなふうに見えるんですか」

「はい。父は待つのが嫌いな人で、信号でも病院でも、暇があると爪で何かを削っていたので」

彼女は話してから、余計なことでしたね、と少し笑う。その笑い方は乾いていて、それなのにどこかやわらかかった。

夏が深まるにつれ、忘れものの傘はさらに増えた。急な夕立、局地的な豪雨、晴雨兼用を持つ人も増え、遺失物室の棚はすぐいっぱいになる。私は閉室後、一本ずつの札を付け直すことが増えた。湿った紙はほどけやすい。インクは滲む。字が読めなくなれば、その傘はますます誰のものでもなくなる。

ある夜、私は処分予定の傘をまとめていた。札の日付は春の終わりで止まっている。黒い傘の束の下から、一本だけ透明傘が出てきた。木の持ち手。手に取ると、艶の抜けた部分に、細い傷が幾筋か残っていた。

魚の骨、というより、乾いた葉脈にも見えた。

帳面には記載がなかった。たぶん札が外れ、どこかの束に紛れ、記録からこぼれ落ちたのだろう。そういうことは、ときどきある。規則では、記録不明の保管物は一定期間の後に処分する。

私は傘を開いた。ビニールは少し白く曇っていたが、破れはない。天井の蛍光灯が、水の底のようにぼやけて映った。

翌日、彼女が来た。

見るなり、私は少し躊躇した。あの傘をすぐに出すべきか、記録が曖昧なものを見せるべきでないのか。規則は簡単だが、人の手放せなさは簡単ではない。

「何か、ありましたか」

彼女のほうが先に、私の迷いを見抜いた。

私は保管棚の奥から、その傘を持ってきた。

彼女は受け取る前に、一度だけ私の顔を見た。期待というより、失望する準備をしている人の目だった。それから持ち手に触れ、親指で傷をなぞった。長い沈黙があった。

「違うかもしれません」と私は言った。「記録がなくて、断定できなくて」

彼女は傘を閉じたまま、胸の前で抱えるように持った。

「……違います」

私は、そうですか、と答えた。少しだけ安堵し、同じだけ落胆した。

けれど彼女は帰らなかった。

「父の傘は、もっと軽かった」と言った。「木も、もう少し明るい色で。でも、こんな手触りでした」

彼女の指は、持ち手をなで続けていた。持ち主を確かめるというより、そこに残っている時間を拾い上げるように。

「父が亡くなってから、家のものをずっと片付けられなくて。食器も、本も、古いシャツも、ほとんど箱のままなんです。でも傘だけは使っていたんです。持って外へ出れば、少しだけ一緒に歩ける気がして」

遺失物室の壁に、遠くのアナウンスが薄く響いた。何番線に何分遅れ。誰かが走る靴音。ここだけが取り残されているようで、外の時間がかえって遠かった。

「たぶん」と彼女は続けた。「探していたのは傘じゃなかったんです」

私は何も言わなかった。言えば、その言葉はすぐ説明になって、壊れる気がした。

彼女は傘を私に返そうとして、やめた。

「これ、引き取ってもいいですか」

「記録がないので、すぐにはお渡しできません。所定の手続きが必要です」

そう答えながら、自分の声が少し冷たいと思った。けれど、それを崩すと、ほかの何かまで曖昧になる気がした。

彼女は静かに頷いた。「そうですよね」

それから、ふっと笑った。今まででいちばん自然な笑い方だった。

「でも、よかったです。こういうものだったって、思い出せたから」

彼女は連絡票を新しく書き直した。古い紙は角が擦り切れていたので、私は黙ってそれを回収した。新しい紙の文字は、前より少しだけ大きく、まっすぐだった。

彼女が帰ったあと、私はその透明傘に新しい札をつけた。白い紙に、仮保管七番、と書く。規則にはない番号だったが、自分の中では必要な区別だった。棚のいちばん端、捨てる束にも返却待ちの列にも入らない場所に立てかけた。

それから私は、札を付け直すとき、少しだけ書き添えるようになった。

黒布、石鹸の匂いあり。
子ども用、黄色い泥のはね。
透明、持ち手に爪の跡。

誰が読むわけでもない。帳面にも載らない。けれど物は、ときどき名前より先に手触りで覚えられている。忘れたはずの人の気配は、値段にも形式にもならないところに残る。

九月のはじめ、彼女に連絡した。

手続き上、引き取り可能になったことを伝えると、電話の向こうで少しだけ沈黙があった。「行きます」と彼女は言った。

その日は、雨ではなかった。

彼女は前と同じ灰色のシャツで来たが、袖は乾いていた。私は傘を渡し、受領の紙を差し出した。彼女は署名してから、持ち手をひとつ撫でた。

「使いますか」と私が聞くと、彼女は首を横に振った。

「しばらく置いておきます。でも、前みたいには握らないと思う」

それで十分なのだろう、と私は思った。失くしたものが戻ることと、失くしたままでいられることは、たぶん別の救いだ。

彼女は帰り際、ドアのところで振り向いた。

「あなた、傘に札をつける字、前よりやさしくなりましたね」

見られていたことに驚いて、私は少し笑った。「そうですか」

「はい。もののためというより、人のための字です」

彼女が去ったあと、遺失物室に午後の光が細く差し込んだ。棚の透明傘たちは、その光を曖昧に受けて、どれも少しずつ違う色に見えた。

次の雨で、また忘れものは増えるだろう。札は増え、期限は来て、誰のものでもなくなる物が出る。けれどそのたびに、私は思い出すのだと思う。人は物を失くすのではなく、そこに触れていた時間の形を失くすのだと。そしてときどき、まったく別の手触りによって、それを静かに受け取り直すのだと。

窓の外では、まだ降っていない雲が、川のように空を渡っていた。私は新しい札の束を揃え、いちばん上の紙に、何も書かずにしばらく指を置いた。