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短編

雨の日の言い残し窓口

市役所の「言い残し窓口」で働く青年は、亡き夫に言えなかった一言を受け取りに来た老女と出会い、愛情が最もよく宿るのは平凡な言葉なのだと知る。

Genre
現代幻想
Series
単発
#雨#言葉#市役所#喪失#家族

市役所の地下には、地上の人間が知らなくても生活に支障のない部署がいくつかある。

たとえば、忘れもの係のさらに奥にある、言い残し窓口。

正式名称は「未伝達音声保管室受付」で、ぼくはそこの会計年度任用職員だった。仕事は単純で、人が言いそびれた言葉を受け取り、分類し、必要があれば返却する。地下三階は年中ひんやりしていて、蛍光灯はいつも曇り空のような色をしていた。棚には小瓶が並んでいる。瓶の中には目に見えない言葉が入っていて、耳を近づけると、遠い台所や改札口や病室の気配だけがかすかにする。

「ありがとう」は多い。
「ごめん」も多い。
意外に多いのは、「気をつけて」だった。

そういう言葉は大抵、言われなくても相手がなんとか生きていけたせいで、行き場を失ってここへ流れてくる。

雨の火曜日、閉庁後の窓口に老女がひとり来た。
髪はきちんと結われて、濡れた傘の先からぽたりぽたりと床に雫を落としていた。番号札を取る必要はない時間だったが、彼女は律儀に発券機の前に立ち、何も出てこないのを不思議そうに見ていた。

「どうされました」
と声をかけると、老女は少し安心した顔で鞄から紙片を出した。

黄ばんだ引換証だった。角が丸くなり、印字は半分ほど薄れている。
発行日は四十二年前。
案件種別は「家庭内日常会話」。
保管理由は「喉元停滞・軽度後悔」。
未伝達文言は閲覧制限がかかっていた。

「これを」と老女は言った。「受け取りに来ました。まだ、ありますか」

四十二年前の案件は珍しい。保管期限は原則三十年だが、強い感情の付着した言葉だけは例外的に残ることがある。ぼくは引換証の番号を端末に打ち込み、地下のさらに奥にある冷蔵保管棚の扉を開けた。

そこには、ほこりひとつかぶらない小瓶があった。
ラベルには手書きで、五月十六日、朝、雨、とある。

瓶を持つと、かすかに冷たかった。
雨の日の言葉は、少し低い温度を保つ。

窓口に戻ると、老女は膝の上で手を揃えていた。待っているというより、昔の自分に追いつかれないよう静かにしている姿だった。

「返却には確認事項があります」とぼくはマニュアルどおりに言った。
「この返却は過去を変更するものではありません。当時伝わらなかった事実は変わりません。受け取れるのは、言葉の輪郭と、そのとき込められていた感情の一部だけです」
「ええ」
「また、返却後に強い動揺を覚える場合があります」
「たぶん、四十二年も持っていたので、大丈夫です」

大丈夫です、と言う人は、たいてい大丈夫ではない。
けれどそれを言うのは、うちの部署の仕事ではなかった。

「どうして今、受け取りに」
そう尋ねると、老女は少し笑った。

「今朝、雨だったでしょう」
「はい」
「夫が死んだ日も、こんな雨でした。若いころのわたしは、雨が降ると洗濯物のことばかり気にしていてね。あの日も、出かける夫の背中を見ながら、言うつもりのことがあったのに、結局、別のことを考えてしまった」

夫はその日の帰り道で倒れ、そのまま帰らなかったのだという。
何か大きな告白を言えなかったのだと、ぼくは思った。愛していたとか、感謝していたとか、どうか長生きしてとか。そういう、人の一生を代表してしまいそうな言葉。

「開封します」

瓶の栓をゆるめると、地下室の空気が少しだけ雨の匂いを帯びた。
蛍光灯が一瞬暗くなり、言葉が音になるための助走をとる。
そして、小さな声が窓口のあいだに落ちた。

「傘、持ってって」

それだけだった。

若い女の声だった。忙しい朝の、少し喉の乾いた声。愛想のいい言い方ではない。台所から顔も出さず、背中に向かって投げるような、ありふれたひと言だった。

老女は目を閉じた。
それから、肩をほんのわずかに揺らした。

ぼくは何も言わず、栓を机の上に伏せたままにした。返却された言葉は、受取人が十分に聞き終えるまで、室内に留まる。

「もっと別のことだと思っていました」
老女はしばらくして言った。
「ありがとう、とか。あのころは苦労ばかりかけてごめん、とか。そういう立派な言葉を、わたしは言えなかったんだと思い込んでいました」
彼女は目を開け、少し笑った。泣き顔の前で立ち止まったような笑みだった。
「でも違ったのね。ほんとうに喉まで出かかっていたのは、傘のことだった」

窓口の外では、換気ダクトの向こうを雨水が流れていく音がしていた。

「夫は、忘れっぽい人だったんです。春でも秋でも、すぐ傘を置いていく。わたしはいつも腹を立てて、でも結局、玄関まで追いかけて渡していた。あの日だけ、洗濯物が気になって、追いかけなかった」
「それで」
「だから、ずっと大きな愛情を言えなかったのだと思うことで、自分をごまかしていたのかもしれません。ほんとうは、毎日の小さな世話の中に、言うべきことは全部混ざっていたのに」

返却済みの言葉は、十分ほどで空気に溶ける。
「傘、持ってって」は、その場にふわりと残って、地下の冷たい蛍光灯の下で、ひどくあたたかいもののように思えた。

老女は引換証を鞄に戻し、立ち上がった。
「受け取りに来てよかった」
「そうですか」
「ええ。あの人に届かなかったのは変わらない。でも、わたしが何を渡そうとしていたか、やっと自分で受け取れましたから」

窓口を出る前に、彼女は振り返った。

「あなたにも、誰かいますか。言い残している人」
規則では私語にあたるので、本来なら答えなくていい質問だった。
けれど地下三階の規則は、だいたい地上の都合でできている。

「妹がいます」
「じゃあ、立派なことじゃなくていいから、早めにね」
老女はそう言って、濡れた傘をひらかないままエレベーターへ歩いていった。

その夜、閉室作業を終えて地上に出ると、まだ雨が降っていた。
市役所の庇の下で、ぼくはスマートフォンを取り出した。妹とは半年ほど連絡を取っていない。仲が悪いというほどではない。ただ、互いに無事なのを確認できる程度の距離で、なんとなく止まっていた。

何を書くべきか考えて、いちど「元気?」と打ち、消した。
「この前は悪かった」も違う気がした。
「今度会おう」では、少しよそよそしい。

結局、送ったのは、
「今日、雨すごいけど洗濯物入れた?」
だった。

送信してから、自分でも拍子抜けした。
けれどその一文には、心配も、照れくささも、会っていない時間の長さも、たぶんちゃんと入っていた。

しばらくして返信が来る。

「入れた。そっちは傘持った?」

ぼくは市役所のガラス扉に映る自分を見た。
手ぶらだった。
地下から地上に戻るとき、雨脚のことを忘れていたらしい。

笑ってしまい、庇の外へ一歩出た。
春の終わりの雨は思ったより冷たくなく、額に落ちた雫は、言いそびれた言葉がようやく居場所を見つけたときの重さに、少し似ていた。